記憶は何年さかのぼるかと10年前のブログを再録して見るが年号と日付でかろうじて思い出せることは限られているから10年ひと昔はその通りのことばであると実感して電子情報をこのように記録に用いるとこの年数は30年前も可能にするであろうしそうなると果たして記憶は脳を使い記録を探る作業であったものをそうしなくなって直接にそれを取り出すような状況になるのは脳にとってはどうなんだろうかと思いつつ忘れる働きは皮質の上塗りか海馬の層の形成になるようだから」あるいはその作り方をも変えてしまうことになって記憶と記念または記録に加わる記事となって記号となっていくようになる。 . . . 本文を読む
日本をNihon、Nipponのいずれにするか、読みのことである。音声を標準とするなら、ニフォン、ニッポンのいずれになるか。日本語を、にほんご にっぽんご と読み分ける。そして、いずれも意識としては正しい。何が正しいかとなると、実は、表記で、漢字を用いて、日本語というふうに書くことが、正しいのである。その意識としてあるのは、文字表記に正当性を認めるとすることは、漢字を用いることである。日本書記にも、読みが二通りあるとする意識に、文字表記では一つである。この署名には、知られているように、じっぽんしょき となる読み方も、17世紀初めに造られた辞書に発音が記録されている。そのころは、そう聞くことがあったから宣教師によって採取されたのである。そうすると、漢字音の変遷と、それを受け入れて、そのつど、定着した語もあったのであるから、日本についても、じっぽん の、読みがあることになるが、日本という、この表記には、ヤマトの呼称にも用いるなどしたであろうから、漢字音のまま、記録するもの、つまり、仮名書きはないので、ジッポンは定着してない。ここに、Nipponについて、日本と書くことが国名であり、それを読みとしては清音の伝統をもつと解釈した国学者によって、にほん となるべく、その発音は両唇の摩擦音であったろうけれど、音の交替で声門音の発音となって定着した。その仮名の清音表記には半濁点の符号が就くようになると、両唇破裂の強い発音も聞こえた、つまり、にほん にっぽん となるには、それぞれの仮名表記が現れてからのこと、それを教育によって、読みとしてのいずれをも定着させたのだろう。いつごろか、1900年に、小学校教育の指針ができたころのことである。 . . . 本文を読む
日本文章論を考える。ブログのカテゴリーに、文法文章論、日本語文章論、日本語文法文章論を設けている。そこにまた、日本文章とは、これいかに、文章ジャンルを文体に見ることができる、その日本文章論となる。文章史は文体史または文体表記史にみる。 . . . 本文を読む
文庫版の源氏物語を見る。岩波書店は文庫本でまた新作をしている。古典体系の、新古典体系の、新定本である、新訂か。前文庫版は山岸徳平氏の、いわば白文であった。それを、大系に、注釈書、山岸源氏を著わした。この文庫版はその逆である。2冊目が出ている。ナンバーリングが、(二)のように、括弧がつく。新大系には算用数字で、というふうに、使い分けているようである。源氏物語全註釈を構想したが、それはとてもかなうものではない、訳は簡単であった、註釈の本文が違うのであるからひとつにはおさまらない、ということがわかり、そこから、取り混ぜ本、混成本の源氏の難しさを知るようなことであった。底本が決まらないのである。源氏物語大成の校異がそれを如実に示した。きょういげんじ ということが、よくわかったから、唯一本文を求めてみた。恩師に倣って言うなら、源氏物語の本文策定であったが、その本文校合は意外な事実を明らかにした。書写過程の作業である。 . . . 本文を読む
このころの気温は、ぽかぽか、気象予報士が小春日和だと、晩秋の季節を旧暦で10月のいまごろだと、日中の温度は16度、17度となって、ぽかぽかと、しかしその陽気には至らなかった。週半ばで雨模様があって、移動性高気圧は気まぐれに秋の天気、晩秋と雖も、初冬のような雲行きでもある。またすぐにも気温が下がりそう。 . . . 本文を読む
人生100年時代という。それを構想するための会議というのであるが、その目的と主要テーマは、どうなっているか、なにが話し合われるのか。 一億総活躍社会実現という政策である、らしい。>子供たちの誰もが経済事情にかかわらず夢に向かって頑張ることができる社会。いくつになっても学び直しができ、新しいことにチャレンジできる社会。人生100年時代を見据えた経済社会の在り方を構想していきます。 と見える。 . . . 本文を読む
文化には伝統、当代そして現代と時系列に捉えるが、そこに空間を見れば地域の文化がある。文化は文明とともに精神遺産を遺跡遺物にとどめる。そこに文化の価値があると特徴において差があるから、文化に違いがあっても、その価値は不変である。その文化を支える人々は家族であり地域住民であり民族である。文化の担い手、継承者があることは文化を存在として評することができる。そのような文化のとらえ方でゼミ文化とはこれいかに、である。 . . . 本文を読む
大相撲で白鳳が40回になる、優勝をして、前人未到の大台にのせた。これで2017年を終わる。横綱の待った物言いという物議をかもす展開があった。それも場所中に起きた出来事に横綱の暴行事件があったから、それを影響したかとみるようなことであった。その世間を騒がせた横綱の所業は、モンゴル力士の会合でのことであったから、日本人社会とモンゴル出身の力士の会であったにもかかわらず、相撲協会の組織管理にまで出来事が及んだ。国技に相撲の神様とまで日本相撲としての体面をかけた。暴行と刑事訴訟になるか、年内にもその決着を図るというが、部屋住まいの親との人間関係、親方と弟子のあいだが、社会性の異なる様相を示している。解決には日本社会の縮図をみるか。 . . . 本文を読む
卒業論文の追い込みの時期でゼミ生諸氏は凝縮したときを送るころ、論文のテーマ説明にトピックスから、アンサーを導く方法を中間発表とする。タイトルの決定と、自分の手作りの調査実験は何か、文献探索の勉強はどれほどか、したこと、わかったことを、引用の注記とともに、参考文献として発表させる。持ち時間は30分。日に3人か、4人のペース。発表は20分であるから、スライドショーの用意に20頁と、対応したレジュメをつけさせる。そこで、卒業研究論文となることに、どうも、卒業論文を卒論と言い、それを卒研として見るなら、これまた言いにくいこと限りなくなる。いずれも同じようなものだと声が聞こえてきそうなものの、卒業するための論文と、卒業するための研究論文とで、卒業するための研究とだけ限定されてくるように思われて、卒業のための研究論文は論文であってそれをわざわざ研究論文というところで噛んでしまうのである。 . . . 本文を読む
おこの古語を知っていれば、この用法はなかなか使えない単語である。おこ 漢字変換して、尾籠となる、これを音読みすれば、びろうなことであるから、おろかなこと、ばかげたこと、として、ばかと言うようなものだから、つかいにくい。それをまた、おこがましいと言えば、ばかげたことである、となるから、その意味を知るか知らないかでは、使うところを間違うことになる。あるいは、知っていて、おこがましいですが、などの謙譲しての物言いに、差し出がましさが伴うものであるから、身の程知らずであるとだけ、意味内容を心得ていったりすると、とんでもないことになる。ビジネスシーンで注意を要すると、サイトで説明するとおりである。類語をあげて、同様に、謙遜の難しさを言う。 . . . 本文を読む