「メリークリスマス!」
「メリークリスマス!」
「サトシッ タノシンデル~」
「勿論、メリークリスマス!」
海外赴任に不安はなかった。日本を離れて環境を変えることはいい方向に僕を導いてくれてる気がした。仕事は順調で、仕事もプライベートも楽しんだ。自分を知る人がいないせいか、解放感があって自分を出せたことで仕事は順調で、仕事仲間ともうまくやれた。それと人生初のモテ気がきたようにモテた。最初は由美以外の女を抱くことに抵抗があったけれど、所詮俺も男なんだなと自覚した。異国の地での一人寝はときには淋しくて、女の身体はそんな自分を温めてくれた。
そして数年が経ち日本に帰ることになった。
「サトシ、気をつけて帰ってね」
「うん、ありがとう」
「それだけ?」
「えっ?」
「一緒に日本に来て欲しいっては言ってくれないのね」
「だって君は仕事があるだろ?だからまさか君がそう言うとは思いもしなかった」
「そうね、でもプロポーズされたらちょっとは考えたわよ(笑)、だけど仕事じゃなくて、なによりもサトシの中にいる誰かを消すことが出来ない私じゃ駄目なんだと思ったの」
「そんなこと・・・僕は君のことを」
「愛してくれたよね、私幸せだった。だからさよならじゃなくて有難うって言うね」
そんなふうに3年付き合った恋人と別れた。忘れたつもりだった・・・いや、それは嘘だ。他の女を愛しながらも由美を忘れることは出来なかった。
そして忘れられない人の棲む日本に降り立った。
海外で結果を出した俺は同期で一番の出世頭になった。その肩書きに恥じないように頑張った。同僚からも上司からも一目置かれるようになり、忙しいながらも充実した毎日が続いた。
「お兄ちゃん、なんか変わったね」
「そう?」
「お義兄さんは仕事が順調なんでしょうね。商社でバリバリ働くお義兄さんは僕の憧れです」
「なんか自信満々でさ、私は昔のお兄ちゃんの方が好きだな」
「頑張って仕事しててこの言われようだよ、亜子は相変わらず口が悪いな」
「すみません」
「なんであなたが謝るのよ」
「気の強い妹でこっちがすみませんだよ(笑)」
「もう~」
「ところで話って」
「哲夫さんが急にNY支社に転勤になっちゃって。それでこのマンション買ったばかりで手放したくないし、それでお兄ちゃんに私たちが帰ってくるまで住んでもらえないかなって思って。窓開けたり掃除してもらえれば安く貸すよ」
「こらっまたそんな言い方して、人が住んでいたほうが痛まないと思いますし、迷惑でなかったら考えてもらえないでしょうか」
「いいよ、ここ会社から近くで便利だし」
「ありがとう~お兄ちゃん、あっ氷なくなったから取ってくるね」
「ありがとうございます」
「いえ」
「亜子はお義兄さんが帰ってくるの楽しみにしてたんですよ。それなのに今度は僕たちがNYに行くことになって」
「またこんな風に飲みたかったですが仕方ないですね、亜子のことよろしくお願いします」
「はい!」
漫画家にはなれなかったけどいい人と結婚できてよかったな(微笑)
*
「藤井、週末のゴルフ、専務も一緒だから」
「あっ はい」
社長に最も近いと言われる大滝専務、俺なんかでは面識はなく緊張した。
「藤井と言います、よろしくお願いします」
「やあ君が藤井くんか、ふむふむなるほどね」
なるほどってなんだ?
「今日は娘を連れてきた。まだ初心者なんで教えてやってくれないか」
「美鈴と言います。よろしくお願いします」
周りの空気が華やいだ。
「これは聞きしに勝る美人ですな」
「妻に似たんでね、私に似なくてよかったよ(笑)」
専務のお嬢さんと何を話せばいいのかと思ったが、意外に気さくで話易く気がつくと一緒にゴルフを楽しんだ。それから何度か専務のゴルフに同行した。
専務の計らいで二人だけで何度か食事をした。
「藤井君どう思う?美鈴のこと」
「とてもいいお嬢さんで、素晴らしい女性だと思います」
「うむ、美鈴も君のことが気にいったみたいだ。美鈴との結婚を考えて欲しい」
「そんな、私なんかが美鈴さんと結婚とは分不相応な話です」
「美鈴に不満があるのか?」
「いいえ」」
「好きな女がいるのか」
「いません」
「ならいいじゃないか」
「あの・・・専務の家と私の家ではあまりにも」
「家柄が違うとかそんな古臭いこと言うんじゃないよ。私は美鈴が幸せならそれでいい。美鈴が結婚したいというなら祝福するよ。君は我が社の優秀な社員だ。それだけで十分だ」
結婚と言われてもピンとこなかった。30半ばなんだから結婚しても可笑しくはない話だが。
「いい話じゃないか、君は専務という強力な後ろ盾を得ることになる、やりたいことが出来るんだよ。羨ましいよ」
