クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高崎の古城塁巡り(2)寺尾中城 H-18-2-3

2006-02-04 11:16:18 | 伝説・史跡探訪
城山団地を下って県道を横切り「ファリミーパーク」に向う。

古い研究書では永福寺北側の谷津を登って衣沢川が二分するところに挟まれた
尾根と書いてあるが、今の地形ではさっぱりわからない。パークにいる郷土
史家の横倉氏がパーク裏から寺尾城址に行く近道を教えてくれる事になって
いたからである。教えられた道は未だ使われていないパークの東北隅のゲート
脇の垣根を潜ることであった。

そこから敷地外に出ると、開発したての感じではあるが「高崎遊歩道」の看板
と正確に「寺尾中城」と書かれた道標があった。

安易に寺尾城と書いていないことに好感を持つ。
未だ固まっていない遊歩道をほんの少しで本丸跡につく。

ここを頂点として東の下り尾根に二の丸、三の丸も物見櫓などが繋がっていて、
周囲には城跡の痕跡がはっきり見られる。城址謂れの説明板には「尹良
(タダナガ)親王の事だけが記されているので一寸物足りない。聞く所に
よると「山崎一」氏の著書を参考にして建設しているらしい。

この城は寺尾周辺諸城の中核であり、城の主の一人、新田義重と尹良(ただなが)
親王に纏わる数百年前の因縁話に満ちている。
少し長い蛇足になるが下記に記録しておく。
東鑑に「治承四年新田義重入道、上野国寺尾で挙兵――」とあるが「西上州」
と書かれていなかったので、その挙兵の地が出身地の新田か、寺尾城址のある
高崎かの議論が永年続き、それぞれご当地贔屓での説明が成されていたが、
「山崎一」氏がその著書「群馬県古城塁史の研究」で治承四年1180年の
頼朝に呼応した挙兵は高崎の寺尾城と断定してけりがついた。但し其れから
14年の後、不仲であった頼朝(1147-1199)と義重
(1135-1202)が和解したと言われる建久四年1193年に三原
巻き狩りの帰途、頼朝が寄ったとされる場所は寺尾ではなく、既に義重が
帰っていた新田であろう。
この義重、大変な大物。源義家を基点として考えると、その息子が義親と
義国。義親の系列は義朝・頼朝と続き、足利に移った義国の方は長男・義重
が新田荘を開拓して新田氏の始祖(七代目に義貞)、次男・義康が足利氏の
始祖(七代目に尊氏)。この義国は京都での郎党の狼藉の責任を取らされ
足利に左遷されたもの。長男・義重は新田に住み、後に何かの理由で高崎・
寺尾に移り、息子を夫々山名城主・山名三郎、里見城主・里見太郎として
配し、晩年は再び新田に居住したと思わないと全ての辻褄が合わない。
義重は寺尾時代、頼朝の挙兵に参集せず日和見、後々まで頼朝に疎んじ
られるが、息子の山名氏は参じたので山名氏の方がこの時期は有力になる。
頼朝の参陣要請に兵を募ったが参画しないで日和見をした理由には二つある。
一つが頼朝は義重の従兄弟・為義(40歳年上)の孫に過ぎなく14歳年下
のため軽く見た事、二つ目は義重の娘の義平未亡人に頼朝が懸想したのを
政子に知られたので慌てて部下の武将に再婚させ頼朝に恨まれた事である。
義重が新田に去り、山名氏(義重三男が山名三郎)が中国地方に移って寺尾
城周辺は荒廃したが1390年代の応永の頃、全国に残った南朝残党の一人
として東国を本拠として苦戦の転戦を重ねた後醍醐天皇の皇子・宗良親王の子・
尹良親王と関東管領が戦って史上に再び脚光を浴びる。
群馬県史に「尹良(タダナガ)親王は宗良親王の皇子で応永四年(1397)
寺尾城に居り新田の一族世良田氏奉仕す。応永三十一年戦い敗れて信濃から
三河への途中、浪合にて没する」とあり世良田の名前から再び寺尾城新田説
の一つの根拠となるが、世良田雅義と共に親王を支えた桃井宗好の本拠は
榛名の桃井であるから親王の居た寺尾城は片岡である。
尚、高崎の「舘」の地名は義重の舘ではなく尹良親王の舘であるとの事。

下って戦国時代は、有力武将の居なかった上野は、武田・上杉・北條の草刈り
場として三つ巴戦渦中の激戦の地となったが信玄は根小屋城を新築して重用
したらしい。
上野志 「永禄十一年(1568)、信玄は山名、鷹ノ巣の間に新城を築き
信州の士・望月甚八郎、仁科信盛を入れて守らせたーー」

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