クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高崎の古城塁巡り(3)乗附城址 H-18-2-3

2006-02-04 11:08:32 | 伝説・史跡探訪
三つ目の寺尾上城と言われる乗附城も地元の知名度は低く、多分知る人も
少ないだろう。勿論高崎市の地図を見ても道程は判らないがコロニーの
西に其れらしき山塊があるので大体の見当はついたが、取り付き口などは
見当がつかない。

念の為、乗附公民館に電話で問い合わせても誰も知らなかったが、たまたま
居合わせた或る区長さんが郷土史に詳しく、教えるから公民館に遊びに
来なさいといわれた。
早速、お邪魔して道順を教えてもらった。その区長さん、戦国時代の上野
の戦いの歴史には滅法詳しい。何か地区の催し物の準備をされていたよう
であるが、若手に指示をして話しにの方に夢中になり、乗附城址の事など
聞いてくれた人は居なかったと逆に感謝される始末。話によると市の方で
なにも掲示をしないので、地元では知る人もないとの事。但し
城址下に作られた高崎市の水道設備と言ったり、同じく城址内にある
「お手植えの松」と聞けば判ると教えてくれた。
寺尾上城の乗附城は和田高重に依る南北朝時代の正平四年1349年の築城。
寺尾中城に尹良親王が来た時より五十年も前の時期であるが、その10年前
には尊氏の足利幕府は成立しており南北朝時代の真っ只中。直義と師直の仲
に亀裂が入った年でもあるし、関東管領になって勢力を増した足利基氏が
鎌倉公方と称した時でもある。上野志に「永禄十一年(1568)、信玄は
山名、鷹ノ巣の間に新城を築き信州の士・望月甚八郎、仁科信盛を入れて
守らせたーー」信玄は箕輪城を西毛攻略の拠点、石倉城で謙信に備え、
根小屋城を北條氏康への見張城、乗附城を箕輪の長野氏への見張り台に
したのではないか。
根小屋城を作ったときは未だ根小屋の地名はなくこの城の将兵屯所として
根小屋が置かれてから地名が起きた。――などと歴史談義は絶えなかった。
早速、八千代橋口から観音山方面に進み、「料亭・静香」の少し先にテープ
の目印。

其れは水道設備入り口の目印であるが、そこの路傍に駐車して木の階段を
登っていくと、設備の金網の裏を通って直ぐに城址らしき雰囲気の山。
但し枯れた葛などが猛烈に折り重なり全くの荒れ放題の山。

暫らく進むと御影石の石柱に囲まれたところに「東宮殿下お手植えの松」
の石碑ガあつたが付近には松などはなかった。石碑の日付は明治三十五年
になっている。昭和天皇が生まれたのは明治三十四年であるから、この
東宮殿下とは後の大正天皇の事であろう。「東宮」とは特定の人物ではなく
「皇太子」の尊称である。其の昔、聖徳太子の居所が皇宮の東にあったことから
「令集解(りょうのしゅうげ)」に「東宮太子之所居也」と記載がある様に
皇太子の宮殿を指す言葉であったが、後に転じて皇太子の尊称。春宮と同義。


城址には寺尾中城とは打って変わって何の手も加えられていない。同じ
高崎でも中城と上城とでこんなに扱いが違うのは地元の関心の差なのかな。
これでは唯の荒れ山である。何となく割り切れないものを感じながら、
少林山に寄ってから十八号経由で帰宅。

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