クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高崎の伝説を尋ねて H-18-2-5

2006-02-05 10:59:47 | 伝説・史跡探訪
天気は良いが寒風が強い。とても山行きなどには適さないので近くの伝説の
場所を訪ね歩くことにした。佐野地区の新幹線沿線には伝説の場所が並んで
いるが、疎開の延長での中学・高校時代を含めてもう四十年も高崎に住んで
いながらこの地区を尋ねたことがない。船木観音国道17号線上りで佐野に向う。
とにかく上越新幹線の側道に入りたかったが、関越自動車道の側道のような
ものはないらしい。仕方なく城南大橋から2つ目の小さな信号を右折して
曲がりくねる狭い道を道なりに進むとやがて左側に最近大規模改築された
らしい豪華な「西光寺」がある。

その寺の檀家専用駐車場南方の道路端の小さなスペースに船木観音記念碑が
あつた。ここは昔の佐野の渡しと言われる「渡し場」で、渡し場にかかる
船橋を繋ぐ大榎を船木と言い、大切な木を守るためにまつったものらしい。
別に観音堂があるわけでもなく、石碑と説明板があるだけ。しかし、その隣
に地元某政治家揮毫による、石碑より大きい「佐野橋竣工記念碑」があるの
でやや興ざめ。

この古石碑、表は船木観音の4文字と馬頭観音の線刻画像の下に「かみつけの 
佐野の船はし とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」という万葉の
歌が刻まれ、裏には「古道 佐野渡」の文字と文政10年(1827年)、
延養寺住職の名がある。延養寺とはワシントンホテル傍の延養寺と関係が
あるのかな?

この万葉歌は爺イには馴染みである。かって拓本製作の修練中、道具を
担いで「石碑の路」に通い詰めたがこの路のNO.20田島武夫氏作の
俳句の近くに「恋の船橋」として看板がついているので良く知っていた。

さて、問題はこれから。先ず、石碑に刻まれた万葉の歌をモチーフにして
作られたのが謡曲「船橋」であり、概略の筋は「恋仲であった男女二人の
亡霊が山伏に親の好まぬ恋愛関係の苦患を語り山伏の祈祷によって成仏する」
というものであるが、その「佐野のふなはし」の舞台がここであるとしたもの。
つまり、創作ものの場所を作ってしまったのだ。
伝説とは得てしてこんなもの。
ここから烏川に向って少し行くと「佐野橋」があるが狭い木橋で車通行止め
である。佐野の渡しはこの橋の袂との説があるが、大方は石碑の場所と言う
事で落ち着いている。

この佐野の渡しにはもう一つ厄介な問題がある。これも謡曲から来ているのも
何かの因縁か?それは既に一般には虚実が混同されている謡曲・鉢の木に
纏わる北條時頼と佐野源左衛門との話である。大体、時頼は確かに30歳の
若さで執権職を譲ったが、諸国修行の旅などには出ていない。関東から一歩も
出なかった水戸黄門の全国漫遊記の鎌倉版である。
話も創作謡曲であり、まじめな者は報われると願う気持を反映したもの。
かつて大河ドラマ「北條時宗」で渡辺謙に迫真の演技をさせて大部分の人に
史実と思い込ませたNHKは全く罪作りだ。原作は浜野卓也本だっけ?
其れでなくても佐野源左衛門を巡っては高崎の佐野と栃木県・葛生町鉢の木
それに確かな証拠の品と言うのを振りかざす新潟・見附がご当地争いで騒々
しいのに。
高崎市教育委員会の立てた説明板には、主体は「船橋」の伝説としながも
最後に「鉢の木」の佐野の渡しと同一場所とは奇縁として結んでいる。
この謡曲は藤原定家の新古今集の「駒とめて 袖うちはらうかげもなし 
佐野のわたりの 雪の夕暮れ」が話の重要な展開を左右しているが、これは
万葉の「苦しくも ふり来る雨か神が崎 狭野のわたりに家もあらなくに」
を本歌取りしたもの。
さて、余計な詮索はいい加減にして佐野橋から戻って新幹線を潜って北側に
出ると民家の間に小さな「常世神社」がある。説明板によると源左衛門の
屋敷跡と言う。神社は粗末であるが境内には立派な記念碑・新しい看板や
昔の教科書にあつた源左衛門が時頼の為に大事な盆栽を切っている絵も扉付き
の中に展示してある。

謡曲史跡保存会の説明では、時頼に領地を安堵されてから出身地に帰り、墓は
栃木県佐野市の願成寺にあるとの事。其処は藤原秀郷の興した寺で源左衛門が
復帰後に再興したとある。すると謡曲の源左衛門は墓があるなら実在の人物?
この辺から多くの銭が発掘されたと言われる事から大昔の伝説でこの烏川の
両岸にいた朝日の長者と夕日の長者などの屋敷跡という説もある。まあ、どちら
でも良いが。
ここから少し東に行くと、今度は「定家神社」がある。

定家とは勿論、歌人の藤原定家(1161-1241)をまつったとされ、
数点の文化財が納められているらしい。しかし、何故に定家がここにと言う
説明はなく、一寸戸惑い。まさか定家の和歌をモチーフにした伝説があるから?
首を捻りながら細い路を北に向うと寂れた「放光神社」がある。

ここには元々「放光庵」という仏堂があったそうで、それが明治の初めに
廃されてその跡に「放光神社」が作られたと言われる。それよりずっと以前
には「放光山天平寺」という伽藍の整った寺があったとも伝えられるので、
有名な「山の上碑」に書かれた放光寺とはここであるとも言われる。
しかし、最近の調査では前橋市総社町の山王廃寺から「放光寺」と箆ヘラで
書かれた瓦が
発見されたので山王廃寺が放光寺であるとする説が強いのだとか。
それでは境内の石碑の「放光寺跡」はどうする?

下の写真は昔撮った山の上碑、碑文は右手の古墳の母の「黒売刀自クロメトジ」
を供養したもの、左にある数基の墓は山の上碑には関係ない、近くの山名城の
関係といわれる。

これで本日の伝説巡りは終わり。


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