「はぁ」
「君を推薦したのは私だけどね(笑)」
「えっ?」
断る理由が見つからないうちにドンドンと外堀が埋められるように結婚話がまとまっていった。
指輪買わないとな、彼女ダイヤの指輪なんてはいて捨てるほど持ってそうだけど(苦笑) だけど美鈴さんは思いの外喜んでくれた。
「聡さん、幸せにしてくださいね」
はにかみながらそういう彼女はとても愛らしかった。まだお互いに知らない部分が沢山あると思う。だけどそれは徐々に埋められていくんだと思う。
「うん、一緒に幸せになろうな」
「はい!」
よっ玉の輿!と冷やかされたり、嫉妬や羨望の眼差しを感じることも少なくはなかった。俺は今まで以上に仕事に取り組んだ。家は郊外にあった為に仕事で遅くなる日は亜子のマンションで寝泊まりした。専務の用意してくれた家よりここの方がゆっくり出来ると言ったら美鈴に怒られるだろうが。週末には二人で出かけたり一緒に料理を作ったりもした。
「私たちって夫婦というより恋人同士みたいね」
「付き合った期間が短かったからね」
「新鮮で楽しいわ(笑)
美鈴は家庭的でいつも綺麗でよく出来た妻だと思う。家に帰らない日も多いが、そのことで何かを言われたことはない。母親と凄く仲がよく、しょっちゅう母親と旅行や買い物や食事に出かけていたから、私のことは気にしないでお仕事頑張ってねと言っていた。
「まだ子供はできんのかね」
「もう~お父さんたら」
「聡君は随分仕事を頑張っているみたいだが、私としては仕事より早く孫の顔が見たいもんだね」
そう言われると返事に困った。専務の娘婿として恥ずかしくないように仕事で結果を残さなければと頑張っているのに複雑だった。
*
「美鈴ちゃんは面食いだったんだね(笑)私の息子ではうんと言わないはずだ」
「やだわ、おじさまったら、正志さんはお兄さんみたいで結婚相手とは考えられなかったんです」
「小さい頃から兄弟のように遊んでいたもんな」
美鈴はどんな子供でしたかとでも聞けば話は広がるだろうに、S銀行の頭取を前に緊張するばかりで殆ど話も出来なかった。
「お父さんもお母さんも早く孫の顔が見たいって言ってたぞ、さぞ可愛い子供が生まれるだろうね」
「子供は授かりものですから(微笑)」
「ここ美味しいでしょう~」
「ああ、うん(緊張していたから味はよくわかんなかった」
「あらっショール忘れたのかしら?」
「取ってくるからこのまま車の中で待ってて」
「向こうのテーブルの椅子にショールが」
「これっエルメスのショールよ」
「S銀行の頭取と一緒にいたお嬢さんが忘れていったんじゃないかな」
「あ~高そうな服着てたよね」
「連れの男性がまたカッコよくて」
「カッコいいんだけど慣れてない感じで」
「よく見てるわね~(笑)」
「すみません、ショールの忘れ物なかったですか?」
「ありますよ、勝倉さん、ショールを」
「はい、こちらでよろしいでしょうか・・・・・」
由美・・・
「ホントいい男だわ~」
「でしょう~。勝倉さん、顔色悪いけど大丈夫?」
「はい、なんでもないです」
まさか・・・こんな所で会うなんて。少し痩せた? 元気そうでよかった。
もう10年が経つがそんなに変わってなかった。 心がざわついた・・・・・酷くざわついた。
*
「母と買い物に行ってもいい?」
「ああ」
「ヨーロッパで秋物見るの、知人の家とか、他にいろいろ行きたいところがあって1ヶ月くらい行ってもいいかな」
「うん」
専務というより美鈴の母親が相当な資産家だった。
昨日から喉が渇いて水ばかり飲んでいた。そして妻が出かけることに少しホッとした。何故ほっとするんだと思ったが、どうしようもなく心の中は由美でいっぱいだった。
気がつくと昨日のレストランの入っているホテルに向かっていた。もし偶然会えたなら・・・。いやそんな偶然なんてない方がいいんだ。帰ろう、帰らなきゃ。
「由美・・・・・」
「聡・・・」
「ビックリだね、10年会えなくて昨日と今日2度も会うなんて、少し飲まない?」
そう言って向かった場所は亜子のマンションの近くの大通りを外れた所にあるバーだった。物静かなマスター、センスのいい音楽、落ち着いた雰囲気のお気に入りの店で、誰かと飲んだことはなくいつも一人で飲む店だった。
気になることは沢山あったけれどどう切り出していいのかわからないでいると由美は静かに話し始めた。
「いろんなものを手放したから思ったほどの借金は残らなかったんだけど、それでもやっぱり自己破産したほうが楽だったと思う。でも一代で築いた会社だから諦められなくて会社を再建する為に頑張っていたんだけど無理がたたって父は5年前に亡くなった」
