クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

吉井町史跡探訪 (1) 奥平城址  H-21-2-7

2009-02-08 10:32:44 | 伝説・史跡探訪
奥平城址
深山から中山へ行く途中で「奥平城址」に寄っている。
R-200を西進し吉井カントリーの少し手前で右への「吉井・安中線」を
右折、直ぐに左への細道に入ると路傍に表示。



城址の表示物はこれだけの呆気なさ。左手に登っても小広場で
行き止まりだが、ここも遺構か? 右手には人工的と思われる
堀のような物も見られる。
左手の竹薮を別けて山に登れば別の遺構もと考えられるが
登路もないので断念。
近くにある筈の仁捜寺跡を探す。地元の人に聞いて一寸離れた
山手の中腹に「矢島家」墓地。そこに碑が建ち奥平氏発祥の地
とされている。三河に移転しないで残留した人たちの子孫が
矢島氏と伝承されている。
「南朝の 砦のあとや 草千里」の句が刻まれている。



その前には幾つかの歴史を物語る五輪塔。



実はこの奥平氏については変転が激しく地元の印象が薄いと
感じていたが、その全貌が掴めていなかったから今回の訪問
を機会に整理した。
この奥平氏は後年、豊前・中津藩で維新を迎えているので資料は
そちらに多く、その記録には「上州奥平は山間の一村落に過ぎず」
と全く論外と云わんばかりの扱い。調べると確かにその程度だった。
歴史を遡ると皇族の血を引く「赤松氏」として関東へ下向し
頼朝に従い、鎌倉幕府成立後に甘楽郡司として下奥平に住み
「奥平氏」を名乗ったんだそうだ。
六代・定正の時代、義貞に組して幕府打倒に戦功を上げ、南朝方と
して活躍。だが、八代・貞俊の時に突如として三河・作手郷に移住、
理由は不明とされている。ほぼ同時期に寺尾に拠って南朝の活動を
いていた尹良親王とどんな関係にあったのかな?
奥平の在城は約200年、但し少数の者は残留と聞く。
残留組はずっと後に信玄の長野氏攻めの時に一蹴されて落城、
生き残りは「矢島姓」となって帰農し代々名主を務めたとか。
歴代村長さんに矢島姓が多いのは奥平氏の末裔かも知れない
とのこと。
さて、その後は爺イ得意の歴史小説の世界だから真偽のほどは?だ。
大久保彦左衛門の「三河物語」に拠ると奥三河の山間部に土着して
有力国人となり作手・亀山城を持ち、長篠の菅沼、田峰の菅沼と共に
「山家三方衆」と言われる。(津本陽・武田信玄)

どうやら11代の貞勝(道文入道)の頃は今川の輩下だったが桶狭間の
後は家康に鞍替えして「姉川の合戦(織田徳川vs朝倉浅井)」では
徳川軍。
然し、その直後の武田の南進防御の最前線に立たされ、秋山信友に
押し込まれて降参、何と「三方ヶ原」は武田軍で徳川と戦う。
だが、勝頼の時代に徳川との内通を疑われ、長篠の合戦直前に
徳川に逃亡、甲府に差し出していた人質は串刺しで惨殺される。
墓所は愛知県新城市鳳来山寺など。
そして寄せ来る武田に対して13代貞昌は長篠城主として捨て駒の
第一線で奮闘、父親の貞能は酒井忠次に属して鳶ヶ巣山への
奇襲隊で活躍、武田の猛攻に晒された長篠城の開放に貢献。
長篠・設楽ヶ原の戦いはこの奥平の裏切りに勝頼が激怒したのが
発端とも云われる。
鳥居強右衛門の逸話を生みながらも長篠城は持ちこたえ。
戦後は一族への論功で貞昌(後に信昌)が家康長女亀姫を正室に迎え、
家督相続をするが信長からの恩賞として「信」の一字を貰って
「信昌」と改名。




