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教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

講演会&交流会--不登校の味方(味方)考え方

2013年11月11日 | 日本の教育

2010年8月8日ー学びの輪・実践の輪・支援の輪ー NPOニコラの記念講演と実践報告会から

◎----祭りの後に----
▼官民連携の「保護者のための不登校セミナー」のパート1、パート2が無事(?)終了しました。教育行政と民間の教育機関・団体がそれぞれの立場を尊重しながら互いに協力し合える関係に至ったのは大きな成果だろうと思います。でも、教育の専門家の目から見たらどんなものだったでしょうか。もしかすると〈笑っちゃう〉ことも多かったかも知れません。
 その辺も含めて、官民連携による今年の「不登校セミナー」については、後日お話したいと思います。

◎----NPO法人教育ネットワーク・ニコラの年次総会、講演会、懇親会のお知らせ----
▼実りの秋を迎え、皆様におかれましてはますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
 日頃は、NPO法人教育ネットワーク・ニコラ(フリースクール・ぱいでぃあ)の教育活動へのご理解、ご協力を頂きありがとうございます。
 今年も下記の要領でNPO法人教育ネットワーク・ニコラの総会、ならびに交流会等を開催したいと存じます。ご多用な中、恐縮ではございますがご家族揃ってのご参加をお待ちしております。

  日  時 2013(平成25)年11月15日(金曜日)18時~20時30分
  場  所 浦和コミュニティセンター(パルコ10階)第14集会室
  総会議題 第9期事業報告書及び収支決算の承認に関すること
       第10期事業計画案に関すること
  講演会  不登校の見方(味方)考え方


◎タイムスケジュール
 ・18時00分~18時10分 開場・受付
 ・18時10分~18時15分 合唱
 ・18時15分~18時45分 総会
 ・18時45分~19時00分 寸劇(ぱいでぃあ生徒による「泣いた赤鬼」)
 ・19時00分~20時30分 講演会&交流会(お食事会)

※「講演会&交流会」では会場からの質疑も出来ます。
※講演会を視聴ご希望の方は、19時からご参加ください。
※講演会は無料。オデン券、オニギリ券をどうぞ。
※ご不明の点はお尋ね下さい。

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保護者のための不登校セミナーパート2 で望むこと (企画に関わった一員として

2013年10月12日 | 日本の教育
上野公園噴水

保護者のための不登校セミナー パート2 で望むこと (企画に関わった一員としてPDFファイル
〈↑ クリック 〉

▼「不登校児童生徒支援のための官民連携会議」による「保護者のための不登校セミナー」(県教委主導)は9月14日(土)の「パート1」を無事終了し11月4日(月・祝日)には民間団体主導による「パート2:不登校によりそって ~ひとりで悩まないで、つながりの中での子育て~」が予定されています。「パート2」は、「オープニング・セレモニー」(元不登校生による)「不登校の子どもの保護者の体験談」「不登校支援団体からの報告・質疑応答」というような構成になろうかと思います。お役立ていただければ幸いです。、(場所:さいたま市民会館うらわ、参加費無料 詳しくは別紙参照)

第一部の「オープニング・セレモニー」では、不登校からの旅立ちにはいろいろな姿がありますが、その一つとして大衆の眼前でも臆することなく自己を表現している姿を見てほしいと思います。また、第二部では不登校のわが子に寄り添い、愛し、手助けする中での様々なドラマ、成功談や失敗談などから、現在そういう状態にあるお子さんに適した接し方を考えていただければと思います。また、第三部では不登校の親の会やフリースクール等の民間団体での日々の取り組みや思いなどについて、それぞれの角度から報告されるものと思います。偏見も含めて〈危険手当でもなければ関われない〉と言われる〈危ない仕事〉に敢えて飛び込み従事する人たちのお話を是非お聞きください。

▼今でこそ「官民連携」という形で不登校問題に取り組むようになりましたが、20年近く前、私達が始めた頃は(集まってきた不登校のご家庭の数にそんなに大きな違いはありませんが)全く社会的には不登校が認知されていない中での行動開始でした。しかし、その時に〈不登校の子どもや親の側に立つ民間独自の行動〉とはいえ、まだそのための市民団体もなくNPO法も成立しておらず、今回一緒に不登校セミナーを企画した親の会やフリースクールやサポート校等どは、まだ目に見える形では埼玉県には一つも存在していなかったのです。全く徒手空拳での不登校を生み出して顧みない当時の教育の在り方への異議申立てであり、〈教育や人の育ちには待ったはない〉ということでの民間独自の行動開始であったわけです。

▼現在、当時ほどの偏見や悲壮感はありませんが、不登校は依然として日本の教育の中では異端の扱いにあります。と同時に、当時は主として学校や学校の教育制度等に向けられていた批判が次第に広がりを見せ、〈親業〉に象徴されるように子育ての現場や家庭での教育観、不登校産業とも言うべき学校ビジネス、不寛容な社会、パブリック精神に乏しい日本人の問題…等、も俎上に登ってくるようになりました。
 「親子だからできる」こともあれば「親子だから難しい」ということもあります。一体、親御さんは我が子にどういう願いを託しているのか、それは子どもの願いと重なるものなのか否か、我が子だけに注目する教育・子育てでいいのだろうか…。様々なことを考えるきっかけとなり、お子さんによりよい展望が開かれれば幸いだと思います。

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《不登校セミナー》の開催に至るまで--不登校の子どもの家庭に広く伝えるために

