教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

不登校は誰にでもどの家庭でも起きること──不登校問題と教育行政の対策(3)

2010年08月21日 | 不登校
▼私立学校からの不登校生とその対応の変化
一般の人は、不登校は荒れている公立学校に多いように思っているかも知れない。不登校は知的にも肉体的にも障害を持っている人が多い、いわゆる「落ちこぼれさん」が多いので、それを避けるためにも私立受験が盛況なのだ──と思っている人が多いかもしれない。そして、それを裏付けるかのように、不登校を擁護する立場の人達からもそういう批判を行う傾向があることも否めない事実。
しかし、実際はそう単純ではない。不登校は何も公立学校の、しかも「落ちこぼれ」さんの専売特許ではない。「噴きこぼれ」と言って、学校教育の枠におさまらない能力や個性や可能性を持った子ども達もいるのだ。「学校の勉強は嫌だけれども、IQは140」などという子ども達もいるのだ。事実、私どものところには毎年そういう子どもや私立学校に入ったけれども通えなくなったというような生徒がやって来て勉強し、また飛び立っていく。
確かに、15年ほど前に行なったアンケートでは、当時、一般の私立学校では「不登校生」と聞いただけで門前払いの扱いであった。それだけで受験資格はないというところがほとんどであった。特に有名進学校と言われる私立学校に顕著であった。
ところが、いつ頃からが、そういう私立学校に入学した家庭から毎年、不登校生の相談が来るようになった。中には帰国子女で日本に帰って来てから不登校になり相談に来るというケースもあった(海外での個性が尊重される自由な教育に親しんだ子ほど画一化された日本の教育に合わず不登校になることが多い)。そして、また私達のところから私立受験をすることも普通のこととなった。

▼過去は問われず実力で勝負できる私立受験
公立学校の場合は内申点に拘ったりするので受験の評価は低くなることがあるが、私立の場合には面接と試験で、つまりはその子の実力で挑戦できるので自分の意見をしっかりと持ち成績さえ良ければ逆に楽であるという側面もある。不登校生は学校長から推薦状貰うことなどはまず不可能だが、私立受験の場合にはフリースクールでの成績とスクール長の推薦で県内私立のトップの受験校に合格したということもある。
前述したように、文部科学省下の公立学校の不登校に対する認識や理解はあまり変わっていないが、私立学校の場合には大きく変わったと言えるかも知れない。今では、たとえ不登校になって学校を離れてしまったとしても、私どものようなフリースクールで教科学習やスポーツ等による気力・体力づくりが出来ていて、本人がこの私立学校で頑張りたいという強い意志を示すならば、私立学校は(特殊な情操教育を迫る時代感覚がずれているようなところは論外)他の生徒達と同じ様に、場合によってはそれ以上にその子の個性を買ってくれたりして、門戸を開いてくれている。

▼理解が広がりつつある不登校の現象
確かに、日本の教育システムを当たり前と考え、それに疑義を挟み異を唱えるような親がいることを不思議と思い、そういう人達はどこかおかしいのではないかとさえ思うような風潮がないわけではない。特に教育行政に近い側にそういう人が多い。しかし、子を持つ親の側の捉え方には徐々にではあるが変化の兆しがある
先に見た、私立学校の側の変化もその中に含めてもよいと思うが(公立学校は税金で経営を賄っているが、私立学校の場合は父母の援助に大きく依存し、その要望を反映しなければならない)、民間の側ではたとえある期間に不登校になったとしても、それを貫き通し、その人独自の道を切り開いた人達を数多く観るようになってきた。また、全ての不登校の子が学業不振だけで学校を離れるのではないこと(結果としてそうなることは多いが)、進学校と呼ばれる公立や私立の学校の生徒も不登校になること(今までも県内トップ校の生徒も心を癒しにやって来た)、学校教育だけでは立ち行かなくなってきている現実を理解するようにもなってきている。

▼不登校はどの子どもにもどの家庭にも起こること
少し脇道に逸れるが、子どもはそこが自分の生きる場所ではないと身体で察知して不登校になるのであって、親の社会的立場や都合を考えて不登校になる訳ではない。だから、今までも、一方には生活保護家庭とか片親家庭など経済的教育的にも必ずしも楽ではない家庭の子ども達がいると同時に、一方にはその親御さんが公的な立場で華々しいを活躍されているような人であったり、経済的にはまず心配しないで済むような家庭の子ども達もいたりする。
だが、残念なことに、そういう強い影響力を持つと考えられる人達は自らを不登校の親であるとカミングアウトすることはまずない。立場上伏せていたいのだ。教育行政の側の人も、公式的な話が終わった後に、個人的に「実はうちの息子も…」というように話されたことが何度かある。が、それはそこだけのオフレコの話なのだ。
つまりは、「登校拒否はどの児童生徒にも起こりうるものである」(平成4年9月24日 文部省初等中等教育局長通知「登校拒否問題への対応について」)ということだ。何のことはない、子ども達が身体で持って行動で表したことを教育関係の大人達が跡づけしたに過ぎない。

▼不登校経験者のマスコミへの露出
ところが、一方で不登校に対する民間での受け止め方が大きく変化してきている部分もある。隠し切れなくなったというよりは、かつての不登校生自らがカミングアウトすることを厭わなくなって来ている(「成功者」という但し書き付きだが)側面が確かにある。たとえば、宮本亜門、羽仁未央、雨宮処凛、義家弘介…中にはもと不登校だったことを売りにする教師まで現れた。また、安藤忠雄のように、不登校そのものではないがそれ以上に学校を離れた生き方を貫き大成した人もいる。そういう人達にある程度共通している認識は、そういう不登校体験を経て今があるという認識ではないか。単純に「いい」とか「わるい」ということではなくて、経験→成長というプロセスとして受け止めるということだと思う。そういう認識に至ったからカミングアウトも可能であったとも言える。
いや、中にはむしろそれを武器に、あるいはツールにして、積極的に露出を図る場合もある。いわゆるヤンキー先生とか落ちこぼれ先生とか言うのはその類だろうし、それを不可欠のキャリアーにまでしてしまう場合もある。いわゆる何とかタレントなどの場合は、その経歴自体を芸の肥やしにまでしてしまう。

▼国民的象徴あるいは指導的立場の人の子も不登校に
そういう中で、近頃話題を集めているのが、皇太子の令嬢愛子様や日本の新首相になった菅直人の二人の息子の不登校の話題である。その辺の情報はここで取り上げるまでもあるまい。とにかく、かつて不登校といえば学校教育に適応できない「落ちこぼれ」の代名詞か本人の情緒障害等の問題とされたものである。だが、今はそれで言い切れるか。もしかすると将来日本の女帝となられるかも知れない人や行政の最高責任者の子息さえ不登校となるのである。平成4年に文部省が「誰にでもおこりうる」と半ば言い訳的に予言した不登校は、かくして子ども達自身の行動によって成就されたと言っていいだろう。
しかし、これはそんなことは(文科省が)自我自賛すべきことでは勿論ない。危惧が現実化したということで、むしろ恥ずべきことである。教育行政はなんら根本問題には触れようとはせず、その場しのぎの応急措置を繰り返してきた、その結果なのである。
不登校を見る目はそれでも依然として多くの偏見に囲まれており、市民権を得るにはまだとても厳しい状況にある。しかし、日本のトップ層の人達にまで広がった不登校問題は、良きに付け悪しきに付け、特異な現象と見たり、臭いものに蓋をするようなやり方でやり過ごして来た不登校問題に大きな転換を迫るものになるのではないか。それは取りも直さず、日本の教育そのものが問い直され時が来たということである。

※ちなみに、中学時代不登校だった「フリースクール・ぱいでぃあ」の卒業生の中に、学習院大学の学生となって卒業した女の子もいる。そこで不登校になる子もいればもと不登校生を受け入れもする。学習院といえども普通の私立学校なのである。

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