この後、新城に新城城を築く。場所は現・愛知県新城市(H-17に
旧新城市・鳳来町・作手村が合併)、東三河で静岡に接している。
新城城はそのまま現在の新城市の名前の由来とか。
徳川の重臣・石川数正の逃亡事件の後、かって武田家に居た事の
ある信昌は徳川の軍制に武田流を導入して改革に大貢献。
1590年以後の家康の関東入りに従って甘楽郡宮崎に三万石で
上州復帰。
つまり、小幡藩初代は奥平氏だった。因みに二代・水野氏
三代・永井氏。小幡の代名詞のような織田氏は四代目に過ぎない。
信昌夫人が家康の長女だったのでその子供たちは何れも家康の
外孫として厚遇される。
長男・家昌(家は家康から一字)、二男・家冶(14才没)、三男・忠昌
四男・忠明。
さて、1600年は関ヶ原の決戦、戦後に信昌は京の治安維持のため
京都所司代、西軍残党の安国寺恵瓊をも捕縛した事もある。
1601年、長男・家昌を小幡に残して三男・忠政を連れて
美濃加納10万石に転封。長男は翌年に宇都宮10万石に栄転し
本多忠勝の次女を正室に迎えるが1614年に38才で病死。
しかし、1717年に家昌から四代目の昌成が豊前・中津藩主となり
9代155年を経て明治維新。最後の藩主・昌邁は伯爵。
中津では5/21には長篠での信昌の激闘を偲んで「たにし祭り」が
開催されているそうである。従ってこれらが奥平は中津と言われる
由縁。今の大分県中津市。但し、この城は1587年黒田如水の
築城、小倉城との行き来はあるもののその後、細川・小笠原氏が
繋いで最後が奥平氏。因みに福沢諭吉がこの中津藩出身。
下の写真は五層の天守閣と二層の櫓の現中津城。S-39の建設。



現地の展示品




中津の奥平神社、吉井の扱いとは大分違うようだ。



さて、元服のとき、家康から「家」の一字と松平姓を賜った
二男の家冶は上野・長根に7000石を拝領するも14才で病死。
長根とは現吉井町の長根の事かな?
1602年、信昌は三男・忠政に加納藩を譲って隠居するも、
不幸にして第二代藩主の忠政は兄と同じ1614年に35才で病死。
末子四男の忠明は1588年に家康の養子となり松平姓、忠明の
「忠」は二代将軍・秀忠からの一字拝領。
兄・家冶の急死で長根7000石を継ぐが関ヶ原後の1602年に
三河・作手藩主、1610年伊勢・亀山藩主。
1614・1615の大阪の陣のあと、摂津・初代大阪藩主として
戦災地の復興に尽力、道頓堀も彼の命名との伝承。
1619には郡山藩主、この時代に短期ではあるが荒木又右衛門を
召抱えていたとか。そして1639年に姫路藩主。

これで吉井に奥平氏の影が薄く「中津藩史」が奥平氏に詳しい
理由が理解できた。
見逃した吉井の奥平神社は後日訪問予定。


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2 コメント

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奥平城址 (ヤナギ)
2013-01-31 11:42:35
山歩きの参考になるので
毎回、楽しく読まさせていただいております。

奥平城址の近くに古い石碑がありますので
近くを通られましたらお寄り下さい。

場所:岩平小学校 近く 南西方向の山中
    誠霊塔の近く(西方向)

石碑の文字:御嶽山大神 (裏面:明治一六年・・・)
        八海山神社
        意波羅神社

御嶽神社の分祀であるのかも知れませんが
詳しいことは不明です。

なお、県道より往復15分程度なので
山歩きにはならないと思います。
返信する
re.奥平城址 (爺ィ)
2013-02-07 09:45:07
ヤナギさん
コメント有難うございます。積雪模様で山はお休みなので
史跡探訪でもしようとしています。
ご紹介の石碑も計画に入れます。今後とも色々と
御教示ください。
返信する

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