2013年09月09日 | 日本の教育

金沢駅前通り:日本海・全国よさこい大会から

▼ここ数年、フリースクールや不登校の子どもを持つ親の会等の民間団体と県の教育委員会・県教育局とは、現在不登校状態にある子ども達のために何が出来るかを話し合い、その成果を年に2回《保護者のための不登校セミナー》を開催するという形で広く参加を呼び掛けてきた。
 その際併せて、不登校のお子さんを持つ親御さんの本音を知ることを第一の目的に、かなり詳細な《アンケート》も取らせていただいている。その生の声をその後の活動に活かしたいという思いからである。〈子どもの思いが分かっているようで分かっていない〉ーーそれが不登校問題の特性でもあるからだ。

▼幸い、その《アンケート》の中にはかなり詳細な回答も見られ、参考になるものも多い。現在、不登校の子ども達が全体としてどんな傾向にあり、何を求めているかもおおよそ知ることができる。県の教育問題(広くは日本の教育問題)を実態に即して考える上でも大いに役立つのではないかと思う。
 そして、日本特有の(もっと広く言えば東アジア特有の)現象とも言える不登校問題が(外国に不登校がないということではないが、現れ方が違う)何に起因しているのか、どこをどうすれば好転するのか、そういう問題にも今以上の見通しを立てられるだろう。

▼それでは具体的に会議の場でどんなことが話し合われているのかと言えば、我々会議のメンバーは全くの縁の下の力持ちの役割をしている。なるべく広く多くの不登校の子ども達やその保護者に知ってもらい、未来に繋がる可能な手掛かりを提示すること、それに徹している。
 《不登校セミナー》を開催するためのこの黒子の役割がどれだけ理解されているか、実はほとんど分からない。ただひたすら任務遂行に向け議論を進めるだけ。官民連携とは言え、参加者個人に資するところは一切なく、全くのボランティアというのがこの会議だ。

▼実はこの会議に参加する前には一つの問題があった。県教委と一緒に不登校のイベントを企画する民間団体が先にあった。ところが、他の団体には十分に情報や資料が届いておらず、意図せずともかなり利権の強い内輪の会議になっていた。その事を県教委に指摘したことがあった。
 NPO法もまだ出来てない頃から、不登校の子どもを抱えたり日本の学校教育に様々な疑念を持つ民間の立場から、月刊教育雑誌『ニコラ』を全国に先駆けて発刊し(日本で初の不登校専門の全国誌と目された)、毎月不登校の保護者のための《ニコラの会》を主催し、春と秋の年2回程度、通信制高校や技能連携校、サポート校等の諸団体を毎年10校ほど集め、東京や埼玉で《教育実践報告会》等を開催し、フリースクールも運営してきたものとしては、とても不可解なことだった。その他にも知らされていない団体もあった。不登校問題を真正面から取り組み解決に導こうとするならば、こういう恣意的な振る舞いはあってはならないあり方であった。

(この件については、稿を改めて書き記してみたいと思う。)
(日本の不登校の歴史を検証する意味で、『ニコラ』の電子復刻版を準備中。)

▼とにかく、今年も県教委・県教育局の主導で9月14日(土)に第一回、親の会・フリースクールの主導で11月4日(月・祝)に第二回という形で無事開催が決まって、正直ほっとしている。学校や教育施設、公民館、新聞やラジオ、官報やSNS等、あらゆる媒体を使って出来うる限り広く知らしめたいと思う。
 昨年は2回合わせて700名以上の方々が参加された。今年はそれを上まわってくれたらとても嬉しい。そして、それぞれ自分に相応しい進路や生き方を見出す手掛かりとして欲しいものである。

※《保護者のための不登校セミナー》埼玉県のHPから

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〈大学生の不登校〉と日本の教育--日本の不登校・引きこもりから見えてくるもの

2013年08月30日 | 日本の教育
金沢:兼六園にて

▼もうだいぶ前のこと、読売新聞の教育メールの回答者をしていた時にも軽く触れたことだが、以前『ぱいでぃあ広場』という《ひきこもりの広場》をやっていた。そこには高校中退者や高校卒業後にアルバイト等をやっている青年もいた。でも、参加者の大部分は明治、上智、早稲田、中大、青山等の四年生大学の学生やその経験者。彼等は今で言うところの《大学生の不登校生》のハシリであった。(世間で大学生の不登校が話題になるのはそのずっと後のこと)

▼高校からそのまま、予備校を経由して、あるいは高校には行かず大検でバイパス的にとか、大学に進学した方法は様々だったが、当時の多くの高校生が憧れたような大学に自力で入学した彼等だった。だから、学校的知力はそれなりに高い学生達。しかし、そこに辿り着いてみると、そこは自分の思っていた大学のイメージとは随分違っっていた。大学に入ることを目的にひたすら勉強してきた彼等、だからこそ起きたことかも知れない。大学には入ったもののそこで何をすればいいか分からない…。大学では誰もそのことを教えてくれない…。当然のことながら、そんな彼等に友達が出来るはずもない。全ては自由だったが、自由をどう使っていいか、皆目分からない…。誰も教えてくれなかった…。

