日本語文章の分析に文節を用いる。文節は橋本学説における文の成分である。文に文節を見ることは日本語の特徴である。文節において文の要素を分析し、主語述語をもって文とする。その文に主語を必須要素とする捉え方と異なって、日本語では、必ずしも文の単位だけが文章を構成するものではない。目的語述語をもって文の単位に即した働きをする句がある。文章は文が関係構成する、文の集合体であるが、そこには句をもって文と関係構成をすることがある。したがって文章において関係構成の要素となるものには文、句、語と、それぞれ下位に単位がある、文節はそれぞれの単位を作っている。いまここに書き連ねる文章にもその構成要素を見出す。冒頭の一文は、文であるか、句であるか。そこに主語述語の関係を見れば文である。第2文は、文節はと、前の文を受けて引詞をもってトピックとしている。この文にも主語と述語の関係があれば文である。第3文は、文に文節を見ること、それを引句として、トピックとしている。 . . . 本文を読む
漱石の文字遣いをみて、日本語表記を考える。「門」から、しばらく。前の続きにしようかとも思ったが、リアルタイムにした。すこし思い出すと、このような表記に触れたのは13歳のころである。吾輩は猫である については、ユーモア小説ぐらいの読書であったが、それは中学生にして受け止めたのであったからいたしかたない、それにつづいて、こころ を読んだころ、そのころには、白樺派に影響があったので、武者小路実篤の表現、文字遣いはさまざま、学ぶころであった。ほかにもあったのだが、それはいまでも中学生図書館の隅にあるだろう、君たちはどう生きるか、哲学書であった、そして、きっかけは何であったろう、その冬ころ、漱石全集を読み始めたのである。三部作もエッセイ風にも、漱石畢生の大作にも、それは日記や漢詩をまぜこぜに、お構いなしの読書であった。その時の漱石全集のルビがわたしの学びであった、と、確かにして思う。それから夜半から明け方の読書には漱石全集があった。14歳のころには一通りのことであった。その中に、わたしの個人主義を見なかったのは、のちに江藤淳が編集した文芸春秋社の . . . 本文を読む
全然 を、副詞として、打消しの呼応で使うときの用法が、トピックである。ぜんぜん を、このような仮名書きにしてみて、それは話し言葉の音声を表すようであるから、ゼーンゼン とでもして、言うとよいのかもしれないが、この打消しを伴うのが、どのように定着し、また説明されるようになったかという、規範のことがらである。それはとくに教育の面で、この語の使い方をわかりやすくしたものであろうから、そう思って使いこんでいくと、それは全否定の言い方に、全然ダメ、とか、全然悪い、全然違う、として、語感に気づくことになる。それが転じて、全然良い、としたときに、打消しを伴わない意味内容がわかる。そのようなことがあると、規範の説明はそうであって、さらに語の用法を確かめることになるから、全然、自然、天然、憮然、茫然などなどの言葉があることになって、全然 を、漢語のもとの意義に帰することになる。したがって、勘違いは、その用法の強調にあった説明やとらえ方にあったのである。いま気になるのは、むしろ、タイトルの大丈夫かという、この勘違いしやすい言葉である。このコラム、ダイジョーブかな。 . . . 本文を読む