
天気予報が二転三転して最後に晴れ予報に切り替わった日曜日、ブラリと
高崎市新町の「しんまち商工祭」の見物に出かけた。この商工祭は新町バザールを
中心として「第19回大道芸まつり」と「第17回ふるさと祭り・神流合戦」が一緒。
この高崎市新町は2006年1月に群馬郡群馬町・箕郷町・倉渕村と共に高崎市に編入された
地域だが所謂、飛び地である。西と南は藤岡市、北は玉村町、東は埼玉県上里町に囲まれている。
元々は吉井・鬼石町と共に藤岡市を軸にして一市三町の合併予定だったが吉井町と新町が
住民投票の結果、合併協議から離脱して隣接してはいないが繋がりの深い高崎市との
合併を選択したため、飛び地となったのだ。
駐車場所に不安があるので電車で新町駅、この駅舎は南口がないので一旦北口に下りてから
この跨線橋を渡って会場方面に向かうのでやや不便。

南口に来ても案内掲示は見当たらないので太鼓の音のする方向への人の流れに釣られて進むと
漸く看板。

r-40(藤岡大胡線)を突っ切ると「Aコープ」のある産業道路までの約500m区間が会場。

メインがバザールなので500mの間にざっと数えて70位の店舗がテント張りで出店していて
大勢の観客が買い物に忙しい。有名店や限定00食の店は長い行列で整理券発行の混雑。

四箇所ほどの特設会場や路上で大道芸が繰り広げられているが、これは古典的な「南京玉すだれ」
よく見ると皆さんご年配の方々でプロと言うより町内同好会といった雰囲気。

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メインステージでは「よしもと芸人群馬駐在」の「アンカンミンカン」の司会で保育園や
小学校・中学校・上武大学・市民サークルの音楽会が続く。
これは園児のマーチングパレード。豆粒みたいに小さな子供たちが一人前にマーチング。
こんな年代から音感教育されているから夏の高崎マーチングで市内の小学生のパレードが
驚くほどの技量を披露出来るんだな。

大道芸の中ではバルーンパフォーマンスの芸人が多い感じ。
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似顔絵コーナーも大人気、爺イも記念に一枚と思ったが長蛇の並びでおまけに幼児が
大部分、とてもお呼びでないと退散。


この新町には最近野球や箱根駅伝で名を上げている上武大学のキャンパスがある関係で
上武大チアサークルも祭りに一役。

時々、こんな足長妖怪が通り子供たちが纏わりついて大騒ぎ。

大道芸人ムーラが熱演。観客とのやりとりが巧みなので演技後の帽子には親から渡された
小銭を持って驚くほど多くの子供たちが献金。最後はムーラ氏も涙声。
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午後2時半ごろ、漸くふるさと祭りが動き出す。四人の巫女を先頭に神流川合戦を
歴史に残した滝川一益隊に新町自衛隊駐屯地の皆さんと上武大学有志の若者が扮して続く。

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その後ろにはお馴染みの群馬甲冑愛好会がここにも出陣、毎週あちこちと忙しいことだ。





甲冑隊の後ろには「玉村手作り甲冑愛好会」が続いている。
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# さて、ここからは「講釈師見ていた様な嘘をつき」の類で恐縮だが
神流川合戦の一席を昔の爺イのブログから再録。
武田勝頼が天目山田野で惨殺され、信長より上野国を任された
滝川一益はその3ヵ月後に本能寺の変(1582-6-2)を事件発生から
7日後に知る。(勝家同様に5日後の説あり)
箕輪城が落ちて上野の雄・長野氏が滅亡してからもう16年が経っていた。
甲賀忍者出身とも噂される胡散臭さもあったが、一面では文化人
とも伝わる一益、咄嗟に家康と同じく逃走を決める。所が周囲は数ヶ月の付き
合いしかない元・武田軍団の上野国人衆、しかも信長倒れると知れば
直ぐに寄せてくる事が予想される北条も直ぐ南の武蔵に居る。
そこで採った作戦は、国人衆を味方につけて当座の反乱を防ぎつつ、
北条の頭をほんの一寸叩いて退路を確保してから本拠の伊勢・長島へ
遁走するという高等戦術。
一益は 度胸良く厩橋城に留め置いた国人衆の人質を全て解放し、信長の死も
伝えて一旦解散後の再度の結集を求める。国人衆はその潔さに感服
して合力を約するという思惑通りの進展。
作戦は小田原の氏政・氏直の本隊が来る前に寄居・鉢形城の氏邦を
叩こうというもので、「信長弔い合戦のため上洛するから厩橋城を
受け取りに来い」と北条を挑発。これに乗せられた氏邦は鉢形から僅かに
2500の兵力だけで一益配下の斉藤光透・光房の守る金窪城(現・金久保)まで
のこのことやってくる。もう、山崎では明智光秀は討たれている時期。
時に1582-6-17の夕方、だがその金窪城の北・西側には一益隊・国人隊連合が
陣を敷いてカモを待ち構えていた。国人の大将は倉賀野16騎で名高い
金井淡路守、沼田安堵で一益に借りのある真田昌幸も五千を率いて一益隊に合流。
第一回戦は6-18の早朝から。上野勢が圧倒的に主導権を取って完勝。
だが、夕方には氏政本隊も2キロ南まで到達していた。
二回戦は翌日の朝から余勢を駆った上野勢から仕掛ける。午前中は
上野勢が押し捲ったが北条の侍大将・大道寺の作戦に嵌って形成大逆転。
つまり、本隊到着で三倍の兵力となった北条が突然引き始める。
つんのめるように一益隊は突進するが、それが包み込んで殲滅する
北条の罠。
まんまと嵌められて上野勢は大敗して厩橋城に撤退、一益は予定通り碓氷峠
から伊勢・長島に向かって遁走。此処までは予定通りだったが、
織田重臣の筈の一益はこの敗けっぷりと逃げ足の速さが祟って
後継指名の清洲会議(6-27)にも呼ばれなかった。
資料では松井田城を経て、追って来る北条勢を振り払いつつ、碓氷峠を
通り小諸城を26日に発って伊勢に向けて遁走。そうすると
27日の清洲会議には呼ばれなかったと云うより、未だ帰着して
いなかったので結果的に呼ばれる情勢には無かったのだな。
その後の一益は柴田勝家と組んで織田信孝を擁し勝家・信孝自決後も
伊勢長島に籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏、秀吉に降ってからも
小牧・長久手で家康に敗れた責任で剃髪、越前で寂しくその一生を閉じている。
閑話休題
出陣式が開始されようとしたとき、表通りが急に騒がしくなり観客がどっと移動開始。
賑やかなリズムに乗ってブラジル・サンバが始まったのだ。爺イも年甲斐もなく
折角確保した上席を放棄して表通りに。意外にも集団は三人だけだったが
日本人には味が濃すぎる圧倒的な迫力でご老人たちは戸惑い気味。


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出陣式に戻って見物再開。堂々たる体躯の自衛隊員たちが一益隊に扮して中央に。

例によって着到状の読み上げ。寄せてきた北条を迎え撃つ上野勢の臨戦態勢完了を
告げる。

出陣を祝う三献の儀を首脳陣が。

勝利を祈念して巫女の舞を献上。

一益の発声で勝鬨をあげ、隊列を組んで出陣するところで終了。

そろそろ、店仕舞いにかかっているバザールを見ながら再び新町駅から乗車して
帰宅。のんびりした一日が又過ぎていく。
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