リハビリ第五弾は平地ではなく多少なりともアップダウンのある
「石碑の路」。ここはかって拓本の練習に通った馴染みの場所。
早速、スタート地点の山名八幡に向う。失礼ながら人名全て敬称略。
(1)石の大鳥居を潜って神社駐車場。入り口に巨大な石碑、これが
石碑の路の始り。揮毫は「手島右郷」(12.00)。
上信電車線路を潜る手前参道右に「太刀割りの石」、石碑とは関係ないが名物。
1600年、馬場念流中興の祖と言われる樋口定次が、村上天流との
果し合いを控えて八幡に祈願した満願の日に枇杷の木刀で断割った
との伝説。勿論、試合は定次の勝ち。
いよいよ、山名八幡宮。
源氏の一角、新田義重の子・山名義範が豊前・宇佐八幡を勧請したとされる。
1190年頃の事。義重は義家の孫、頼朝旗揚げには事情があって遅参して
不興を買うも、息子の里見・山名はちゃっかり早めに伺候させて後の
山名氏隆盛の元を作っていた。
(2)神社の右脇を進むと山名宗全の碑。「凡そ例といふは 其時が例なり」
揮毫は「高井紫風」。この碑を見ると応仁の乱での西軍の将・宗全が
この地に居たと思いこむ人がいるかも。それは大違い。
山名氏は南北朝時代には、新田系列にも拘わらず、尊氏に従い、其の功績で
山陰の守護に転じてしまっている。系図を見ると宗全は11代目、8代目の
時には66ヶ国中の11ヶ国の守護に成長し「六分の一殿」の別名も。
が、足利義満の挑発に乗せられ十代目の時は大名に格下げ。宗全になって
嘉吉の乱で戦功を上げ6ヶ国(備後・備前・石見・安芸・美作・播磨)
の守護に復活した。ある資料では九代目と書いてあるが。
この言葉の意味がわからず宮司さんに聞いたが知らないとの事。八幡宮の
パンフレットを貰っただけで誤魔化されたよう。
今度は、神社裏の通称八幡山に向う。ここからは「高崎自然歩道」。
急坂の途中にこんな石碑。さっきの太刀割りの石の関連で作ったのかも。
「太刀割りの 石暖かく 掌をふれし」
「艸人」のサイン、見た事があるような、ないような。教えて下さい。
(3)ここから切り返しで約300㍍の登り坂。車道が終って木立の間に入ると
東屋脇に万葉歌碑。揮毫は高野辰之。彫りが浅くて読みにくい。
「左努夜麻尓 宇都也乎龍登 乃等抱可騰母 禰毛等可児呂賀 於母尓美要都留」
「さぬやまに うつやおのと のとほかども ねもとがころが おもにみえつる」
広場を更に進むとこんな石碑も。由来は知らない。
自然歩道は此の先から住宅地や山際を縫って西の「山の上碑」方面に伸びるが
2㌔強あるので車移動に切り替えて、市営無料駐車場へ(13.00)。
(4)山に登る前に山名貯水池の記念碑の裏に一首彫り込まれているので
駐車場から左折して200㍍。万葉東歌碑、山部赤人作・高井紫風書。
彫りが薄く西日を真っ向から浴びて読むのに一苦労。
「いにしえの 古き堤は年深み 池のなぎさに 水草生ひたり」
(5)改めて東に引き返し、案内板のある歩道入り口に向う。
拓本練習の時に使った大塚省吾編の「石碑の路・拓影」では25ヶだが
案内板は27ヶなので多いほうを選択。
看板奥の木立の影に万葉東歌碑が一つ。手島右郷書。
「安我古悲波 麻左香毛可奈思 久左麻久良 多胡能伊利野乃
あがこひは まさかもかなし くさまくら たごのいりぬの
於久母可奈思母
おくもかなしも」
(6)ここから174余段の石段を登ると山の上碑前。脇にある古墳と
ともに国指定史跡。推定681年のもの。多胡の碑の30年前。
古墳の入り口はこんな感じ。
広場の東端に読み人知らずの防人の歌碑。大塚雅休書。
「比之暮尓 薄日乃山遠 古由流比者 世奈濃賀袖毛
ひのくれに うすひのやまを こゆるひは せなのがそでも
沙耶尓不良志津
さやにふらしつ」
(7)右下に墓地を見ながら足場の悪い坂道を登りきったところに
全部片仮名の万葉相聞歌碑。山本聿水書。
「あすか河 塞くと知りせば あまた夜も ゐ寝てこましを
せくとしりせば」
(8)なだらかになった遊歩道を進んで「山名城址」看板が見えた所に
万葉相聞歌碑。安藤聖空書だが頭上の樹葉の影で上手く撮れない。
「遠しとふ こなの白峰 あほしたも あはのへしたも
汝にこそよされ」
(9)道は少し蛇行気味になり右への大きな分岐のところに万葉相聞歌碑。
柿本人麻呂作・大塚雅休書。
「ささの葉は み山もさやに さやけども 我は妹おもう
わかれきぬれば」
(10)やがて右の高台への木段を登るとひっそりと万葉東歌碑。
柿本人麻呂作・黒澤春来書。写真が上手く撮れない。
「紫の 根延ふ横野の 春野庭(には) 君をかけつつ 鶯鳴くも」
(11)再び右側に万葉相聞歌碑。山本聿水書。
「伊母乎許曾 安比美爾許思可 麻欲婢吉能 與許夜麻敞呂能
いもをこそ あひみにこしか まよひきの よこやまへろの
思之奈須於母敞流
ししなすおもえる」
「敞」を使ったのは自信がない。読みからすると「蔽」なのかな?
左カーブの所に数年前に付けられた商科大学駅への案内看板。
かっては獣道程度だった。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
「石碑の路」。ここはかって拓本の練習に通った馴染みの場所。
早速、スタート地点の山名八幡に向う。失礼ながら人名全て敬称略。
(1)石の大鳥居を潜って神社駐車場。入り口に巨大な石碑、これが
石碑の路の始り。揮毫は「手島右郷」(12.00)。
上信電車線路を潜る手前参道右に「太刀割りの石」、石碑とは関係ないが名物。
1600年、馬場念流中興の祖と言われる樋口定次が、村上天流との
果し合いを控えて八幡に祈願した満願の日に枇杷の木刀で断割った
との伝説。勿論、試合は定次の勝ち。
いよいよ、山名八幡宮。
源氏の一角、新田義重の子・山名義範が豊前・宇佐八幡を勧請したとされる。
1190年頃の事。義重は義家の孫、頼朝旗揚げには事情があって遅参して
不興を買うも、息子の里見・山名はちゃっかり早めに伺候させて後の
山名氏隆盛の元を作っていた。
(2)神社の右脇を進むと山名宗全の碑。「凡そ例といふは 其時が例なり」
揮毫は「高井紫風」。この碑を見ると応仁の乱での西軍の将・宗全が
この地に居たと思いこむ人がいるかも。それは大違い。
山名氏は南北朝時代には、新田系列にも拘わらず、尊氏に従い、其の功績で
山陰の守護に転じてしまっている。系図を見ると宗全は11代目、8代目の
時には66ヶ国中の11ヶ国の守護に成長し「六分の一殿」の別名も。
が、足利義満の挑発に乗せられ十代目の時は大名に格下げ。宗全になって
嘉吉の乱で戦功を上げ6ヶ国(備後・備前・石見・安芸・美作・播磨)
の守護に復活した。ある資料では九代目と書いてあるが。
この言葉の意味がわからず宮司さんに聞いたが知らないとの事。八幡宮の
パンフレットを貰っただけで誤魔化されたよう。
今度は、神社裏の通称八幡山に向う。ここからは「高崎自然歩道」。
急坂の途中にこんな石碑。さっきの太刀割りの石の関連で作ったのかも。
「太刀割りの 石暖かく 掌をふれし」
「艸人」のサイン、見た事があるような、ないような。教えて下さい。
(3)ここから切り返しで約300㍍の登り坂。車道が終って木立の間に入ると