「何も知らなくて・・・」
「それからしばらくして私はある御曹司に見初められたの。何よりも母が喜んでくれた。私は結婚してしばらくすると妊娠した。だけど流産しちゃって、100%ではないけど子供を望むのはもう難しいと言われた。彼の家は名家でどうしても跡継ぎが欲しいと義母に泣かれて離婚したの。彼の家が借金を肩代わりしてくれて楽になったけれど精神的に応えたのは私より母の方で、前からよくはなかった心臓が心労から悪くなってしまって今入院してるの」
どう言えばいいのか話す言葉が見つからなかった。
「聡は結婚したの?」
「ああ」
「相手はあの頭取と仲良しのお嬢さん?」
「逆玉に乗っちゃった」
「意外だね」
「そう?」
「私も人のこと言えないけどね、ねえ私のこと時々は思い出したりしてた?」
「えっ?」
「冗談だよ~(笑)ちょっと飲み過ぎたかな」
「送るよ」
「いいよ」
足元がふらついてバランスを崩した由美を抱きとめた。
「君を思い出さない日なんてなかった」
「ずるいよ、そんなこと言うなんて・・・」
もしもその手に触れてしまったら
もしも唇重ねてしまったら
きっと二度と 戻れはしないなんて わかってた。
「ごめん」
「謝るくらいならこんなことしないで。違うか、こういうのって同罪だよね(苦笑)」
「相変わらず優等生なこと言うんだな、同罪じゃない。僕の方がずっと悪い」
「そっか、じゃあ私帰るね」
精一杯明るく振る舞った。昔から私は嫌になるくらい優等生だ。妊娠したときやっと聡のこと忘れられると思った。だけど駄目だった。
会いたくて、会いたくて、やっと会えた。もういい、これで十分よ。
会いたくて会いたくてもう一度だけ会いたくて・・・毎晩あの店に行った。天地がひっくり返っても君が来ることはないのに(苦笑)
カチャ・・・
「どうして・・・」
それから僕たちは何度も会った。昔の君は少し恥ずかしそうに照れながら僕に抱かれた。僕もそんな君を優しく優しく愛した。
だけど今はあの時と違う、この愛が永遠に続かないならばせめて今だけはと時間を惜しむように互いをむさぼるように愛し合った。
愛してる 愛してる 愛してる だけど君を幸せに出来ない僕は愛してるなんて言っちゃいけないんだと。
だけどせめてこの思いは届いて!
愛してる 愛してる 愛してる 僕の思いを受け止めて君は僕の腕の中で果てていく。
自分で自分がよくわからなかった。気がついたらあの店に行っていた。昔なにかの映画で「考えるより感じろ」と言っていた。今ならその意味がわかる気がする。だけどいつかきっと罰があたるね。それなのに・・・私は自分で思うよりもずっと女だった。
出会いが遅すぎたなんて 安っぽいことは言えないけれど
それ以上どんな言葉なら 答えにたどり着けるのだろうか
君を諦めてしまったのは僕なのに 諦められなくて どうすればいい? どうすれば・・・
人の物を取っちゃ駄目だよ、そんな当たり前のことを教えられたのはずっとずっと昔の幼い頃・・・
取らないから、これが最後だから これが最後だからと またひとつ夜を重ねていくごとに 罪は深く 愛はもっと深く 私はあなたの腕の中で溺れる
もう何処へも行かないでと僕は君の腕を掴む 君を強く抱きしめ 深く口づける
こんな不毛の愛はいつか終わるのだとしても 強く惹かれ彷徨うこの思いは 消せない
だけどある日を境に君は姿を消した。どうして君はいつも突然いなくなるんだ そしてどうしていつも僕はこうなんだ。 後悔と自責の念で押しつぶされそうだった。 あの時と同じように・・・ ただあの時と違うのは僕には妻がいたことだった。
*
「ただいま~」
「お帰り」
「いい結婚式だったわ。初恋同士なんですって、上手くいかないから初恋なんだと思ってた。余程太い赤い糸が繋がってたのかしら。ねえ、聡の初恋は?」
「高校のときだよ」
「私は近所の幼馴染が初恋だったの、友達が言うにはあの子のどこがいいのって言われたけどね。優しくて笑うと聡に似てた」
「えっ?」
「聡みたいな二枚目じゃないけど、笑うとくしゃってなって、目尻に皺が出来て少年みたいに笑うの。こんなふうに笑う人に悪い人はいないって思って、お父様にこの人がいいってお願いしたの」
悪い人はいないという言葉に胸がチクチクした。
「初めて聞いたよ、そんな話」
「そりゃあ初めて話したもの。ねえ、私子供が欲しい」
「うん」
そうだ、子供がいれば僕たちはもっと夫婦になれる。家族になれる。だが2年が過ぎても美鈴は妊娠しなかった。
