「50才の誕生日おめでとう」
誕生日を祝う年でもないが人生半分の50才という年はやはり特別なものに思えた。とっておきのワインを開けて妻の心尽くしの手料理を味わう。妻の料理の腕はプロ級で、かつもうすぐ50才と思えないほど若々しく美しい。
「ケーキも焼いたんだ、どれどれ、うん上手い!薫の作るものはなんでも上手い(微笑)」
「よかった、あなたに作る最後の料理だから腕によりをかけたのよ」
「最後って?」
「あなた、私と離婚してください」
これほど想定外の出来事があるだろうか、俺は言葉を失った。
「好きな男でもいるのか?」
いきなりこんなこと言うなんて酷く動揺していた、落ち着け、落ち着くんだ。
「一緒に暮らしててそんなこともわからないの? 呆れた」
「ごめん、君はそんな女じゃないことは僕が一番よく知ってるはずなのに、ちょっとテンパってしまった」
「他に好きな人なんていません、あなたはやや面白みに欠けるだけで優しくて思いやりがあって、仕事が出来て外見も良くて、娘たちにとって最高の父親であり私にとってもいい夫でした」
「ならどうして離婚なんて」
「私も来月には50才になるの、これからは一人で自分の人生を好きなように生きたいの」
「僕が一緒じゃ駄目なのか? 家事をしたくないんならしなくていい、この家でやりたいこと、好きなことをすればいいじゃないか」
「一人がいいの!」
大学時代の俺は一人暮らしをしていた。友人に誘われて妻の通う美大の学祭に行ったのがきっかけで交際が始まった。妻は一人暮らしに憧れていたが家が厳格で実家暮らしをしていた。そんな厳格な家のお嬢さんを卒業前に妊娠させてしまった。俺は薫を愛していたしそのことにはなんの後悔もない、しかし薫の両親に認めてもらうのには骨が折れた。今でも認めてもらったとは思ってないが年子で生まれた二人の娘のことは大層可愛がってくれた。二人の娘は独立して一人は結婚して一人はアメリカで研究職に就いてる。
一昨年薫の父親が、昨年母親が相次いで亡くなった。両親の持っていた土地が土地開発によって想定外の遺産を一人娘の薫が引き継いだ。それはもちろん薫のものだし、俺がその遺産についてどうこう言うことは一切なかった。
「お金には困らないから、なにもいりません。ただ別れてくれるだけでいいの。この離婚届けに判を押してください。あなたにはなんの落ち度もないわ、ただの私のわがままです。こんな私のことをまだ思ってくださるのならどうか別れてください」
俺にはもう引き止めるすべがなかった。
「あなたと結婚して幸せでした。今までありがとう。身体には気をつけてね、飲みすぎちゃ駄目よ」
薫は爽やかに実に爽やかな笑顔でそういうと、足取り軽く家を出て行った。
厳格だった両親はもういない、俺とも別れた。一人が嬉しくて仕方ないと今にもスキップしそうなほど軽やかな足取りだった。
終わった。。。。。結婚てなんなんだろう?
妻と娘たちの為にがむしゃらに働いてきた、それで人より早く出世した。
働くことは苦ではなかった。家族の笑顔があればそれだけで幸せだった。
ねえ、僕は君と腰の曲がったおじいちゃん、おばあちゃんになっても手を繋いで歩きたかったよ。
俺は25年ローンで買った一軒家を売りに出し都内に1LDKのマンションを買った。
あれから一年、偶然見た釣りのユーチューブが面白くて自分でも釣りをするようになった。釣り仲間が出来て魚を捌くことを覚えた。
「凄い!これ全部パパが作ったの?」
1歳になる孫を連れて次女が遊びにきていた。
「もっと早く料理とかしてればよかったかな(苦笑)」
「うーん、そういうことじゃないと思う。ママ、今小学校で臨時の美術の先生やってるの
。週に一度はトール教室もやってるし凄く楽しそう、ますます若く綺麗になったわ」
。週に一度はトール教室もやってるし凄く楽しそう、ますます若く綺麗になったわ」
「へー」
美大からの就職は難しくなかなか内定をもらえなくて焦っていた。そのうちに妊娠がわかって大学卒業と同時に結婚したから、いろんなものを諦めてしまったのかも知れない。でもそれって一緒にいても出来そうなことだけどな。
「パパが悪いんじゃないよ、ただママは一人になりたかっただけだから」
俺の気持ちを見透かしたように娘が言った。
もともと仕事人間だし、成果が出るとやり甲斐を感じた。釣りのおかげでプライベートもそこそこ充実してる。料理の腕も上がったもんだ、ただふと寂しくなるときがある。猫でも飼うか、昔から猫が飼いたかったんだよな、でも生き物飼うには責任があるし。
ある日近くにあるショッピングモールに買い物に行きふとペットショップを覗いた。
可愛いな、でもこういうところでペットを飼うのはなんか抵抗があるんだよな。
「部長?」
「川島さん、それってトイレ用の砂?」
「はい、猫飼ってるんです。月の綺麗な夜に運命的な出会いをした野良猫のノラちゃんです」
「へー、僕もそういう運命的な出会いがしたいな」
「ペットを飼いたいとか?」
「そうなんだけど、こういうペットショップで飼うのはなんか抵抗があって」
「ですよね。。。痛っ」
「どうしたの?」
「ちょっとお腹が痛くなって、でも大丈夫です、大したことないから」
「ならいいけど」
「部長!わたし月曜日のプレゼン頑張りますから」
「うん、でも川島さんなら大丈夫だから、あまり気負いすぎないで」
「はい」
コンビニで切らしていたビールを買ってマンションに近づくと川島郁子がうずくまっていた。
「川島さん!病院に行った方がいい」
「大丈夫です。もうすぐ家だから」
「砂が重そうだから持つよ、貸しなさい」
「すみません」
「本当に大丈夫? 具合悪かったら病院に行くんだよ、身体が一番大事なんだから」
「はい、そうします」
驚いた、川島郁子と同じマンションに住んでいたとは、しかも同じ階だった。不思議と今まで顔合わすことはなかったな、そういえば川島郁子は既婚だったはず。旦那さんは出張か何かで不在だったのかな。
川島郁子は明るく快活で仕事が出来て社内での評価も高かった。凄い美人というわけではないけど親しみのある美人で、愛嬌があるっていうのかな。男性社員の間でも人気があって結婚したときには肩を落とした男性社員が何人もいた。
こういう風に女性社員のことをあれこれ言うのはセクハラ発言になるのかな、気をつけよう。セクハラ、パワハラ、コロナ禍、いやいや大変な世の中になったもんだ。とはいえまだまだリタイヤする訳にはいかないから俺も頑張らないとな。
月曜日。。。。。
「部長! 川島さんがお腹を押さえて倒れました!」
「救急車」
「ダメです! もうすぐクライアントが来るのに何事かと思われます」
「産業医を呼んできて、うちには優秀な産業医がいるから、とりあえず産業医に診てもらおう」
「具合はどうだ?」
「点滴してかなり楽になりました。お薬ももらいました。ストレス性胃炎ですって」
「無理したんじゃないのか?」
「仕事だけが原因じゃありませんから」
とはいえ仕事も原因の一部であることは確かだ、上司として責任を感じた。
「プレゼンはどうなりました?」
「松宮さんが君の代わりに‥‥」
「彼女、さぞ完璧に務めたんでしょうね。洗面所でうずくまってるの見られたから、こんなこともあるかとしっかり準備してきたんでしょうね」
「でもこのプロジェクトの発案は川島さんだから、それは揺らぎのない事実だから」
「だとしてもこの先話を進めて行くのは松宮さん、クライアントと話すのも松宮さんです。自己管理を怠った私の負けなんです」
「しかし君は」
「君の実力は高く評価している、必ずまたチャンスはあるからって言ってくれるんでしょうか‥‥‥部長」
「そうだよ」
「ありがとうございます、また頑張ります。でも少し疲れたんでしばらく休みますね」
昔と変わったのは女子社員の意識の高さだ、寿退職なんて死語になりつつある。結婚しても子供を産んでも仕事を続ける社員が殆どだ。松宮さんにご苦労様と言ったときのあの顔、してやったりって顔してたもんな、女性は強くなったもんだ。
それから1週間川島郁子は有給をとって会社を休んだ。どうしてるだろうか、買い物に出たついでにふらふらとついドアの前まで来てしまった。いかんいかん、何やってるんだか。
ん?なにやらかすかにガリガリという音がした。ふとドアノブに手を掛けると鍵がかかってなかった。
「川島さん!」
「えっ部長? どうしてここに」
「なんかガリガリという音がして、そしたら鍵がかかってなくて」
「ああ、昨日飲み過ぎてコンビニに冷たい物でも買いに行こうと思って、足がもつれた後の記憶がないです」
「大丈夫なのか? 頭は打ってないのか、そもそも胃炎なのに飲んじゃダメだろ」
「にゃー」
「ノラ〜ノラが知らせてくれたのね、あっドアに爪研ぎの跡がついてる、よしよしいい子だね」
「じゃあ、僕はこれで、忘れずに鍵はかけるように」
「ちょっと帰らないでくださいよ、そもそもなんでうちにきたんですか?」
川島郁子はニヤリと笑った。
「君のことが気になってついドアの前まできてしまいました。セクハラ上司と訴えるなら訴えてもかまわないから」
「素直でよろしい、こんなのセクハラじゃないですよ、思いやりのあるいい上司です。ささっお茶でも飲んでいってください、私のいれるとコーヒーは美味しいんですよ」
「そんなことはできない」
「なら総務部に申告しますよ、家の前まで押しかけてきたって」
「‥‥‥‥‥」
「美味しい?」
「ああ、ところでご主人は?」
「転勤でイギリスにいます」
「一緒に行かなかったの?」
「仕事辞めるの勿体無いからって、結婚して3年、真剣に妊活のこと考えようかなって思ってました。まあそれは別にいいんですけど。離れていても心は通じてるって思ってましたから、ところがですよ部長聞いてください!」
「ああ(タジタジ)」
「あいつったら浮気してたんです。サプライズでイギリス行ったら部屋から女と出てきたんですよ、それが金髪のグラマラスなスレンダー美人なら100歩譲ってまだわかるけど、ちょっと開放感があって金髪美人に目がいったとか。でも日本人なんですよ、普通の10人並の髪の黒い純日本人の体系の若いのだけが取り柄みたいな女の子なんですよ、酷いと思いません?」
それはけしからん、金髪美人でも駄目だと思うが。
「だから私がストレス性胃炎になったのは仕事が原因じゃなくて、旦那の浮気が原因なんです。部長は上司として責任感じなくていいんですよ」
「ああ、なんか‥‥なんというか、なにも言えなくて申し訳ないが」
「いいんです、話聞いてくれるだけで。誰にも話せなかったんです。部長に話聞いてもらったら少し胃が軽くなった気がします(笑顔)」
話の内容はドロドロだけど、その笑顔にドキッとした。そしてドキッとした自分に少し驚いた。
「部長って聞き上手ですね」
「そんなこと言われたことはないが(苦笑)」
「また話聞いてもらっていいですか、そうだっライン交換はまずいかな、部長のメルアド教えてください」
それから時々メールが届いた。話の中身は殆どノラの話題だった。彼女は話し相手が欲しかったという、会社の同僚は皆ライバルらしい。意識高いよな、うちの女子社員は、女子社員という呼び方も駄目ならしい。
そして浮気をした旦那のことは許せないらしい。当然だ、こんな魅力的な妻がいるのに10人並の女と浮気するなんて男って本当にしょうがない生き物だ。10人並というのはあくまでも彼女の意見であってそうじゃないかも知れんが。
携帯を持って一時間悩んでからメールした。
「本日大漁です。よかったらノラを連れて遊びにきませんか、ご馳走します」
「部長の魚のさばき方ってプロ並ですね!」
「そこまでじゃないよ(笑)」
「釣れたての魚のお刺身もアジフライもめちゃくちゃ美味しいです!美味しいものを食べると元気がでます」
「よかった(微笑)」
「聞いちゃいけないかなと思ったんですが」
「浮気はしてないよ、ただ一人で生きたいんだって。僕と別れて生き生きと好きなことして暮らしているらしい」
「そうなんですね、長く連れ添ってきていきなりなんですね。結婚てなんなんでしょうね」
「僕にもよくわからないよ」
それから時々彼女はうちに来た。なにもないとは言え、誰かに見られたら終わりだな。それでもこの楽しい幸せなひと時は手放せなかった。
彼女に対して性的欲求が無いと言えば嘘になる。でもそんなものなくていい。彼女と過ごすひとときを失うことは耐えられそうにない。
けれど彼女は既婚者だ、相手が浮気していようがいまいが、この気持ちは間違っている。いつか、早く終わりにしなければ。
「部長、きて」
彼女は妖しく俺を誘う、その若い身体に抗うことはできなかった。
はっ‥‥‥ 夢か、夢でよかった。それにしても情けない、こんな夢を見るなんて。
だが誰かを好きになって抱きたいと思うことは情けないことなのか?
