吉井の里山を徘徊していると「羊太夫伝説」に度々出会う事になる。例の多胡碑
に書かれた人物が数多くの伝説を生んでいるのである。「――給羊成多胡郡――」
と書かれた羊氏、
かっては人名・方位・誤字・略字・省字等と言われたとの事であるが、
今は実在の人物と見て差し支えなく、羊太夫と同一人物のようだ。その上、この
碑文は帰化人の身として前代未聞の栄誉と感激しての、彼自身の手による記念物
と言われると妙に納得。
しかし、大方は江戸時代に生まれたとは思うが、何故にこんなに伝説に囲まれて
いるのか?
伝説の一つに「七輿山古墳」とのからみがある。勿論、この古墳の形成は6世紀
の半ばとされており、多胡碑の日付は711年となっているから最小でも160年
の開きがある。
羊太夫が滅ぼされ時、難を逃れようとした妻妾7人が自決し、村人が憐れんで
葬ったのが七輿古墳というのは全くおかしく、古墳は土地の豪族のものと言う
のが定説と聞くのであるが、伝説は伝説として受け入れれば良いのであるから、
非論理性に目くじらを立てる必要は全くない。そんな伝説の場を尋ねた。
高崎から30号線で藤岡に向い、鏑川橋を渡ると直ぐに上落合の信号、次ぎの
信号を右折すると「ドライブイン七輿」の大きな駐車場、ドライブインは今や
ゲームセンターらしい。
ここに駐車するとすぐ目の前に公園風に整地された古墳の岡が見える。
藤岡教育委員会の説明看板前から岡に上ると石碑や五百羅漢が目に入る。
五百は無い様だが少なくても数百はある。但し殆ど首が無い。岡の上のその他の大型
の石像も一様に首無し。どうも昔から博徒の間で石像の首を持つとツキがくる
との迷信があった為とか。
古墳の上から見ると周辺は良く整備されていて結構な市民の憩いの場になって
いるらしい。
頂上には柱の標示もあつたが、裏に「日本たからくじ協会寄贈」とあって苦笑い。
おかしな石柱もある。片面に「群馬県」、反対側に「00三角點」とあるが、
「00」が読み取れなくて残念。
この後、古墳から出土の石棺を置いてあると
いう隣の宗永寺や近くの複式石室で名高い皇子古墳などを見学してから、記録
にある落合城址を探したが見つからず、仕方ないので、かってこの地に繁栄した
「平井城址」見物に向かった。
平井城址は古墳から約5㌔強の南、かっては今の平井小の辺りから南に広大な
規模を誇り鎌倉をも凌ぐと言われた山内上杉の拠点も、その本丸跡に小公園風
になっているだけだが、記念碑や展示物が多く上杉家の大きな墓標もある。
町中にも展示物が目に付き「平井城の歌」「永亨の乱の歌」「上杉管領囃子」
まであつた。
この築城は、顕定による1467年とも言われるが、現地の標示はその二代前の
憲実の時代、鎌倉公方滅亡の因となった1438年「永亨の乱」をここで戦った
時としている。幾多の変遷を経て、1530年に事情があって、たった8歳で
管領職を継いだ憲政は生来の暗愚で1551年に北條氏康に平井城を攻め落と
されて越後に逃亡、謙信に上杉名と管領職を譲るがその後に横死、栄光の直系
家系に終止符を打つ。のちに謙信は平井城を奪還の後、拠点を厩橋城に移し
ために平井城は呆気なく廃城、今はその名残もない。
下図は「古城塁址の研究」より
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
に書かれた人物が数多くの伝説を生んでいるのである。「――給羊成多胡郡――」
と書かれた羊氏、
かっては人名・方位・誤字・略字・省字等と言われたとの事であるが、
今は実在の人物と見て差し支えなく、羊太夫と同一人物のようだ。その上、この
碑文は帰化人の身として前代未聞の栄誉と感激しての、彼自身の手による記念物
と言われると妙に納得。
しかし、大方は江戸時代に生まれたとは思うが、何故にこんなに伝説に囲まれて
いるのか?
伝説の一つに「七輿山古墳」とのからみがある。勿論、この古墳の形成は6世紀
の半ばとされており、多胡碑の日付は711年となっているから最小でも160年
の開きがある。
羊太夫が滅ぼされ時、難を逃れようとした妻妾7人が自決し、村人が憐れんで
葬ったのが七輿古墳というのは全くおかしく、古墳は土地の豪族のものと言う
のが定説と聞くのであるが、伝説は伝説として受け入れれば良いのであるから、
非論理性に目くじらを立てる必要は全くない。そんな伝説の場を尋ねた。
高崎から30号線で藤岡に向い、鏑川橋を渡ると直ぐに上落合の信号、次ぎの
信号を右折すると「ドライブイン七輿」の大きな駐車場、ドライブインは今や
ゲームセンターらしい。
ここに駐車するとすぐ目の前に公園風に整地された古墳の岡が見える。
藤岡教育委員会の説明看板前から岡に上ると石碑や五百羅漢が目に入る。
五百は無い様だが少なくても数百はある。但し殆ど首が無い。岡の上のその他の大型
の石像も一様に首無し。どうも昔から博徒の間で石像の首を持つとツキがくる
との迷信があった為とか。
古墳の上から見ると周辺は良く整備されていて結構な市民の憩いの場になって
いるらしい。
頂上には柱の標示もあつたが、裏に「日本たからくじ協会寄贈」とあって苦笑い。
おかしな石柱もある。片面に「群馬県」、反対側に「00三角點」とあるが、
「00」が読み取れなくて残念。
この後、古墳から出土の石棺を置いてあると
いう隣の宗永寺や近くの複式石室で名高い皇子古墳などを見学してから、記録
にある落合城址を探したが見つからず、仕方ないので、かってこの地に繁栄した
「平井城址」見物に向かった。
平井城址は古墳から約5㌔強の南、かっては今の平井小の辺りから南に広大な
規模を誇り鎌倉をも凌ぐと言われた山内上杉の拠点も、その本丸跡に小公園風
になっているだけだが、記念碑や展示物が多く上杉家の大きな墓標もある。
町中にも展示物が目に付き「平井城の歌」「永亨の乱の歌」「上杉管領囃子」
まであつた。
この築城は、顕定による1467年とも言われるが、現地の標示はその二代前の
憲実の時代、鎌倉公方滅亡の因となった1438年「永亨の乱」をここで戦った
時としている。幾多の変遷を経て、1530年に事情があって、たった8歳で
管領職を継いだ憲政は生来の暗愚で1551年に北條氏康に平井城を攻め落と
されて越後に逃亡、謙信に上杉名と管領職を譲るがその後に横死、栄光の直系
家系に終止符を打つ。のちに謙信は平井城を奪還の後、拠点を厩橋城に移し
ために平井城は呆気なく廃城、今はその名残もない。
下図は「古城塁址の研究」より
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます