クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

アーカイブ 寺尾の主・新田義重の独り言 H-20-2-8

2021-09-09 10:33:51 | 伝説・史跡探訪
雨天の連続で逼塞状態、徒然に13年前の記事を再録。
爺イの好きなへそ曲がり武将・寺尾の主との架空話。

最近はこの墓所を訪れる者が目っきり少なくてワシもすっかり
忘れられたようだ。たが、つい今しがた、白髪の爺イが
久し振りに墓所まで登って来て写真を撮ったら日向で
うつらうつらしていたので長い長い昔話を聞かせてやった。
終ると挨拶も無しにすたこら帰ってしまったんだが、
聞いていたのかな?その話ってのはこうだ。

ワシの祖父は知っての通り、武人の誉れ高い義家様だが、
その晩年は苦労の連続でな、後三年の役で藤原清衡に結局は
手玉に取られたのがケチの付き始め。
源氏の評判に危機感を持った平氏が朝廷と組んで徹底的な
源氏の淘汰を始めたのよ。義家様のご兄弟、ご子息たちが
尽く姦計に嵌って残った直系は未だ子供だった為義だけに
なっちまった。そして義家様も不遇のうちに1106年に
亡くなってしまつたのさ。

ところが義家様はとんだ所に落し胤を残していたんだ。
それが足利に居たワシの父親の義国じゃ。実はな、
足利は頼義様の時から奥州遠征の拠点の一つだったんで
義家様もしばしば来られたのさ。そうすればそれ、
女子が付いて廻るわな。
当時の足利は秀郷の子孫のものだったがな、その当主の
娘に生ませたのが我が父よ。父は長じて足利の権力と結んで
農地を開墾し勢力圏を伸ばし京にも出入りして地位を
固めていた。そんな時、父は藤原宇合の血筋の
上野介の娘とくっ付いてワシが生まれたのさ。
1114年頃と聞いている。
しかし、血筋のせいかオヤジも好き者でな、
今度は村上源氏の信濃守の娘に子を産ませてしまった
のさ。それがワシの弟・義康だ。
この時、オヤジは46歳ぞ、達者なものよのう。
所がオヤジ殿はこの子を溺愛してな、足利領を
そっくり呉れちまったのさ。そんで弟は足利の祖
だとよ。新田と足利の血の抗争はここから
始まったんだ。

でもワシはオヤジ殿に付いて京に行き、せっせと
ゴマ摺って官位を得ていた。ここで大事件、
確か1150年だったと思うが、オヤジ殿の郎党が事も
あろうに狼藉して後の左大臣・藤原実能の屋敷を
焼き払ったんだ。これで万事休すよ。オヤジ殿は
隠居・謹慎でスゴスゴと下野下向。
数年後にはワシも戻ってせっせと野良稼ぎよ。
開墾は新田だけじゃないぞ。多胡郡・緑野郡・
碓氷郡・片岡郡に及ぶ広大な土地成金だ。

こちとらは開墾で汗流している時、保元の乱が起きた。
弟の義康は参陣して
義朝・清盛の軍について運良く勝利。ワシは日和見を
決めこんで知らん顔して居たさ。だが、為義・為朝など
源氏は大打撃、残ったのは義朝系列だけ。

この頃から源氏と平家の対立は厳しくなったがの、
ワシは源氏でも義朝にはつかずにどっちかと言えば
平家に擦り寄ったさ。
だけど娘を義朝の乱暴息子の義平の嫁にしたりして
源氏と縁切りした訳じゃない。
おまけに1159年の平治の乱の時もワシは中立
じゃったし、弟の足利にも参陣させなかったのよ。
義平が斬られたときも娘をそっと新田の庄に
引取ったさ。こうしてな、頼朝・義仲・義経が
逼塞してる間にもせっせと京に出仕して位を上げて
いったんだ。まあ、こう云うのを旨いとでも言うのかいな。

平穏に数十年が過ぎた頃、突然以仁王と頼政が
騒ぎを起こしよった。
全く迷惑な話よ。漸く落ちついたら今度は伊豆で
頼朝、木曾で義仲が。
確かにワシの所にも令旨は届いて居たさ。知らぬ奴輩は
ワシが最初から寺尾に引き篭もって動かなかったというがな、
実際はこの頃、平宗盛様に
従って京に居たんだ。それで九月になってから頼朝を
討てと言われて関東に向かったのよ。ところが義仲も
挙兵したんで困ったよ。何故って
昔、ワシは義朝・義平と組んで義仲の父の義賢を攻め
殺した事があつてな、義仲にとってワシは親の敵
だからな、東山道を抜けるのに気を使ったもんだ。
寺尾に着いてからは頼朝からの参陣依頼も見ぬ振りして、
じっと様子を窺い兵を集めていたんだか。ワシは人に
屈せず第三の勢力に成りたかったのさ。

関東の平家武士共がこぞって頼朝に付いたのには
吃驚したが、頼朝も見る見る内に巨大勢力になり、
その内、富士川で平家を破った噂も聞こえてきた。
知らぬうちに息子の山名・里見や甥の足利義兼も
参加していて二度吃驚。
十二月になって渋々重い腰を上げて鎌倉に行ったん
だが、あの頼朝め増長しおつてワシに会おうとも
しない。ワシは源氏の長老ぞ、と怒鳴りたかったが
止めといた。もう、年だからな。山名も里見も
新田宗家を超えて上位ランク、時代は流れた。

それから少し経って頼朝の奴、事もあろうに義平
歿後はひっそり暮らしていたワシの娘にチョッカイを
掛けて来よった。こりゃ不味い、あの政子に知れたら
八つ裂きにされると言う噂もあった。何しろ病的に
嫉妬深いとか。ヤラレタ女が何人も居たようだ。
ワシは咄嗟に娘を助けるため、下級武士に呉れて
しまった。
頼朝が烈火の如く怒ったと聞いて、源氏の頭領に
幻滅を感じてさっさと隠居してしまったのよ。
まあ、もって生まれた変わり身の早さかな。

だから、この後の源平合戦には一切参加しな
かった。勿論息子の義兼も。
但し、足利の方は北條と縁戚になって旨く取り
入っていたな。
こうして新田一族は源氏宗家や北條と疎遠に
なったがワシは構わなかった。
ところが、1193年の頃、奴メがひょっこり
新田の庄に現れた。
何でも那須野で巻き狩りをした帰りだと言って
いたが、まあ、巻き狩りは軍事訓練だから精々やるが
良いさ。この時、漸く奴メと和解したのさ。

三原野の巻き狩り?あれは嘘っぱちだよ。23日に鎌倉を
出て那須で巻き狩り帰りの二三日はワシの所で遊んで
行って28日には鎌倉に帰っている。
高速道路や新幹線ではあるまいし、その間に浅間の
麓へ行ってる時間などあるかい?あれはな、曽我物語の
話だよ!つまり、お話の上の事。
じゃあ、萬騎峠や狩宿は何だって? そんなことワシの
知った事か!

それから五年、奴メが突然死におった。北條による
暗殺だとか、生き残った義経郎党の仕業とか色々言われ
るが、ワシは北條がクサイと思うよ。

それから又四年、いよいよワシの寿命も尽きた。
1202年の事だ。墓は寺尾・永福寺の他に尾島・満徳寺
近くの義季館にあるし、太田の義重山新田寺は家康が
ワシの為に呑龍上人を開祖として1613年に建てた物だ。

大きな声じゃあ言えんがの、ワシは一体何歳で
死んだんだろう。1202年に死んだのは確かだが、
一般に言う89歳歿なら1114年生まれだし、一説の
68歳なら1135年生まれだ。だが1135年では弟と
逆転してしまう。一体、ドレが正解なのかな?

まあ、ワシの自慢はな、子孫に新田義貞が出た事さ。
末期は不遇だったが
鎌倉を倒す原動力になったんだからワシは満足じゃ。
それとあの家康が源氏の系図が欲しくて新田に
目をつけ、割りこんできた事だな。源氏の中で目立たない
ようなのを選んだと言う奴も居るが、ワシの
遺徳に惚れ込んだんだろうが。

これでワシの長話も終りだ。
所でお前幾つになった? ふーん75歳か。白髪頭にしては未だ
駆け出しだの。よし、お前がワシの死んだ年、満で88歳に
なったらまた来いや!  ワシの墓が高崎にあるなんて
知ってるものも少くなったから達者で暮らせよ。

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