▼大学に入るまで学習塾や予備校などで絶えず教えられて来た彼等は、受け身で勉強をすることが常態となり、勉強とは教えられたことを覚えることだと思っていたようである。自分で考えることはほとんどして来なかった。大学受験まで誰かが必ず声をかけてくれていた。が、大学に入ったとたん--極めて当たり前のことだが--もうそこは誰かが親切に教えてくれる世界ではなかった…。
 考えるのも自分なら、やるのも自分。そういう世界は初めてだった。中には大学を終え就職する段になって初めて、仕事をするにはどうすればいいか、自分は誰からも教わっていなかったことに気付く人もいた。
 笑い話でも作り話でもない。実際にそういう大学生達が《ぱいでぃあ広場》にやって来たのである。

▼ここで《ぱいでぃあ広場》とは何かについて簡単に説明して置きたい。
 1999年に埼玉県岩槻市に全国引きこもりKHJ親の会が設立された時、代表の奥山雅久氏から、私達の不登校支援の月刊雑誌『ニコラ』を〈全国引きこもりKHJ親の会の機関誌として活用させてはくれまいか〉という申し出があった。その時は〈『ニコラ』はあくまでも不登校という未成年の学齢期の子ども達を対象とする雑誌で、成人も対象とするのは難しい〉とお断りした経緯があった。しかし、〈その代わりに教育ネットワーク・ニコラとしても出来るだけの応援をしたい〉ということで、岩槻の公民館で開かれる毎月の本部会合になるべく参加すること、フリースクール・ぱいでぃあの会場で毎月1回『ぱいでぃあ広場』という引きこもりの青年の集いを開くことを申し出たのであった。この関係は代表の奥山雅久さんが国会への請願や法整備も一通り成し遂げ成し遂げこの世を去られるまで続いた(同行して文科省や厚労省にも行ったことがある)。教育ニコラ15周年の集いに余命幾ばくかの病をおして参加して下さったのが生前お会いした最後となった。

▼この大学の不登校生問題は子ども達が心の問題を解決しないまま先送りした結果には違いない。が、それ以上にもっと深刻な日本の教育問題を露呈したものであろう。不登校生として否定的な評価の眼差しに晒されて不本意な形で小中高時代を過ごした子ども達がいる一方、現在の日本の学校教育の中で最も称賛すべき出来る生徒、頭脳優秀な生徒と評価されてきた子ども達もいたのである。共に日本の教育システムの容認される枠から落ちこぼれてしまったりはみ出してしまったりした子ども達である。
 いつから日本の教育システムはこんな狭量なものになってしまったのか。枠からはみ出たことで生きる方向が見えなくなることにも問題はあるが、柔軟性を失った人為的な枠があたかも絶対であるかのように、そこから外れた子ども達を教育棄民の状態に追い込むことは文化的先進国として取るべき方法ではあるまい。大学の不登校生達は日本の教育行政の狭間に落ちた犠牲者とも言えるのではないか。

▼足が悪いとか目が悪いとかいうのであれば外見から誰でも容易に判断が出来る。そのことは変えようのない事実として受け容れるしかないだろう。事実、それさえ分かり合えば、そしてその補助さえあれば、その人は他の人と何ら遜色のない人間的行動を取れるのである。
 しかし、不登校や知的・精神的障害を抱えているような場合には、なかなかそれが難しい。専門の医者でさえ3分間診療では正確な判断は難しかろう。まして事情の知らない部外者や素人ではそれがさらに困難なことだ。
 これは単に日本の教育界だけでなく、社会全体が異質異色の存在を認めず、排除する空気がとても根強いことにある。《出る杭は打たれる》--この諺は今でも生きている。
 以前、全国引きこもりKHJ親の会にABCやBBCの取材が入った時、アメリカやイギリスにも引きこもり(social withdrawal)の青年がいないわけじゃない。でも、日本の場合は特殊だと言った。だから、「引きこもり」という言葉を英語等に訳すことは出来ず、〈hikikomori〉として世界共通語となってしまった。そういう特殊性が日本の社会にはある。

 
▼では、こういう不登校やひきこもりのような事態に突き当たったなら、具体的にどう行動すべきなのだろうか。
 〈人は変わろうと思えばいつでも変われる〉という言葉がある。これは本当であろう。しかし、年齢と共に変わりづらくなってくるのもまた本当である。だから、正直、〈大学生の不登校〉というのは容易に変わることは難しい。遡ればその淵源は〈高校→中学→小学→園児時代〉と遡るかも知れない。その先送りの結果が今かも知れないのだ。でも、不可能ではない!
 〈いつやるの?今でしょう!〉という言葉がある。彼らにとって〈今〉とは何だろうか?もうそれは知ることはできない昔の話で、知ることに意味があるとも思えない。むしろ〈やはり封印したままにして置いた方が良かった〉ということになる危険性さえある。
 当時、〈もう勉強はしたくない、仕事もしたくない〉と訴えるある大学生に聞いたことがある。〈じゃあ、何がしたい?〉と。〈遊びたい〉〈どうして?〉〈今まで馬鹿になって遊んだことがないから…〉〈じゃあ、思いっ切り遊んでみれば!〉
 彼等はとても素直だ。それを実践した。会に集まったメンバーで飲み歩いたり、バカをやって騒ぎまくったり、みんなで企画して遠足に出掛けたり…今まで〈いい子〉で封印されていたものを引き剥がし、好きなように行動した。そうして少しずつ今までの作られた自分を壊していくように見えた。そして、数ヶ月経った時、その中の一人が訊いてきた。〈どこかアルバイトの口ないですかね?〉それはやがて彼が社会参加するための前触れであった。

▼今こうしている間にも次々と新たな不登校の子ども達や引きこもりの若者達が生まれているのかも知れない。そして、その半分以上は本人達のせいではないかも知れない。教育環境や社会のシステムの特殊な価値観が作り出していることも多分にある。根本的に変えようと思うならば、そういう社会の根幹にメスを入れ、ひっくり返すしかないかも知れない。しかし、また同じ毒キノコが生えて来ないとも限らない。ならば、どうする!?
 ●〈君子危うきに近寄らず〉という。剣豪武蔵も逃げた。総大将義経も逃げた。逃げるのはより良く生きるためである。犬死すべきではない。他人の無責任が言動で自分を殺すべきではない。
 ●自分の生命なのに当てにならない他人の言動に任せるな。放射能で死にたくなければ放射能から自ら離れべき。〈やってくれない〉と嘆いても未来の扉は開かない。自ら行動する以外に助かる道はない。
 ●HIVに感染し重篤化すれば、たとえば風邪でも死の危険がある。しかし、一般に風邪菌で死ぬことはまずない。それくらいには負けない体力や免疫力があるから。同じく不登校の場合も、多少の攻撃では負けない体力を付けておくことも必要である。

▼〈フリースクール・ぱいでぃあ〉ではだいたい上記の考え方に基づいて、心身の無理のない増強によって、不登校からの脱却を図っている。
 障害のある子ども達を中心に引き受けているフリースクールもあるが、それはそれで意義のある関わりだと思う。しかし、〈ぱいでぃあ〉での支援の仕方とは別である。
 また、医師と連携は取り合い情報は交換し合うが、フリースクールは病院やクリニックではない。もっとオープンな教育的関わりによって不登校の子ども達の再起を実践している。
 不登校の子ども達は学校教育の視点からは中々見えない豊かな個性を持っていることが多い。むしろ個性的であったからこそ不登校になったとも言える。その個性を見つけること、それを認めること、それを評価すること、それを発掘すること…フリースクール・ぱいでぃあでは、いつもそういう視点で子ども達を見ている。

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『はだしのゲン』問題の意味するもの--教育は民のもの

2013年08月19日 | 日本の教育
『はだしのゲン』問題の意味するもの・追記

▼松江市の教育委員会が劇画『はだしのゲン』に閉架書籍扱いの措置を取るよう口頭で要請したという報道は教育に関心のある保護者や教育関係者の間ではもう周知のこととなった。よく知られた原爆漫画ということもあってか、またSNSの時代ということもあってか、マスコミでの扱いはいざ知らず、情報の拡散が意外に速かった。しかしこれは、誤解や批判があったから撤回すれば済むというような簡単なことではない。

そもそもこれは教育委員会が〈子どもに触れさせない方がいい〉と言って《悪書追放》のような形で扱うようなマンガであるのかどうか、それはヒトラーのやった《焚書》と同じではないのか、一体誰の権限でそういうを措置を決定をしたのか--と話は発展する。。
 それよりもさらに解せないのは学校の校長や一般教員の態度である。何が正しく何が解せないのか、自主的に判断することを全く放棄している。よく《事件は現場で起きている》と言われるが、教育界では現場の当事者である教員自身が骨抜きなのだ。

▼だから、学校の教室の壁にどんな立派な標語を掲げようと教育の中身は絵空事に過ぎない。これでは子ども達の教育に何か期待できるわけもない。可哀想なのは子ども達である。そこには大人のモデルになれる教師がいない。彼等は自ら行動方針を立てられず、ただ上からの指示を待っている。こうして学校教育の現場で支持待ち人間がつくり出される。これでは教育というもの内実において欧米の子ども達に敵うわけがない。(もう一国に都合のいい子どもをつくる時代ではない)

▼その結果どうなるか。放射能汚染された地域から動けない福島の子ども達を見るといい。〈地産地消〉とか〈地域で育つ〉とか聞こえはいいが、実際には政治経済優先の文科省の号令に従ったまま(教育も原子力も文科省の許認可だ)子ども達の生命が危険にさらされたままに放置されている。その責任を教師達が取れるはずはない。また、そんな方向に持って行くべきでもあるまい。
 かつて国の命ずるままに教え子達を戦場に送り出した教師たちがいた。敗戦受諾の直前まで生きていた子もいた。その教師たちは戦後も言われるままに〈自主的に!〉かつての教科書に墨を塗り、〈民主主義の世の中になった!〉と子ども達に説いた。そんな教育や教師達とどんな違いがあるか!

▼はからずも今回、日本の学校教育の〈主体性〉なるものが明らかになった。教育を学校任せにしてはいけない。学校に子どもを任せて安心してはいけない。
 明治5年、日本に学制が発布される前、子ども達の教育は家庭が責任を持ってやっていた。国家が保証した教科書がなかろうと、子ども達を立派な社会人に育て上げたのである。子どもは自ら教育されることを要求する学習権を持ち、保護者はそれを実現するための教育権を持つ。教育は国家の専有事項ではないのである。国家に任せっ切りにして戦争に突入した歴史を忘れてはならない。
 もう一度教育の原点に立ち返り確認したい。公教育の変革を百年河清を待つかのように願っても未来はない。それが嫌であれば、自ら動くべきである。行動するべきである。不登校の子ども達が自分たちの存在をかけて行動しているではないか
 その意味で今回の松江市の教育委員会の行動は、我々に良いキッカケを与えてくれた。ちなみに、今、当の教育委員会には、多くの非難や撤回の要求が来ているそうである。

(松江市の教育委員会の委員等はつんぼ桟敷に置かれたまま、教育長が審議にかけず突っ走ったらしい)
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劇画『はだしのゲン』を無料鑑賞しよう!--原爆の正しい理解の一助として

2013年08月18日 | 日本の教育
◎この夏休みを機会に、このブログ『教育落書き帳』の性格を少し変えようかなと思っている。
 今まではほとんど不定期な形でアップして来たが、今後はまるべく多く、少なくとも週に一度程度は必ずアップするという形でやっていきたいと思う。


▼その第一弾として、まず、世界的にも知られる故・中沢啓治氏原作の劇画『はだしのゲン』が島根県松江市の教育委員会から市内の全市立小中学校で閲覧規制がかかった問題を取り上げ合いと思う。

(アニメ『はだしのゲン』から)

▼8月16日付のマスコミの報道によると、島根県松江市の教育委員会が、原爆投下時の広島を描いた漫画『はだしのゲン』に対して子ども自身が自由に閲覧できない「閉架」の措置を取るよう松江市内の全市立小中学校に要求したという。
 その理由として市教委は、旧日本軍がアジア人の首をはねたり、女性を乱暴したりする場面があることをある市議から指摘され、暴力描写が過激過ぎると自主判断したらしい。しかし、作者自身が生前語っていたところでは、それは子ども向けに作者が実際の残虐さを弱めて表現してあるという。

▼原爆投下から既に68年がたち、被爆者の平均年齢は78歳を超える。当事者から被曝の体験を聞ける機会が年々少なくなっている。その意味でもこの作品は子ども達に戦争体験をバトンタッチする重要な役割を持つと言える。

▼広島の平和記念式典で広島市の松井一実市長は「無差別に罪もない多くの市民の命を奪い、人々の人生を一変させ、また、終生にわたり心身を苛み続ける原爆は、非人道兵器の極みであり、『絶対悪』です。」と述べた。正にそのような思いが作品には描かれている。

▼生前、作者中沢啓治さんは、出来るだけ多くの子ども達に読んでほしい願い、『はだしのゲン』の著作権の対価を求めることなく翻訳を認めた。その結果、『はだしのゲン』に共感した日本や海外の読者がボランティアで翻訳を行い、今や原爆マンガの古典として様々な言語に翻訳されて広く海外でも読まれるようになった。全編が英訳された最初の日本漫画でもあるという。

今回の松山市教育委員会の措置は、こういう世界の動向にも、国際化を目指す教育にも逆行するものだ
 幸か不幸か、そういう一市教委の要求とは裏腹に、かえってそれが刺激となってか、今までは手にしたことがなかった子ども達まで読み始めている。英訳の10巻本が飛ぶように売れているとか。
 昔の為政者が行ったように(ヒトラーもそうだった)焚書すれば国民の耳目を塞げる時代は終わった。むしろ火に油を注ぐことになろう。それが健全な国民意識の作用というものだろう。その意味では、今回の松山市議の時代錯誤的半教育的な行動は、逆に原爆に対する国民の意識を高める起爆剤になったのではないかと思っている。

※なお『はだしのゲン』の動画は、現在、無料で動画GyaO!で見られるようになっている。夏休みの原爆学習として観てみることをお勧めする。
それこそが現在もなお放射能汚染下で苦しみながら生活を続けている福島の人達と繋がることにもなるだろう。そこで日夜作業している人達もいる。
 ちなみに原爆で苦しんでいるのは今や日本人だけでなく原発の燃料製造や管理に携わっている多くの人達の問題でもある。

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新「ぱいでぃあ広場」の開設--ホームスクールで勉強している子ども達のために

2013年06月14日 | 日本の教育

ぱいでぃあ広場

ホームスクールで勉強している子ども達のために



▼私達の周りには朗らかな笑顔を振りまいて学校に通っている子ども達がいる一方、様々な事由で学校を離れる子ども達もいます。そういう不登校の子ども達に対してフリースクールは様々な形で学びや活動の場を提供してきました。しかし、同じ不登校でありながら圧倒的多数の子ども達は教育行政の用意した適応指導教室は勿論、フリースクールにも通わず、ホームスクール、ホームエデュケーションという形で自宅で過ごしているのが現状です
 欧米の場合には、富裕層の人達にホームールを実践している家庭が多いようですが、日本の場合には不登校の特殊な事情もあって経済的理由等による場合が多いようです。その結果、不登校から引きこもりに移行し、学業もなおざりになり、成人しても社会参加ができなくなる場合が多く見られます。そのような状態は、本人にとっても無念な人生行路であろうし国家にとっても多大なる損失であろうと思います。

▼学業は家庭である程度補えるとしても、スポーツや身体的活動、感覚の自在な開放、社会体験学習などを通じて社会性を養い、将来の社会参加に備えるために、フリースクール(ぱいでぃあ)の学業以外の活動に合流し、共に学ぶために、新規に「ぱいでぃあ広場」を設けし、「ぱいでぃあ活動」に参加できるようにしました。(以前の「ぱいでぃあ広場」は有名四年制大学を中心とする引きこもりの広場として開設していました)
 家庭の経済的事情も考慮し、なるべく負担の少ない形で参加できるようにしました。家庭を拠点に子どもの教育活動は行っているけれども、子どもが社会参加するための活動や感覚の涵養を考えておられた方々などは、ぜひ一度問い合わせください。きっとよい方向が得られることと思います。


■洋の東西を問わず、「教育の原点」はホームスクールに あります。たとえば、西洋では近代以前、学校らしきものは寄宿舎制が大半で、家庭教師を付けて自宅で教育することが多かったようです。日本の場合も、平安時代には宮廷文学が栄えたのもそういう人材を生み出す教育が既にあったようでしょう。でも、それが可能だったのは富裕層の家庭の人たち。「子どもの発見」者とされるジャ ン=ジャック・ルソーも家庭教師の一人でした。日本では江戸時代に武士などは藩校で学んだようですが、庶民の多くはその頃多数存在した寺子屋で学んだようです。いずれにせよ子弟の教育はまずは家庭から、民の教育として始まったということは疑いがないようです(特に日本の場合、民間の主導でこれ程の教育がなされていたことは特筆すべきことです)。

■日本の場合、近代の学校教育が始まるのは明治時代になってからで、
明治5年の学制発布をその初まりとします。しかし、それはまず何よりも近代国家を維持発展させるのが最優先課題であり、必ずしも国民の教育を尊重するというものではなかったよ うです。その結果、民の立場から、家庭での教育を第一と考える人達から激しい反発があったのは当然だったかも知れません。
 特に第二次大戦後、日本が高度成長の路線に突入する中で、教育にも進学に傾斜する大きな負荷がかかり、一方では個性を尊重する風潮の高まりの中で、正規の学校には通わず、
フリースクールやホームスクールで学ぶ子ども達を生み出すようになりました。
 ただし、
日本の文部科学省は学校教育法の規定により義務教育を家庭で行うことを原則認めていません

■本来、
義務教育の義務とは保護者が子どもが学習する機会を保証するという意味。ですから、何らかの事由で子どもが学校ではなく家庭で勉強することを望む場合には、英米等と同じように日本でもホームスクーリングを行うことは可能なわけです。それが子どもの教育を支援することになるわけです。日本ではあまり表立った活動にはなっていませんが、現在、一定の人達がホームスクールという形で勉学を行っています。
 しかし、ホームスクール、ホームエデュケーションという形で学ぶ子どもたちは
社会から十分な理解が得られず孤立しがちな傾向にあるのも事実のようです。

■教育は時代によって変化します。そして、時代の要請に従い時代に相応しい人材を育成していくことは教育の持つ大きな使命です。国が多額の税金を投入する形で公立学校を営み、大多数の国民の様々な要望や批判を受けながらも、国民に学業を学ばせ、将来の社会人に相応しい社会性を身に付けさせるための学校教育 を行っているのはそのためです。そして、義務教育段階の子ども達の育成には教育の基本的な費用は国が引き受けるという形で、《無償の教育》を行っています。
 しかし、それでも
不特定多数の子ども達を受け入れる学校では、様々な問題が生じますいじめ体罰だけでなく、学業不振もいれば浮きこぼれと呼ばれる子ども達もいます。

日本でのホーム・エデュケーションは学業はともかく社会性を涵養するには十分とは言えません。特に学校での出来事が原因で通学できなくなって家に引きこもり、ほとんど外部との接触を絶ってしまった子供の場合には心配なことです。
 英米等の場合であれば、そういう子ども達を支援する多くの機関や施設が存在するようです。しかし、学校に行くことが当たり前とされる日本の場合には、本 人の事情や親御さんの考えがどうであれ、子どもは何か悪いことでもしているように引け目を感じることが多くなりがちです。その分、
子どもの社会化は一層難しくなることが多くなります。

■そこで、
フリースクール・ぱいでぃあでは、毎日ぱいでぃあに通ってくる子ども達をとは別に、ただし、その一部の活動をホームスクーラーの人達に開放し連携する形を取り入れることにしました。具体的には、週3回の午後の「ぱいでぃあ活動」をホームスクーラーの子ども達に「ぱいでぃあ広場」として開放します。そして、フリースクールの活動と連携する形で、ともすると引きこもりになりがちなホームスクーラーの支援活動を行いたいと思います。
 対象は、私立・公立の小学校・中学校に在籍する子ども達。NPO法人の会員となり相互支援の仲間となってもらう中で、フリースクールの子ども達に準じた扱いとなります。受験を含めた私立校・公立校等への進学を目標とします。

■「ぱいでぃあ広場」の概要
▼毎週:月・水・金の午後の活動

 ※座学以外の多様な活動を行い、社会参加に向けた身体や感性を培います。
 ※スポーツ、絵画、音楽、工作、言語表現、ゲーム活動、遠足、社会体験学習…
  (アウトドア&インドアの総合活動)
 ※月謝:20,000円(毎週3回、各2時間~) NPO年会費(利用者)10,000円
▼希望者は、フリースクール・ぱいでぃあの3日コース、5日コースに変更できます。

詳細は、ぱいでぃあにお尋ねください。


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「いきいきニコラ」のサイト
http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/

「フリースクール・ぱいでぃあ」のサイト
http://freeschool-paidia.com/
「ぱいでぃあ通信」(不登校・フリースクール応援マガジン)(ブログ)

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毎年恒例の「(平和のための埼玉の)戦争展」の開催について

2013年06月01日 | 日本の教育
▼今年もさいたま市の浦和コルソ7 階ホールで「戦争展」(2013平和のための埼玉の)(7/25-7/29)が開かれる。毎年のことだが、今年も主催者からその案内を頂いた。寄付への協力の言葉も添えてある。市民団体からこういう案内をいただけば、よほど時代錯誤的なものでないかぎりなるべくその活動には協力することにしている。時間が許せば、ブログの紙面を割くこともある。
 
埼玉県知事が自民党出身の土屋義彦氏から現上田清司氏に代わって県の後援が外されたのは残念なことだったが、それでも市民の熱い応援もあって毎年の開催を維持してきたのは素晴らしい。が、戦前戦中世代が高齢化し没していく一方、戦争を知らない世代が社会の指導的立場に立つようになって、様々な問題が生じるようにもなってきた。
 
▼一つには、国内のナショナリズムの高揚に伴い、今までの歴史が《自虐史観》と揶揄され、上からの歴史の見直しが始まったことがある。実際に歴史教育を行う教育現場では、近代現代の歴史、とりわけ戦後の史実を明確にすることを避けてきたきらいがある。しかし、《自虐的》と考える国の指導的立場の人達の歴史の見方がそのまま国際社会でも通用するかといえば、そうは行かない。むしろ、《自虐史観》とするその見方そのものが国際社会では批判の対象となることが起きている。
 
▼「歴史」とは厄介なもの。数百年が経過し学術的にも比較的安定した評価を得られるようになったものはいいが、今なお時代の生き証人が健在な時には、それぞれの個人が置かれた現場での立ち位置によって大きく異なってくることがある。全体の評価の前に個人的な体験がまず優先する。そして、歴史とは基本的に《物語》である以上、そこに個人、地域、国家など様々な位相がある。同じ現実を前にしても、現実の捉え方、切り取り方などはみな異なる。だから、単に資料を調べたり証言を拾い集めたりするだけでなく、できるだけ生きている生身の人間に触れたい。生き証人が高齢化した今、残された時間はそんなには多くない。
 
▼ここで多くは触れない。是非、実際に足を運び自分の目で様々な物を見てほしい。生き証人の貴重な体験談も聞けるだろう。詳しくは下記を参照して頂きたい。
 
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《蚤の調教》から《不登校》の問題を考える(2)--騙されたと思ってもう一度跳んでみろ!

2013年04月22日 | 日本の教育
《蚤の調教》から《不登校》の問題を考える(2)--騙されたと思ってもう一度跳んでみろ!

▼「ぱいでぃあ」に相談にやってくる子ども達の様子を見ていても、その大部分が(失礼な言い方で申し訳ないが)調教されたノミのようになって来ることが多い。。本来はもっと朗らかで、大らかで、好奇心いっぱいであったはず。小さい頃は《ねえ、どうして?》《ねえ、教えて!》と興味や疑問を次々とぶつけて両親を困らせたはず。ところが、今は《嫌い》《怖い》《○○たくない》等の人との関係性の否定と《どうせ自分なんて…》という自己卑下の塊となってしまっている。それでいて、自分が非難されるのを何よりも恐れ、悪いのは全て他人であり、一切の責任は他者にあると自己保身の思いで必死になっている。しかし、自分からは変わる等ということはまるで考えられず、棚からぼた餅のようにひたすら待ちの姿勢になってしまっている--そういうことがとても多い。

▼こういう調教された《ノミ》のような状況に陥ってしまった不登校の子どもを、いかにその状態から掬い上げるか?それが伴奏者・支援者としての我々の大きな課題となる。幸いにして私達のところに来て最後まで取り組んだ子どもの場合にはほとんどそういう例はない。が、不幸にして引きこもりの袋小路に入り込んで這い上がれなくなってしまった子ども達の事例を様々見てきた。ここで敢えて言うが、そういう子ども達に共通しているものがある(批判や利害の関係が絡んでか、こういう問題に関わる人達は直接言及することを避けることが多い)。何だと思いますか?そもそも、不登校になる子ども達は総じて素直で真面目である。だから、周りの人が「こうしたらいいよ」ということには素直に従ってしまう。逆らえない。たとえそれが自分の意に反することであっても。その結果、ますます不如意な結果に陥ってしまう。その反動で、心を許せる者達には手当たり次第に当り散らす。時には自爆してしまう。堂々巡りの出口なしの悪循環である。

▼素直で真面目であることは悪いことではない。だが、結果としてそれが自分という人間を生かさず自分を否定し自分を殺すことになる。不登校の子ども達が陥る落とし穴がここにある。一時代前の道徳律、《滅私奉公》等がこれに当たるだろうか。人に尽くすために己を虚しくするということは、人に良く尽くすために己を磨くのとはベクトルの向きが正反対である。誰からも良く思われようとして結局は自分育てをお留守にしてしまう。不登校の場合にこういうパターンが多い。もし、不登校になってからもそういう《善意》に従うならば、結局はこれまでと何も変わらないことになる。前の時には嫌な思いで不登校になったのだとしたら、この場合には善意にほだされてさらに深みにはまってしまったということになる。形は違うが構造は同じなのだ。

▼では、《不登校はどう考えるべきなのか?》《「脱・不登校」を実現するためにはどうしたらいいのか?》それが不登校問題の最大の課題だ。人の善意に従うことが結果として自分を殺すことになるならば、《自分を生かす》ためにはむしろその《善意》の甘い言葉を跳ね除ける勇気を持たねばならない。そして《一体、自分は何をしたいのか?》と自分の内心の声にじっくりと耳を傾けるべきである。もしかすると、非難を浴びることもあるかもしれない。しかし、《不登校》という《蟻地獄》状態から抜け出すためには、《自分で自分の意思で動く》しかないのである。もし、《自分の意思で動きたいけれども動けない》とか《動き出すのに自分や親の力だけでは不可能》ということであれば、自分の力になると思われるフリースクールなどを当たってみるといい(その意味でもフリースクール選びはとても大事)。長くてもほんの数年間、自分を生かすために頑張ってみればいい。それが免疫力となって後は自分の足で歩いていけるようになるはずである。だから、ノミの状態にある不登校の子どもたちに言いたい。「自分の人生を捨ててしまうな。撓められた自分に屈服するな。跳べ!跳んでみろ!自分でもう出来ないと思わされているだけなんだから。ガラスの蓋はもうない。思いっ切り跳んでみろ。そうすれば君はその地獄から脱することが出来る。全ては君が本来の自分を思い出して跳ぶかどうかにかかっている」と。

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《教育村》から避難する意味での《不登校》という現象

2013年04月14日 | 日本の教育
《教育村》から避難する意味での《不登校》という現象

▼福島の原発に批判的な人々はしばしば原発推進派の人達を一括りにして《原発村の人々》と称する。原発を推進することによって利益を得る集団に属する人達と言い換えてもいいかも知れない。そこに一定の決まり事がある訳ではないが、目には見えない、不文律があるのだと。

▼この《○○村》的思考は原発に限らない。日本の至るところにある。ごくありふれたーーそれが良いか悪いかは別にーー最も日本的な伝統的思考形態なのだ。例えば、学校内での決まり事、会社や仕事場でのルール、地域・町内会での決めごと、その土地独特の風土…等、枚挙にいとまがない。しかし、私達がそれを《○○村》と称する時、いい意味で使うことはまずない。そこにどんな批判が込められているのか?

▼日本人にとって《村》という存在との関係は複雑だ。悲喜愛憎こもごもである。現在、どの地方でも過疎化が進行して昔の面影はない。それには様々な理由が挙げられるが、その一つに--灯りにひかれた羽虫のように--若者達が都会のネオンに憧れ新しい生活を求めて《村》を捨て去った結果でもある。「なぜ若者達は《村》を嫌ったのか?」「いや、嫌ったのではなく追い出されたのだ」という人もいるだろうが、結論は同じようなものだろう。若者の居場所はそこになかったのだ。《○○村》という言い方には、そういう複雑な思いが秘められていて、単純ではない。

▼私達の関わっている不登校の問題もしかリである。それまでの学校的日常のあり方を《村》的と見るなら、不登校とはそこに居場所や自分らしい生き方を見出だせず、避難のため逃れた(はじき出された)子ども達なのである。それは単に学業が振るわなかったからというような単純な問題だけではない。しかし、原発推進派の人達から批判する人達に《原発病》という反論が返ってくることがあるように、もしかすると《○○村》の人達からは、自分達は精一杯一生懸命やっている、なぜ批判されるのかよく判らない、彼等は我が儘を言っている、くらいの認識でしか理解されないのかも知れない。

▼批判する人々には、そこでは生きていけないという思いがあるのに、《○○村》と批判される人達からは一向にその問題点が見えないということ、ここに互いに議論し理解し合うことの難しさがある。不登校に限って言えば、それを批判し合うことは実に不毛なのである。理解を得られないのに学校を批判しても消耗なのである。適正な理解を得るには《百年河清を待つ》覚悟が必要だ。だが、実際には不可能なこと。子どもは日々変化している。論争にエネルギーを費やするよりは自分に合った居場所や勉学・活動の場所を探す方がずっと得策なのだ。

▼ところが、ここにも困難がある。親御さんは不登校の我が子にどのように関わるか?親御さんが子どもの味方であるか学校的論理の代弁者であるかで、子どもの位置付けは180度変わる。親御さんが学校神話にはまっている場合には辛いプレッシャーが次々と子どもにふりかかる。結果、益々立ち直れなくなる。だから、不登校支援の場合には、まずは親御さんの理解を得て、子どものサポーターになってもらうことが何よりも大事なことになる。この要件が満たされているならば、最終的にはその子は必ず救われると断言してもいい。

▼だから、私達はフリースクールの場において日々不登校の子ども達と接するのは勿論、親御さんとの会合(教育広場&親の会)も毎月開いている。この両輪がうまく噛み合った時、たとえその子が今どういう状況にあろうとも、家庭内で親子の良好な状態が保たれ、その後の子どもの心身状態に不安を持つことはなくなる。そういう家庭の状態がバックにあるならば、フリースクールでの日々の活動は、同質性を前提とする学校では中々認められない様々な個性のある仲間と触れ合え、各々が個として認められる体験を持つことは、その後の子どもの感性に実り豊かな心を醸成することになるだろう。

▼ことさらに不登校を誇示する必要はないし、また自己卑下することも無用のことである。それこそが自分らしい生き方であると理解し、それができる今の幸せな状態を噛み締め、それを応援してくれた親御さん等に対しても感謝の気持ちを持てるようになるといい。そういう思いが確かになるならば、安定した気持ちで自分の未来へ挑戦する気持ちも湧いてくるはずである。《情けは人のためならず》である。その時、「不登校も過ぎてみれば貴重な体験だった」と思うはずである。

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