東屋脇に万葉歌碑。揮毫は高野辰之。彫りが浅くて読みにくい。
「左努夜麻尓 宇都也乎龍登 乃等抱可騰母 禰毛等可児呂賀 於母尓美要都留」
「さぬやまに うつやおのと のとほかども ねもとがころが おもにみえつる」
広場を更に進むとこんな石碑も。由来は知らない。
自然歩道は此の先から住宅地や山際を縫って西の「山の上碑」方面に伸びるが
2㌔強あるので車移動に切り替えて、市営無料駐車場へ(13.00)。
(4)山に登る前に山名貯水池の記念碑の裏に一首彫り込まれているので
駐車場から左折して200㍍。万葉東歌碑、山部赤人作・高井紫風書。
彫りが薄く西日を真っ向から浴びて読むのに一苦労。
「いにしえの 古き堤は年深み 池のなぎさに 水草生ひたり」
(5)改めて東に引き返し、案内板のある歩道入り口に向う。
拓本練習の時に使った大塚省吾編の「石碑の路・拓影」では25ヶだが
案内板は27ヶなので多いほうを選択。
看板奥の木立の影に万葉東歌碑が一つ。手島右郷書。
「安我古悲波 麻左香毛可奈思 久左麻久良 多胡能伊利野乃
あがこひは まさかもかなし くさまくら たごのいりぬの
於久母可奈思母
おくもかなしも」
(6)ここから174余段の石段を登ると山の上碑前。脇にある古墳と
ともに国指定史跡。推定681年のもの。多胡の碑の30年前。
古墳の入り口はこんな感じ。
広場の東端に読み人知らずの防人の歌碑。大塚雅休書。
「比之暮尓 薄日乃山遠 古由流比者 世奈濃賀袖毛
ひのくれに うすひのやまを こゆるひは せなのがそでも
沙耶尓不良志津
さやにふらしつ」
(7)右下に墓地を見ながら足場の悪い坂道を登りきったところに
全部片仮名の万葉相聞歌碑。山本聿水書。
「あすか河 塞くと知りせば あまた夜も ゐ寝てこましを
せくとしりせば」
(8)なだらかになった遊歩道を進んで「山名城址」看板が見えた所に
万葉相聞歌碑。安藤聖空書だが頭上の樹葉の影で上手く撮れない。
「遠しとふ こなの白峰 あほしたも あはのへしたも
汝にこそよされ」
(9)道は少し蛇行気味になり右への大きな分岐のところに万葉相聞歌碑。
柿本人麻呂作・大塚雅休書。
「ささの葉は み山もさやに さやけども 我は妹おもう
わかれきぬれば」
(10)やがて右の高台への木段を登るとひっそりと万葉東歌碑。
柿本人麻呂作・黒澤春来書。写真が上手く撮れない。
「紫の 根延ふ横野の 春野庭(には) 君をかけつつ 鶯鳴くも」
(11)再び右側に万葉相聞歌碑。山本聿水書。
「伊母乎許曾 安比美爾許思可 麻欲婢吉能 與許夜麻敞呂能
いもをこそ あひみにこしか まよひきの よこやまへろの
思之奈須於母敞流
ししなすおもえる」
「敞」を使ったのは自信がない。読みからすると「蔽」なのかな?
左カーブの所に数年前に付けられた商科大学駅への案内看板。
かっては獣道程度だった。
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判らないままに四年半を経過したが、ふと手にした「和歌森太郎監修・日本武将百選」の
山名宗全の項にその解説を見つけたのでその
大略を引用。
ある大臣が古い例ばかりを持ち出して賢しらに宗全に語るので
「大体が例ばかりになずんで時勢の移り変わりを知らなかったから公家は良い政治も出来ずに貧乏になり武家に天下を奪われて武家に媚びる様になってしまったのだ。今後は教養の無い武家に向かって過去の例などを言い立てずに
その時の時勢の認識をするべき」と言った
との伝承に拠るとのこと。