「お母さん、退院してから体調があまりよくなくて軽井沢の別荘で療養することになったの、しばらくお母さんに付き添いたいんだけど行ってもいいかしら」
「うん、お義母さん、早く元気になるといいね」
前から温めていたプロジェクトを実現させる為にももう少し仕事に時間を割きたいと思っていたところだったので丁度よかった。専務に子供のことばかり聞かれるのは気が重いが仕方ない(苦笑)
そして瞬く間に三ヵ月が経った。
「専務、お話というのは?」
「聡くん、すまない」
「えっ何がですか? とにかく頭を上げてください」
「美鈴と別れて欲しい」
「えっ?」
「実は美鈴が妊娠した。父親が君でないのはわかるね」
この3ヶ月、美鈴は軽井沢から帰ってこなかった。
「なんでも幼馴染の初恋の彼と再会したらしい、君にとっては寝耳に水な話だろうが、私は美鈴が可愛い、産まれてくる孫の顔も見たい。悪いようにはしないからなにも言わずに美鈴と別れて欲しい」
なにも言える訳がなかった。先に妻を裏切ったのは僕なのだから。
「会社は病気療養の為に休職ということにした。君の私物は後日送るから会社には顔を出さないで欲しい」
「ちょっと待ってください、私が立ちあげたプロジェクトはどうなるんですか!? 1週間後には第1回の会議が開かれる段取りになっているんです」
「ああ、あれね」
ああ、あれって・・・
「悪くはないけどね、うん、私がOKを出したんだからまずまずの企画だと思うよ。確かに君は優秀だが、君の他にも我が社には沢山の優秀な社員がいて毎日沢山の企画が上がってくる。その中で私がOKを出したのは君が美鈴の婿だからだ」
「・・・」
「しかしなんだな、美鈴の妊娠の話より、仕事の話の方が取り乱すんだな。なにかやましいことでもあるのかな? まあ私のような男でも一つや二つ妻に話せないことはあるからね、君のような色男ならあっても不思議じゃない。そのことについてとやかく言うつもりはない、後で弁護士をよこすから細かい話は弁護士としたまえ。慰謝料もきっちり払わせてもらう。ただもう二度と私と美鈴の前に顔を見せないで欲しい。大事な身体だからいい精神状態で子供を産んで欲しいからね」
口座には多額の金額が振り込まれていた。口止め料か・・・
会社での俺の扱いは一体どうなっているのか、「病気早く治せよ」というメールが3通きただけでそれっきりだった。なにもかも失くした。あるのは金だけだ。
会社も仕事も好きだった。懸命にやってきた15年が泡のように消えた気がした。
美鈴、僕たちはお互いに忘れられない人がいたんだね。でも僕たちは結構いい夫婦だったよね、楽しかったよ、君との結婚生活は。良かったな、思いが成就して子供まで授かって、幸せになれよ。心からそう思っている。だがどうしようもない喪失感が襲った。
ある日久しぶりに携帯が鳴った。
「わかったよ、明日行くから」
両親は前から退職したら田舎に帰ると言っていた。故郷で余生を過ごしたいらしい。その思いがあったから家はずっと借家だった。家を明け渡すから大事なものが部屋にないか一度見て欲しいと言われていた。勝手に処分すればいいんだが離婚のことを話さなきゃいけない。
「どうして!?」
「性格の不一致ってやつかな、やっぱり美鈴とはいろいろ違い過ぎて段々上手くいかなくなったんだ」
つとめて明るく話した。
「仕事はどうするんだ、居づらいんじゃないのか?」
「うん、仕事は止めた」
「あんなに一生懸命やっていたのに」
「誘ってくれる会社もあるし、一緒に起業しないかっていう友達もいるし、まあ少し休んでゆっくり考えるよ。結構貯金もあるしね」
事実なのは貯金があるということだけだ。
「そう・・・」
「だから俺のことは心配しないで、落ち着いたらそっち(田舎)にも行くから」
「今日、ご飯食べてくでしょ」
「今日飲みにいく約束があるから」
そんな友人などいない。ただ親の前でこれ以上笑顔を見せるのはきつかった。俺ってホント友達いないよな(苦笑)唯一の親友の寺井は海外だし、亜子はアメリカだし、まあ妹に泣き言は言えないけどな。亜子だったら「お兄ちゃん、なんか隠してるでしょっ」て見破られそうだが。話す相手がいないってしんどい。
俺の部屋に大切なものなんてあっただろうか?ふと机の引き出しを開けて驚いた。あのとき渡せなかった指輪が箱に入ったままそこにあった。小さな箱には色褪せたリボン。閉じ込めていた思いが溢れ出た。
駅に向かって歩いていると雨が酷く降ってきた。あの頃なら濡れながら走って帰っただろうが今はもうそんな若さはなくタクシーを呼びとめた。窓の外を流れるのは懐かしい風景、キラキラと輝いていた記憶。
由美? タクシーの右に来た青い車に乗っていたのは由美!?
