吾輩は猫である 漱石の漢字表記を読み仮名でみる。新聞の連載をもとに採録する。
夏目漱石
吾輩は猫である 4
六(む)ずかしく
詐(いつわ)り
眼鏡(めがね)越(ごし)に
上手(じょうず)に
画(え)がかける
以太利(イタリー)
星辰(せいしん)あり
露華(ろか)あり
禽(とり)あり
獣(けもの)あり
枯木(こぼく)に
寒鴉(かんあ)あり
嘲(あざ)けるような笑(わらい)
覚(さ)めて
一分( . . . 本文を読む
文化と戦争を考える。文化に対するのは武力であると見ることは、武力平定を戦争によるとみれば、文化は何によることになるか。思想、宗教などの文化価値観の相違による衝突である。日本文化論は戦争を契機として議論があった。その戦争は敗戦の事実があったから、それまでの文化を否定する結果となった。文化は戦争とともにあるのである、という言い方は奇妙であるが、文化論に戦争をとらえることは、何とも、そぐわないにかかわらず、文化と戦争はかかわりあう。文化の価値観は戦争ともなると、文化戦争、culture war とは、アメリカ社会における、1990年代に起こった、伝統主義者、保守主義者と、進歩主義者、自由主義者との間にある、価値観の衝突をとらえて、こう呼ぶようになったと説明する。 . . . 本文を読む
外国語をどう見るか、それは日本語ではない、外国の言語ということになる。その日本語が国語であった。外国は国内と対比される。内国ではない。とつ国といった。それは地域を限定しない。外国語は、しかし、英語であった。言語になるのは欧州の地域の言語を指し示していた。外国語としての日本語には、その外国語とは英語をおいている。言語としての日本語はどうか。内なる言語を見直すことになる。そこには漢語があった。和語があった。そして外来語である。すると国内の言語は国語とくくられて、漢語を含む。外国語をも含めて、それを国語としている。それに対する言語は国内の語について、日本語とみることで、言語としての日本語になる。漢語は外国語にはならないのである。ただし日本語における漢語となるので、国語に取り入れた漢語のことである。 . . . 本文を読む