人を想う心は純粋で尊いもの。だけど忘れるな、彼女には夫がいるんだと何度も自分に言い聞かせた。
だけどそんな自制はいつまでも続かなかった。そしてある日、あの時の夢のように彼女は僕を誘った。
彼女の僕に対する気持ちはわからない、浮気してる旦那への腹いせだったのかも知れない。それでもいい、俺は彼女を抱いた。
「部長のこと好き、愛してる」
彼女は甘い声でささやく。それは嘘ではないだろう。
だけど君にはもっと好きな人がいる。特別な人がいる。それは逆に俺を欲情させる。
一瞬でもいい、一番好きなのは僕でいて。そして僕は僕の腕の中ではてていく君に優しくキスをする。
そんな関係が何度か続いたある日のことだった。
「飲み過ぎだからもうこれ以上飲まない方がいい」
「そうね飲み過ぎて足元がふらつく、帰るから送っていって」
同じ階とはいえ万が一のことを考えて一緒には歩かないようにしていたから一緒躊躇した。
「やっぱり男ってズルい生き物だね」
そう言われると返す言葉がない。
「違うの、今夜は帰りたくないの。帰れないの、ずっとここにいていい?」
今まで彼女がうちに泊まることはなかった。いつもと違っていた、何か大きな出来事があったのだろう。
僕はずっと側で寄り添い、時折その長く綺麗な黒髪を撫でた。なんだかこれが永遠の別れのような気がして僕はずっと起きていようと思った。
「おやすみ、なにも考えずにぐっすり眠って、僕がずっと側にいるから」
けれど気がつくと朝だった。彼女の姿はなかった。
束の間でも僕は君のゆりかごになれただろうか。
総務部に川島郁子の退職願が届いた。業者がアパートで引っ越し作業をしていた。
もうメールが届くことはなかったし、僕もメールしなかった。
ただ僕の傍にはノラがいた。この子をお願いしますとドアの前の箱にノラがいた。
「ノラ、よろしくな(微笑)」
あれから二年が過ぎた。仕事は変わらずに忙しいが充実していた。
ときおり彼女を思い出す日もあったが、ノラがいたから孤独に苛まれることなく暮らしている。
君はどうしていますか、ノラがいなくて寂しくないですか。
どうか元気で暮らしていて。君の幸せを心から願ってます。
孫を連れて次女が来ていた。
「じじー」
「大きくなったな(微笑)」
「保育園は決まったのか」
「今いろいろと見学してるところ、こないだ行った保育園の先生が感じよかったんだけど人気のある保育園で倍率高いみたい」
何気なく見たその保育園のHPの集合写真の中に川島郁子らしき人物が映っていた。小さくてはっきりした写真ではないが間違いない。
会いたい、いや駄目だ、彼女は新しい人生を歩き始めたんだ。今更会ってどうする。
多分離婚したんだろう。だからといって簡単には会えない、会っちゃ駄目なんだ。
ある日のことノラを連れて散歩をしていた。元野良猫のノラは時々外に出たがる。
いつもは大人しいのにその日は腕から飛び出してしまった。
「ノラ! 危ないから戻るんだ!」
ノラを追いかけて路地を曲がると懐かしい人がノラを抱き抱えていた。
ふと目頭が熱くなる。
「部長、泣いてるんだ」
いたずらっぽくからかうように彼女は言った。
「違うよ、ノラを追いかけて走ったから汗が目に入ったんだ」
またまた〜そう言って笑う彼女の眼から大粒の涙が溢れた。
「会いたかったです。でももう会えないと、部長に不誠実だった私は会っちゃいけないと思ってました」
「にゃー」
「ノラ、お腹が空いたんだな、そろそろうちに戻ろうか」
「にゃー」
「ん? その腕の中がいいって、そりゃそうだ、月の綺麗な夜に運命的な出会いをしたんだもんな(微笑)」
「彼のイギリスで出会った女が妊娠したから別れてくれって言われたんです」
「そんな」
「私は部長と関係を持ちながら彼のことを愛していました」
「それはわかってた」
「部長は優しすぎます。結婚して3年避妊してた訳じゃないけど、私達には子供はできなかった。それでこんな結果になって辛くて辛くて、鬱々としてなにも出来ずに半年が経った頃、公園で遊ぶ子供達を見て思い出したんです。私は子供が好きだったんだ、そして働くお母さんたちの力になれたらいいなって、そしたら生きる希望みたいなのが湧いてきて勉強して保育士の資格を取って今保育園で働いてます。1DKのアパート暮らしで贅沢は出来ないけれど凄く充実してます」
「よかった、本当に良かった」
「部長、眼から大量に汗かきすぎです(笑)」
彼女は以前のようなブランドものの服に身を包む訳でも、高級なバックを持つ訳でもなく化粧もナチュラルで、だけど以前にも増して美しかった。キラキラと輝いていた。
「部長はまだ釣りしているんですか」
「もちろん」
「部長の作ったアジフライがまた食べたいです」
「本当に?」
「はい、食べたいです(笑顔)」
「OK!」
end
18年前に書いたゆりかごとは全く違ったものになりました。それはfifty なので。
楽しんで頂けたなら幸いです。更に拍手や感想等頂けたなら小躍りして喜びます😊