「すみません、右折してください」
「お客さん、今からじゃ無理ですよ」
「そうですね、すみません」
人違いかも知れない、だけど俺には由美にしか見えなかった。
「着きましたよ」
もうこの街に帰ってくることはないだろう。
この街を離れてからもう10年になるだろうか? 多分僕を知っている人はいない。この街に限らず僕を知る人は殆どいない。
誰に忘れられてもかまわない。だけど君だけは 君の心の片隅にほんの少しでいいから僕がいて欲しい。
それは僕の我儘だろうか。 それを望んだらまた僕は罰が当たりますか。。。
3章に続く
川村結花作詞 「愛してる」の歌詞を一部引用させて頂きました。
「メリークリスマス!」
「サトシッ タノシンデル~」
「勿論、メリークリスマス!」
海外赴任に不安はなかった。日本を離れて環境を変えることはいい方向に僕を導いてくれてる気がした。仕事は順調で、仕事もプライベートも楽しんだ。自分を知る人がいないせいか、解放感があって自分を出せたことで仕事は順調で、仕事仲間ともうまくやれた。それと人生初のモテ気がきたようにモテた。最初は由美以外の女を抱くことに抵抗があったけれど、所詮俺も男なんだなと自覚した。異国の地での一人寝はときには淋しくて、女の身体はそんな自分を温めてくれた。
そして数年が経ち日本に帰ることになった。
「サトシ、気をつけて帰ってね」
「うん、ありがとう」
「それだけ?」
「えっ?」
「一緒に日本に来て欲しいっては言ってくれないのね」
「だって君は仕事があるだろ?だからまさか君がそう言うとは思いもしなかった」
「そうね、でもプロポーズされたらちょっとは考えたわよ(笑)、だけど仕事じゃなくて、なによりもサトシの中にいる誰かを消すことが出来ない私じゃ駄目なんだと思ったの」
「そんなこと・・・僕は君のことを」
「愛してくれたよね、私幸せだった。だからさよならじゃなくて有難うって言うね」
そんなふうに3年付き合った恋人と別れた。忘れたつもりだった・・・いや、それは嘘だ。他の女を愛しながらも由美を忘れることは出来なかった。
そして忘れられない人の棲む日本に降り立った。
海外で結果を出した俺は同期で一番の出世頭になった。その肩書きに恥じないように頑張った。同僚からも上司からも一目置かれるようになり、忙しいながらも充実した毎日が続いた。
「お兄ちゃん、なんか変わったね」
「そう?」
「お義兄さんは仕事が順調なんでしょうね。商社でバリバリ働くお義兄さんは僕の憧れです」
「なんか自信満々でさ、私は昔のお兄ちゃんの方が好きだな」
「頑張って仕事しててこの言われようだよ、亜子は相変わらず口が悪いな」
「すみません」
「なんであなたが謝るのよ」
「気の強い妹でこっちがすみませんだよ(笑)」
「もう~」
「ところで話って」
「哲夫さんが急にNY支社に転勤になっちゃって。それでこのマンション買ったばかりで手放したくないし、それでお兄ちゃんに私たちが帰ってくるまで住んでもらえないかなって思って。窓開けたり掃除してもらえれば安く貸すよ」
「こらっまたそんな言い方して、人が住んでいたほうが痛まないと思いますし、迷惑でなかったら考えてもらえないでしょうか」
「いいよ、ここ会社から近くで便利だし」
「ありがとう~お兄ちゃん、あっ氷なくなったから取ってくるね」
「ありがとうございます」
「いえ」
「亜子はお義兄さんが帰ってくるの楽しみにしてたんですよ。それなのに今度は僕たちがNYに行くことになって」
「またこんな風に飲みたかったですが仕方ないですね、亜子のことよろしくお願いします」
「はい!」
漫画家にはなれなかったけどいい人と結婚できてよかったな(微笑)
*
「藤井、週末のゴルフ、専務も一緒だから」
「あっ はい」
社長に最も近いと言われる大滝専務、俺なんかでは面識はなく緊張した。
「藤井と言います、よろしくお願いします」
「やあ君が藤井くんか、ふむふむなるほどね」
なるほどってなんだ?
「今日は娘を連れてきた。まだ初心者なんで教えてやってくれないか」
「美鈴と言います。よろしくお願いします」
周りの空気が華やいだ。
「これは聞きしに勝る美人ですな」
「妻に似たんでね、私に似なくてよかったよ(笑)」
専務のお嬢さんと何を話せばいいのかと思ったが、意外に気さくで話易く気がつくと一緒にゴルフを楽しんだ。それから何度か専務のゴルフに同行した。
専務の計らいで二人だけで何度か食事をした。
「藤井君どう思う?美鈴のこと」
「とてもいいお嬢さんで、素晴らしい女性だと思います」
「うむ、美鈴も君のことが気にいったみたいだ。美鈴との結婚を考えて欲しい」
「そんな、私なんかが美鈴さんと結婚とは分不相応な話です」
「美鈴に不満があるのか?」
「いいえ」」
「好きな女がいるのか」
「いません」
「ならいいじゃないか」
「あの・・・専務の家と私の家ではあまりにも」
