升井紘 浮沼亭日記

新型コロナも土砂災害も飛んで行け!

幻の陰陽連絡鉄道

2014年02月07日 00時01分36秒 | 日記

広島ブログ

 

昨日はぎっくり腰に参っている「辛口」、三次市の長期計画審議会出席も出来ませんでした。今日は辛口をお休みにして 「歴史と文化、お勉強の時間」 です。

 

外は朝からの雪が間断なく降り続きました。夏頃から書き続けている 「歌人中村憲吉と布野の里」 です。大方出来上がり、読み返していると鉄道計画のことを書いておりました。その一部を紹介します。

 

大正7年(1918)、芸備鉄道の三次駅から布野・赤名を経由して今市(出雲)を結び、広島~今市間を運行しようとする雲芸鉄道株式会社(本社今市町、発起人高橋隆一)が結成され、翌八年には鉄道省の許可を得て布野村でも「陰陽連絡鉄道既成同盟会」が結成された。村費から150円の補助金を支出するという熱の入れようだった。

 この運動に中村憲吉も一役買って、滞在中の兵庫県から同年8月26日付けの父中村修一宛の書簡で、三江線の敷設予定ルートを赤名・布野経由に変更させる可能性があると記している。

 

 憲吉はこの日に上京し、28日には広島県出身の有力政治家望月圭介と面会、翌月には鉄道大臣元田肇を訪ね陳情している。この結果だろうか、元田大臣と望月圭介が山陰側から入り、赤名・布野方面を視察している。このような働きかけの成果であろう、同13年5月には鉄道大臣から三次~今市間の雲芸鉄道敷設の免許状下付までこぎ着けている。  この鉄道は出雲大社と安芸の宮島を鉄道で結ぶというので、大宮鉄道株式会社と名称を変え、資本金8百万円、その分担金を島根県、広島県、京阪神や東京などが受け持つこととした。布野村では有志が村内はもとより近辺の町村まで奔走し、株式5千株の引き受けを満たした。

 

 

 

 第一期工事として今市~出雲須佐間19キロメートルが開通したものの、不況のため株式の払い込みが停滞し、当初予定の16万株が11万株しか応募が無かった。このため昭和7年3月の株主総会で経営困難と判断し、鉄道省に認可取り消しを申請、会社は消滅した。三次~江津間を結ぶ三江線敷設が先行している中で、雲芸鉄道の見込みが消滅したため、再び路線変更で浜原~赤名~布野~三次を働きかけたが、既に鉄道省が決定していた路線の変更は認められず、それに加えて昭和十二年に始まった日中戦争でこの鉄道敷設計画は幻に終わった。

                                        

 この鉄道を開通させるため懸命に働いた憲吉ですが、夢は幻に終わり布野を列車が走る事はありませんでした。故郷布野をこよなく愛し、東京にいるときも、大阪にいるときも、その住まいは仮寓であり、布野こそを一番の住まいとして歌を詠み、一生を閉じた憲吉です。残された写真のいかめしい顔かたちとは裏腹に、家族にも住民にも優しい人でした。

 

 そして時代が変わり尾道と松江を結ぶ高速道路は布野から遠く離れた所に開通しております。そのような巡り合わせに因縁めいたものを感じさせる布野です。

 

 

広島ブログ 読み疲れ有り難うございました。

 タイトルは 「毒舌日記」 ですが、ブログの中身に 「毒」 はありません。