文節論があるわけではない。文節論を検索すると文字変換がキーワードにヒットさせるのは分節である。文節とすればそれは国語教育の解説がある。文節批判があるなか、それは多くは一つのことがらになる。文節の係り受けのことがらである。文節のもつ問題点とするのは代表して形式主義文法の捉え方である。まるで形式の利点を顧みないのは、外形重視と言った国語研究のラベル貼りにすぎない。音韻を論とするのに、言語ごとの音韻分析がその言語使用の意味に係わることは必然である。それで橋本学説に意味の言語背景をとらえた内省があることをあたり前のように問わないで済ませている。学校教育の文節単位に余りの簡便さがあったからだろう。国民のひとしく文節を知るところなのである。 . . . 本文を読む
敬語はどこまで丁寧でよいか、あげる やる この動作の対象を、水やり、ペットの餌とすると、その動作に敬語表現を用いる例を話題にしている。また、お見えになる お召し上がりにある という用法、さらに、おっしゃられる ご覧になられる というふうに、敬語の使い方を、その敬意の度合いでとらえようとしている。どこまで敬語を使うべきかという話のようであるが、動植物から二重敬語の対象をもって過剰敬語、ここで説明しているのでは、敬語使用の、これは意識のようであるが、コラムのいうところでは、敬語の使い方と言葉の乱れをとらえるようである。勘違いしているようであるが、庶民においては、丁寧の度が過ぎると、バカ丁寧ということを心得ているし、その丁寧の対象、方向が間違ったりすると、慇懃無礼となることで、品格を問われることになりかねないので、敬語の度合いは社会のやり取りのなかで、知性のおもむくところ、教養の修練とともに身につけていくのである。 . . . 本文を読む
文節が語であり詞である、連文節が句であり節である。そうして文章を分析すると、文章は文節からなる。この文節という単位を分節によって得られるので、そこには文法の法則があることを知り、語は品詞に分けられ、句は語と語とが関係し構成する単位になる。句には文にある要素を見るか、句を節にするときには、文における語と句と節の関係とその構成を見ることになる。ここで大切なことは、文節を考えることは日本語の現象にふさわしく係り受けの関係を文節に捉えることである。 . . . 本文を読む
日本語の歴史をシリーズとする。日本語史と、その名称は日本語の歴史とおのずと異なるところがある。日本語の歴史であれば、シリーズに平凡社ライブラリーの復刊、出版年月は2006年11月、別巻が2008年をもって、その間に全8巻がある。1963-66年に、日本語の歴史、1 民族のことばの誕生 2 文字とのめぐりあい 3 言語芸術の花ひらく 4 移りゆく古代語 5 近代語の流れ 6 新しい国語への歩み 7 世界のなかの日本語 と構成をしている。日本語の歴史を書名とするのは、この書でもって国語史に対する編集であったのだろう。国史としたい謂いが日本史となったのは早くに、時代の要請とその史観、また資料を扱う研究手法によるものであったろう。日本語の歴史が長く国語における時代史で語られてきたのも、その実証性によることである。 . . . 本文を読む