胃、大腸、肺と3度のがん手術を経験した東京都江東区のタクシー運転手、谷口健一さん(68)。かつてはたばこを1日に1箱吸うスモーカーだった。がんが見つかった後も、即座に禁煙したわけではない。

 谷口さんの最初のがんは18年前。腹痛で近所の診療所を訪ね、胃潰瘍と診断された。薬で痛みを抑えていたが、激痛に襲われた。精密な検査をしてみると、なんと「胃がん」だった。

 都内の病院を紹介されたが、「がんなら専門病院がいいはず」と国立がん研究センター(東京都中央区)を受診。「ステージ3」で胃の3分の2を切った。手術後も喫煙は続けていた。

 「たばこを吸っても、感覚は手術前と同じ。せき込んだりむせたりの症状も出なかったから」

 それでもやめる決意をしたのは、新たに3年前に大腸がんが見つかったときだ。「ステージ3」で、大腸を7センチ切る大手術だった。主治医に「たばこをやめないと、医者に見放されるよ」と冗談とも脅しともつかない注意を受け、「それは困る」と禁煙に踏み切った。その後、肺がんの手術も受けたが、経過も順調で、仕事に復帰を果たした。

 たばことがんの関係は、医療機関でさえ、最近までゆるやかな環境があった。

 「僕が国立がん研究センターに最初に入院したころは、上層階に喫煙室があって、がん患者であふれていた。点滴の管がつながったまま機器をひいて、喫煙室に来る患者もいたほど。そのころは医師もたばこに厳しくなく、『やめろ』とは言わなかった」。谷口さんはこう振り返る。

 今ではがん病棟での喫煙は患者に限らず、ありえない光景となった。喫煙室は屋外に移動し、ついには敷地内でも原則的に許されなくなっている。

 帝京大大学院の矢野栄二教授(公衆衛生)は「たばこ会社もたばことがんの関係については認めているほど、たばことがんの因果関係はすでに医学的には定説となっている」と話す。

 矢野氏によると、がん患者のうち、男性で30%、女性で5%がたばこが原因とみられている。また、厚生労働省が40〜59歳の4万人を対象に平成2年から10年間にわたって行った追跡調査(「JPHC」=多目的コホート研究)では、喫煙者のがんでの死亡率は非喫煙者に比べ男性で1・6倍、女性で1・9倍と高いことも示された。

 しかし、近年では「非喫煙者でも肺がんになるケースが増加している」とがん研有明病院(東京都江東区)の西尾誠人医師(呼吸器内科部長)は話す。これにはある遺伝子の変異が関係していた。

 「私はたばこを吸ったことがない。なぜ肺がんになったのか」

 千葉市緑区の主婦、佐藤美恵子さん(65)は6年前に肺がんという診断を受け、もんもんとした思いにとらわれた。自治体の健診でエックス線検査は毎回「異常なし」の診断だった。佐藤さんも一緒に暮らす夫も喫煙習慣はない。

 最初の異変は平成24年3月ごろから夏にかけ、ひどいせきが続いたことだった。たまりかねてクリニックで検査をすると、肺の画像で「雲のようなモヤモヤ」が見つかった。

 異常はあるが、診断は定まらず、がん研有明病院(東京都江東区)に転院。左の肺に直径13センチの白い影を確認し、手術で切除した。病理検査の結果、「非小細胞肺がん」の一つである「腺がん」とわかった。

 肺腺がんは主に肺の気管支の末端の分泌腺に出現するがんだ。近年、非喫煙者でしかも女性に多く発症している。

 国立がん研究センターは28年8月、「受動喫煙の肺がんリスク評価は確実である」とする研究結果を発表した。反論も発表されたが、非喫煙者でも肺がんになる可能性があるという指摘をさらに強めたといえる。たばこの燃焼部分から出る副流煙は、フィルターを通しておらず、燃焼温度も低いため主流煙よりも多くの有害物質を含むというのがその理由だ。この有害物質は「非小細胞肺がん」の一つ、「扁平(へんぺい)上皮がん」との関係が指摘される。

 ただ、この扁平上皮がんは、佐藤さんが患った腺がんとは進行具合など病態も治療法も大きく異なっている。

 腺がんは、最新の研究で「EGFR」という遺伝子の変異が発病の引き金となっていることもわかってきた。驚くべきは喫煙の有無との関係だ。がん研究センターなどのデータによると、喫煙者の患者のうちEGFRの変異が認められたのは約30%だった。これに対し、非喫煙者の患者ではその倍の約60%だったのだ。腺がんの非喫煙者のリスクを見れば、「たばこを吸わないから肺がんにはならない」というのは早合点といえる。

 ただでさえ、肺がんの早期発見は難しい。がん研有明病院の西尾誠人医師は「肺の周辺には大きな血管や心臓などがあり、それらに隠れたりすると肺がんの影は検診のレントゲンには映らないこともある」という。コンピューター断層撮影(CT)検査でより詳しくチェックすることもできるが、早期発見につながるとはかぎらない。遺伝子の変異から引き起こされる腺がんはなおさらだ。

 では、腺がんの治療法はあるのだろうか。日本肺癌(がん)学会による診療ガイドラインでは、EGFR遺伝子の変異があると認められると、「イレッサ」(一般名ゲフィチニブ)など、がん細胞の増殖にかかわる特定の分子を狙いうちにする分子標的薬の服用が推奨される。新世代のEGFR阻害薬「タグリッソ」(一般名オシメルチニブ)も28年に保険適用となり、治療の選択肢が次第に広がっている。

 佐藤さんの腺がんは「切除不能または再発の非小細胞がん」と診断され、免疫チェックポイント阻害剤「オプジーボ」(一般名ニボルマブ)の適用基準に該当した。2年間の投与で、転移したがんは明らかに小さくなってきた。副作用で高熱が出ることもあるが、今は、学生時代に所属していた合唱サークルの練習に参加するほど活力を戻している。

 「来月、千葉県内で開かれるベートーベンの『第九』のメンバーに選ばれたんです」と、生きる喜びをかみしめている。