『クレヨンしんちゃん」№1 臼井儀人作
▼「5歳」という漫画の主人公たち
前にも述べたことがあるかも知れませんが、ギャグ漫画「クレヨンしんちゃん」の主人公も、四コマ漫画「コボちゃん」の主人公も、共に「5歳」です。この年齢設定は故意か偶然かという問題ではなく、必然なのだと私は見ています。そして、それを私は勝手に「5歳の眼差し」の問題と捉えています。ただし、作者たちもそう思っているかどうか私は知りません。
▼既成概念を持たない子どもの年代
「5歳」という問題に直接入る前に、上大岡トメ氏という漫画家が『しろのあお』(副題:小学生に学ぶ31のこと)という作品の中で、小学4年生を作品の主人公に据えた理由を次のように書いています。「コミュニケーションもしっかりできて、また既成概念も少ない小学生、特に小学校生活のちょうど中間地点であり、コドモらしさを残している4年生を主人公として選びました」
もし、小学4年生が上大岡氏の言うような存在だとすれば、5歳児のしんちゃんやコボちゃんはまだ小学生になる前のコドモです。上大岡氏の言を借りれば、「既成概念」を持たない「コドモ」そのものの存在なのです。ただし、「コミュニケーション」はまだ覚束ないという条件も備えて。
▼大人の論理の世界以前の子ども
言い換えるなら、小学生はまだ「らしさ」は残っているもののもはや「コドモ」そのものではない。学校に上がったというその時点から、曲がりなりにも「既成概念」を身にまとい、大人の論理の世界の約束事に従うことを受け入れた「コトナ」という存在なのです。
では、「しんちゃん」や「コボちゃん」という5歳を主人公とする漫画が、人畜無害な無党派的な非政治的な他愛のない漫画かというと、どうしてどうして、決してそう断言することは出来ません。人は人である限りにおいて政治的たらざるを得ない生き物なのです。そういう意味では「しんちゃん」も「コボちゃん」も極めて政治的党派的な存在なのだと言わざるを得ないのです。
▼漫画家の意図的必然的な選択?
ただし、彼ら子どもという存在が政治的党派的であるというのは、まさに彼らが「5歳」であるということそのものにあるのです。そして、彼らは本来は人(大人)への成長物語となるはずの入り口に立ち、「5歳」という原点にとどまり続け、そこから動こうとはしません。むしろ、これらの漫画ではこの「5歳」という設定が他では代替できない積極的な意味を持たされているように見えます。どういうことなのでしょうか。
その解答の一つは、その子ども達には大人の常識の世界に入るための決定的な条件が欠落しているということ、言い換えれば、まだその年齢に達していないということがあります。
もしかすると、彼らを主人公に据えた漫画の作者たちは、その欠落した条件をこそ、稀有の価値と認識して、大人にとって当たり前とされている価値観を、笑いとギャグによって相対化する意識革命を試みたのだと言えなくもありません。
(2)に続く
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