クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

仏体山リベンジ計画 H-18-5-27

2006-05-27 18:00:00 | 中之条・小野上・みなかみ・沼田・渋川
置き忘れカメラは未だ発見されない。穏やかな地域なので直ぐ出る
と思ったのは甘過ぎた様だ。仕方なく近くの「キタムラ」で全く
同型のものを手配してもらって三脚共々購入してきた。予定外の出費。
天気も悪く山行きは足止めが続きそうなので、もう一度地形図を
眺めて作戦の練り直し。
前回のコースの地形を見なおすと、等高線の混み方が著しく、
線の本数さえ数えられないほどである。此れではやはり爺イの手に
余るのは当然かも。
古い記録を見ると「仏体山登路字沢入ヨリ一条アリ」とあるが
「沢入」という場所が判らない。
リベンジは別ルートを考えた。岩井堂の少し北側で中之条と旧小野上の
境界線が国道353号線とクロスする個所があり、そこから北に向く
境界線を辿れば一寸遠回りかもしれないが
677峰を経て仏体山に行けそうである。字や小字の境界と違って
町村境なら歩ける尾根を通っている可能性が高いので上手く行けば
ハイキング程度で仏体山まで行けるか?但し、地形図から見ると
前半は沢登りになるらしいので境界杭は無いかもしれないのが少し気懸かり。


もう一つは、小野上温泉から十二ヶ岳に向う林道が採石場の先で
この境界線に最接近している。ここからは稜線を目指せば斜面登りでは
あるが距離が短いので可能かも。しかし、道は無いので突入口が多分
判断できないから、帰途に途中から東進して林道に降りた方が得策と
思われる。それに採石場には入り込めない。いずれにしても天候回復
したら様子を見に行く事も兼ねてもう一度市城に行く予定。

5/29、宗福寺から落し物看板を立てたが未だ届け出なしとの連絡、大分
お寺にも厄介をかけている。

蛇足・「市城」の名前起源伝承。「天歴の頃、白波という白い名馬を
産出し朝廷に献上せり。因って一白なる村名を賜りしなり」中之条町
郷土史より。「天歴」とは10世紀の半ば、将門の乱や純友の乱平定の
10年後、第62代村上天皇時代。

今日のロッテ戦は又負けるのかなー。
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