クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

黒岩山から押立山(改)  H-21-6-6

2009-06-07 20:55:26 | 安中・松井田
裏妙義の山々は別として下仁田・松井田・軽井沢の交点辺りの低山は
高岩・千駄木・大山・矢ヶ崎・桜堂・愛宕・八風と回ったので今日は
残りの黒岩山と押立山。MHCさんが冬季に行っているのでその後追い
の様なもの。
R-18で碓氷バイパスに入り、新幹線高架の約1K手前のこの道標から
R-92(松井田軽井沢線)に左折。



間もなく、右手に大きな馬頭観音、和美峠に繋がる峠道の守り神だ。



約6Kで「千駄木遺跡」前を通過。1973年に発掘調査されたもので弥生時代
後期の土器や磨製の石斧が出土し、弥生人たちが低地に移住せず、依然として
縄文的な狩猟中心の生活をしていた事が判明したとの事。



ここを過ぎると前方が開けて畑地になり高岩が堂々たる偉容を見せる。



高岩登山口の二つの道標を過ぎるとIC手前の四つ角、ここまで9K程。
直進して少しの間、下仁田地区を走ると、間もなく県境で和美峠。
峠は軽井沢町の所管らしい。ここに駐車(9.15)。



振り返ると群馬側の道標が大きく目に入る。



さて、出発したは良いが、県境尾根への入り口が判らない。丁度、県境には
大きな沢がある。地形図では破線が県境線の東に書いてあるので、沢の東を
探るが駄目、結局和美峠の道標付近に擦れ跡があったので入り込む。

どうも踏み跡も見当たらないので右手の明るい方にいったら、何とそこは
ゴルフ場で、プレー中の人に睨まれた。



桜堂の経験から尾根道は沢の崖ギリギリと気がついて東に寄るとやっぱり
尾根道、それも境界の石柱付き。やれやれだ。



稜線はこんな感じで低い笹の中登道。



最初のコブに掛かると樹幹にG氏のものらしいブルーのビニール紐。
頂上の小型標識に期待。
コブの登りは突然に急登、途中で漢数字の四とか五のコンクリート柱。



二つ目のコブを乗り切るとあと120m程、頂上へは丘のような感じで
トンガリではない。やがて台地のような頂上着。標識はMHCさんの物が
一枚だけ。樹葉が濃くて展望は駄目。(11.33-12.20)



こんな所にもコクドの標識、何だが軽井沢中が西武グループのものみたい。
何用かは判らないがVHSのMASPROのアンテナも見える。
草にまみれて三角点がひっそり。四等 點名・和美峠 1132.36m




少し早めの昼食。休憩中に歩き回って山の写真を何枚か。






下山はのんびり、登りに随分と時間が掛かったが直線距離は0.5k強程きり無い。
踏み跡は県道まではっきり付いていた。何の事は無い駐車した自分の車で
入り口を塞いでいたのだ。

暫く休んで次の押立山に向かう。ベテラン諸氏の記録を見ると、入り口は
ゲートで閉められ立ち入り禁止になっているので誰も正面からは入っていない。
それでも一応は見に行こうとしてR-43を西進してゲート前。
思わずうーんと唸る。鎖やロープと思ったらこれは門柱つきの豪華版。
これでは入るのは憚れる。



やむを得ず、戻って荒船林道に入る。つまり、林道から紛れ込んだ事に
しようとする極めて姑息な手段。荒船林道入り口は当然に通行止めの
警告があるが行ける所まで。僅かの距離でこの道標で分岐。



其の脇に通行止めの看板。但し「この先」と書いてあって塞がれては居ない。
八風付近と同じで全面交通止めで柵のあるところまでは自己責任で通れる筈。
だが、様子が判らないので駐車。



地形図でこの林道と押立山に至る西武グループの管理の道が最も接近する
ところを特定してそこから入り込む事にした。



数百メートル進んで右の防災壁が途切れたところに擦れ跡発見。



あとは真北に直登すれば良い筈。踏み跡が有る様な、無い様なこんな林。



難なく車道に飛び出した。帰途のために赤テープで目印(13.09)。



西武の管理道は二車線ほどの幅広、但し蛇行の角度が大きく一辺も長いので
中々前進距離が稼げない。



やがて情報通りの草に覆われた頂上広場、真中に噂どおりのヘリポート。
あとは目ぼしい物は何も無い広場。展望は素晴らしいが生憎の霞み状態。



それでも幾枚か山やゴルフ場の写真(13.30)。








本日の爺イ。脇の機器は北に向いてレンズらしい物が付いているので
定点観測用か?



FM軽井沢のH・遼氏が「軽井沢タイムマシンプロジェクト」で幻の
押立山山頂ホテルについて貴重な資料と詳細な検証をしている。
同氏に写真借用の依頼中なので若し了解が得られたら転載する積り。

帰路もR-92でのんびり走行、途中で見える山々。これでこの周辺の低山は
一段落。





*追記

押立山山頂の幻のホテルに付き、遼氏の了解が得られたので
HP「軽井沢タイムカプセルプロジェクト」より写真と要旨を一部借用転載する。

(1)先ず、山上に確かに建造物ありの証拠写真。これは遼氏からのご紹介の
1979年6月発刊の「郷土出版社・思い出のアルバム軽井沢」から。
赤矢印(爺イ書き込み)の先に今は何も無い山上に建造物が確認できる。



(2)遼氏が探し出した山上ホテルの絵葉書。未だ完成前らしい様子。
 表題に「南軽井沢ホテル」とあるが、多分これは仮称で「ピークホテル」が
正式らしい。理由は西武グループ年表に麓の「大観楼」が1942年に
「南軽井沢ホテル」と改称したと記録されているから。
 噂のような円形ではなく、どう贔屓目に見ても半円形。その後、いかなる理由で
 何時頃廃業したかは不明。



(3)これも遼氏が見つけた1938年頃の鬼押し出しパンフの裏面にあった観光案内、
 押立山頂にホテルの記載と現在の「軽井沢72 東コース」の辺りに後に
 「南軽井沢ホテル」となる「大観楼」が描かれている。因みにこの大観楼の位置が
 「南軽井沢ゴルフクラブ9H」として開業したのは1955年、「72」の東コースと
 なったのは1972年の事。



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