「家柄が違うとかそんな古臭いこと言うんじゃないよ。私は美鈴が幸せならそれでいい。美鈴が結婚したいというなら祝福するよ。君は我が社の優秀な社員だ。それだけで十分だ」
結婚と言われてもピンとこなかった。30半ばなんだから結婚しても可笑しくはない話だが。
「いい話じゃないか、君は専務という強力な後ろ盾を得ることになる、やりたいことが出来るんだよ。羨ましいよ」
「はぁ」
「君を推薦したのは私だけどね(笑)」
「えっ?」
断る理由が見つからないうちにドンドンと外堀が埋められるように結婚話がまとまっていった。
指輪買わないとな、彼女ダイヤの指輪なんてはいて捨てるほど持ってそうだけど(苦笑) だけど美鈴さんは思いの外喜んでくれた。
「聡さん、幸せにしてくださいね」
はにかみながらそういう彼女はとても愛らしかった。まだお互いに知らない部分が沢山あると思う。だけどそれは徐々に埋められていくんだと思う。
「うん、一緒に幸せになろうな」
「はい!」
よっ玉の輿!と冷やかされたり、嫉妬や羨望の眼差しを感じることも少なくはなかった。俺は今まで以上に仕事に取り組んだ。家は郊外にあった為に仕事で遅くなる日は亜子のマンションで寝泊まりした。専務の用意してくれた家よりここの方がゆっくり出来ると言ったら美鈴に怒られるだろうが。週末には二人で出かけたり一緒に料理を作ったりもした。
「私たちって夫婦というより恋人同士みたいね」
「付き合った期間が短かったからね」
「新鮮で楽しいわ(笑)
美鈴は家庭的でいつも綺麗でよく出来た妻だと思う。家に帰らない日も多いが、そのことで何かを言われたことはない。母親と凄く仲がよく、しょっちゅう母親と旅行や買い物や食事に出かけていたから、私のことは気にしないでお仕事頑張ってねと言っていた。
「まだ子供はできんのかね」
「もう~お父さんたら」
「聡君は随分仕事を頑張っているみたいだが、私としては仕事より早く孫の顔が見たいもんだね」
そう言われると返事に困った。専務の娘婿として恥ずかしくないように仕事で結果を残さなければと頑張っているのに複雑だった。
*
「美鈴ちゃんは面食いだったんだね(笑)私の息子ではうんと言わないはずだ」
「やだわ、おじさまったら、正志さんはお兄さんみたいで結婚相手とは考えられなかったんです」
「小さい頃から兄弟のように遊んでいたもんな」
美鈴はどんな子供でしたかとでも聞けば話は広がるだろうに、S銀行の頭取を前に緊張するばかりで殆ど話も出来なかった。
「お父さんもお母さんも早く孫の顔が見たいって言ってたぞ、さぞ可愛い子供が生まれるだろうね」
「子供は授かりものですから(微笑)」
「ここ美味しいでしょう~」
「ああ、うん(緊張していたから味はよくわかんなかった」
「あらっショール忘れたのかしら?」
「取ってくるからこのまま車の中で待ってて」
「向こうのテーブルの椅子にショールが」
「これっエルメスのショールよ」
「S銀行の頭取と一緒にいたお嬢さんが忘れていったんじゃないかな」
「あ~高そうな服着てたよね」
「連れの男性がまたカッコよくて」
「カッコいいんだけど慣れてない感じで」
「よく見てるわね~(笑)」
「すみません、ショールの忘れ物なかったですか?」
「ありますよ、勝倉さん、ショールを」
「はい、こちらでよろしいでしょうか・・・・・」
由美・・・
「ホントいい男だわ~」
「でしょう~。勝倉さん、顔色悪いけど大丈夫?」
「はい、なんでもないです」
まさか・・・こんな所で会うなんて。少し痩せた? 元気そうでよかった。
もう10年が経つがそんなに変わってなかった。 心がざわついた・・・・・酷くざわついた。
*
「母と買い物に行ってもいい?」
「ああ」
「ヨーロッパで秋物見るの、知人の家とか、他にいろいろ行きたいところがあって1ヶ月くらい行ってもいいかな」
「うん」
専務というより美鈴の母親が相当な資産家だった。
昨日から喉が渇いて水ばかり飲んでいた。そして妻が出かけることに少しホッとした。何故ほっとするんだと思ったが、どうしようもなく心の中は由美でいっぱいだった。
気がつくと昨日のレストランの入っているホテルに向かっていた。もし偶然会えたなら・・・。いやそんな偶然なんてない方がいいんだ。帰ろう、帰らなきゃ。
「由美・・・・・」
「聡・・・」
「ビックリだね、10年会えなくて昨日と今日2度も会うなんて、少し飲まない?」
そう言って向かった場所は亜子のマンションの近くの大通りを外れた所にあるバーだった。物静かなマスター、センスのいい音楽、落ち着いた雰囲気のお気に入りの店で、誰かと飲んだことはなくいつも一人で飲む店だった。
気になることは沢山あったけれどどう切り出していいのかわからないでいると由美は静かに話し始めた。
「いろんなものを手放したから思ったほどの借金は残らなかったんだけど、それでもやっぱり自己破産したほうが楽だったと思う。でも一代で築いた会社だから諦められなくて会社を再建する為に頑張っていたんだけど無理がたたって父は5年前に亡くなった」
「何も知らなくて・・・」
「それからしばらくして私はある御曹司に見初められたの。何よりも母が喜んでくれた。私は結婚してしばらくすると妊娠した。だけど流産しちゃって、100%ではないけど子供を望むのはもう難しいと言われた。彼の家は名家でどうしても跡継ぎが欲しいと義母に泣かれて離婚したの。彼の家が借金を肩代わりしてくれて楽になったけれど精神的に応えたのは私より母の方で、前からよくはなかった心臓が心労から悪くなってしまって今入院してるの」
どう言えばいいのか話す言葉が見つからなかった。
「聡は結婚したの?」
「ああ」
「相手はあの頭取と仲良しのお嬢さん?」
「逆玉に乗っちゃった」
「意外だね」
「そう?」
「私も人のこと言えないけどね、ねえ私のこと時々は思い出したりしてた?」
「えっ?」
「冗談だよ~(笑)ちょっと飲み過ぎたかな」
「送るよ」
「いいよ」
足元がふらついてバランスを崩した由美を抱きとめた。
「君を思い出さない日なんてなかった」
「ずるいよ、そんなこと言うなんて・・・」
もしもその手に触れてしまったら
もしも唇重ねてしまったら
きっと二度と 戻れはしないなんて わかってた。
「ごめん」
「謝るくらいならこんなことしないで。違うか、こういうのって同罪だよね(苦笑)」
「相変わらず優等生なこと言うんだな、同罪じゃない。僕の方がずっと悪い」
「そっか、じゃあ私帰るね」
精一杯明るく振る舞った。昔から私は嫌になるくらい優等生だ。妊娠したときやっと聡のこと忘れられると思った。だけど駄目だった。
会いたくて、会いたくて、やっと会えた。もういい、これで十分よ。
会いたくて会いたくてもう一度だけ会いたくて・・・毎晩あの店に行った。天地がひっくり返っても君が来ることはないのに(苦笑)
カチャ・・・
「どうして・・・」
それから僕たちは何度も会った。昔の君は少し恥ずかしそうに照れながら僕に抱かれた。僕もそんな君を優しく優しく愛した。
だけど今はあの時と違う、この愛が永遠に続かないならばせめて今だけはと時間を惜しむように互いをむさぼるように愛し合った。
愛してる 愛してる 愛してる だけど君を幸せに出来ない僕は愛してるなんて言っちゃいけないんだと。
だけどせめてこの思いは届いて!
愛してる 愛してる 愛してる 僕の思いを受け止めて君は僕の腕の中で果てていく。
自分で自分がよくわからなかった。気がついたらあの店に行っていた。昔なにかの映画で「考えるより感じろ」と言っていた。今ならその意味がわかる気がする。だけどいつかきっと罰があたるね。それなのに・・・私は自分で思うよりもずっと女だった。
出会いが遅すぎたなんて 安っぽいことは言えないけれど
それ以上どんな言葉なら 答えにたどり着けるのだろうか
君を諦めてしまったのは僕なのに 諦められなくて どうすればいい? どうすれば・・・
人の物を取っちゃ駄目だよ、そんな当たり前のことを教えられたのはずっとずっと昔の幼い頃・・・
取らないから、これが最後だから これが最後だからと またひとつ夜を重ねていくごとに 罪は深く 愛はもっと深く 私はあなたの腕の中で溺れる
もう何処へも行かないでと僕は君の腕を掴む 君を強く抱きしめ 深く口づける
こんな不毛の愛はいつか終わるのだとしても 強く惹かれ彷徨うこの思いは 消せない
だけどある日を境に君は姿を消した。どうして君はいつも突然いなくなるんだ そしてどうしていつも僕はこうなんだ。 後悔と自責の念で押しつぶされそうだった。 あの時と同じように・・・ ただあの時と違うのは僕には妻がいたことだった。
*
「ただいま~」
「お帰り」
「いい結婚式だったわ。初恋同士なんですって、上手くいかないから初恋なんだと思ってた。余程太い赤い糸が繋がってたのかしら。ねえ、聡の初恋は?」
「高校のときだよ」
「私は近所の幼馴染が初恋だったの、友達が言うにはあの子のどこがいいのって言われたけどね。優しくて笑うと聡に似てた」
「えっ?」
「聡みたいな二枚目じゃないけど、笑うとくしゃってなって、目尻に皺が出来て少年みたいに笑うの。こんなふうに笑う人に悪い人はいないって思って、お父様にこの人がいいってお願いしたの」
悪い人はいないという言葉に胸がチクチクした。
「初めて聞いたよ、そんな話」
「そりゃあ初めて話したもの。ねえ、私子供が欲しい」
「うん」
そうだ、子供がいれば僕たちはもっと夫婦になれる。家族になれる。だが2年が過ぎても美鈴は妊娠しなかった。
「お母さん、退院してから体調があまりよくなくて軽井沢の別荘で療養することになったの、しばらくお母さんに付き添いたいんだけど行ってもいいかしら」
「うん、お義母さん、早く元気になるといいね」
前から温めていたプロジェクトを実現させる為にももう少し仕事に時間を割きたいと思っていたところだったので丁度よかった。専務に子供のことばかり聞かれるのは気が重いが仕方ない(苦笑)
そして瞬く間に三ヵ月が経った。
「専務、お話というのは?」
「聡くん、すまない」
「えっ何がですか? とにかく頭を上げてください」
「美鈴と別れて欲しい」
「えっ?」
「実は美鈴が妊娠した。父親が君でないのはわかるね」
この3ヶ月、美鈴は軽井沢から帰ってこなかった。
「なんでも幼馴染の初恋の彼と再会したらしい、君にとっては寝耳に水な話だろうが、私は美鈴が可愛い、産まれてくる孫の顔も見たい。悪いようにはしないからなにも言わずに美鈴と別れて欲しい」
なにも言える訳がなかった。先に妻を裏切ったのは僕なのだから。
「会社は病気療養の為に休職ということにした。君の私物は後日送るから会社には顔を出さないで欲しい」
「ちょっと待ってください、私が立ちあげたプロジェクトはどうなるんですか!? 1週間後には第1回の会議が開かれる段取りになっているんです」
「ああ、あれね」
ああ、あれって・・・
「悪くはないけどね、うん、私がOKを出したんだからまずまずの企画だと思うよ。確かに君は優秀だが、君の他にも我が社には沢山の優秀な社員がいて毎日沢山の企画が上がってくる。その中で私がOKを出したのは君が美鈴の婿だからだ」
「・・・」
「しかしなんだな、美鈴の妊娠の話より、仕事の話の方が取り乱すんだな。なにかやましいことでもあるのかな? まあ私のような男でも一つや二つ妻に話せないことはあるからね、君のような色男ならあっても不思議じゃない。そのことについてとやかく言うつもりはない、後で弁護士をよこすから細かい話は弁護士としたまえ。慰謝料もきっちり払わせてもらう。ただもう二度と私と美鈴の前に顔を見せないで欲しい。大事な身体だからいい精神状態で子供を産んで欲しいからね」
口座には多額の金額が振り込まれていた。口止め料か・・・
会社での俺の扱いは一体どうなっているのか、「病気早く治せよ」というメールが3通きただけでそれっきりだった。なにもかも失くした。あるのは金だけだ。
会社も仕事も好きだった。懸命にやってきた15年が泡のように消えた気がした。
美鈴、僕たちはお互いに忘れられない人がいたんだね。でも僕たちは結構いい夫婦だったよね、楽しかったよ、君との結婚生活は。良かったな、思いが成就して子供まで授かって、幸せになれよ。心からそう思っている。だがどうしようもない喪失感が襲った。
ある日久しぶりに携帯が鳴った。
「わかったよ、明日行くから」
両親は前から退職したら田舎に帰ると言っていた。故郷で余生を過ごしたいらしい。その思いがあったから家はずっと借家だった。家を明け渡すから大事なものが部屋にないか一度見て欲しいと言われていた。勝手に処分すればいいんだが離婚のことを話さなきゃいけない。
「どうして!?」
「性格の不一致ってやつかな、やっぱり美鈴とはいろいろ違い過ぎて段々上手くいかなくなったんだ」
つとめて明るく話した。
「仕事はどうするんだ、居づらいんじゃないのか?」
「うん、仕事は止めた」
「あんなに一生懸命やっていたのに」
「誘ってくれる会社もあるし、一緒に起業しないかっていう友達もいるし、まあ少し休んでゆっくり考えるよ。結構貯金もあるしね」
事実なのは貯金があるということだけだ。
「そう・・・」
「だから俺のことは心配しないで、落ち着いたらそっち(田舎)にも行くから」
「今日、ご飯食べてくでしょ」
「今日飲みにいく約束があるから」
そんな友人などいない。ただ親の前でこれ以上笑顔を見せるのはきつかった。俺ってホント友達いないよな(苦笑)唯一の親友の寺井は海外だし、亜子はアメリカだし、まあ妹に泣き言は言えないけどな。亜子だったら「お兄ちゃん、なんか隠してるでしょっ」て見破られそうだが。話す相手がいないってしんどい。
俺の部屋に大切なものなんてあっただろうか?ふと机の引き出しを開けて驚いた。あのとき渡せなかった指輪が箱に入ったままそこにあった。小さな箱には色褪せたリボン。閉じ込めていた思いが溢れ出た。
駅に向かって歩いていると雨が酷く降ってきた。あの頃なら濡れながら走って帰っただろうが今はもうそんな若さはなくタクシーを呼びとめた。窓の外を流れるのは懐かしい風景、キラキラと輝いていた記憶。
由美? タクシーの右に来た青い車に乗っていたのは由美!?
「すみません、右折してください」
「お客さん、今からじゃ無理ですよ」
「そうですね、すみません」
人違いかも知れない、だけど俺には由美にしか見えなかった。
「着きましたよ」
もうこの街に帰ってくることはないだろう。
この街を離れてからもう10年になるだろうか? 多分僕を知っている人はいない。この街に限らず僕を知る人は殆どいない。
誰に忘れられてもかまわない。だけど君だけは 君の心の片隅にほんの少しでいいから僕がいて欲しい。
それは僕の我儘だろうか。 それを望んだらまた僕は罰が当たりますか。。。
3章に続く
川村結花作詞 「愛してる」の歌詞を一部引用させて頂きました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます