大田實中将の顕彰碑
(写真とお言葉はHPより頂きました)
「顕彰碑」
昭和48年6月千葉県長柄町高山にある生家の長屋門入り口左側に有志により顕彰碑が建てられています。
太平洋戦争末期の沖縄戦で自決した海軍部隊司令官、大田實中将の命日にあたる13日、長柄町高山の生家に隣接する顕彰碑前では毎年慰霊と供養の集いが開催されて
おりますことが報道されますが、今年は新聞紙上に探すことができませんでしたので、顕彰碑のご紹介と参考までに過去のご紹介をさせて頂きました。
下記の は平成18年11月23日~25日 千葉県南方諸地域戦没者追悼式・戦跡巡拝に参加して の折に撮影しました。
旧海軍慰霊塔 大田中将自決の部屋(平成18年慰霊の折に撮影。現在は撮影不可)
司令官室の壁面には 「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」と大田中将のお歌が鮮やかに残されていました。
昭和20年6月6日、決別電報と辞世の句を打電。
同日夜、沖縄県民の献身的な戦い振りを述べ、後世にわたる国の配慮を訴えた世界史上不朽の 電文 「沖縄県民斯く戦へり」 を打電。
6月13日幕僚6人とともに自決、54歳の仁愛と波乱に満ちた生涯を終える。
辞世 「身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は」
壁面に残ります辞世のお歌は、平成18年には撮影出来ましたが、現在は近くまで行かれませずに撮影も不可と聞いております。
平成18年、初めての戦跡巡拝にバスガイドさんが「千葉県の方に足を向けて眠れません。」とお話下さいましたことが思い出されます。
千葉県民の一人と大切なお方を偲んで参りたく考えております。
戦跡巡拝に参加して詠む
沖縄の県民守り果てたりし大田中将郷土の誇り
あらためて「自決」の言葉思ひたり歴史の重みまざまざとして
深き壕闇(くら)き底より今もなほ鶴嘴(つるはし)の音聞こゆるごとし
驚きました。
辞世の歌まで作られて自決されたとは
尊いことです。
以前の記事も記憶しています。
お若くして立派なおつとめをされ、ご家族の皆様もご無念でございました事と存じます。
平成28年の新聞報道に5女(84歳)、令和元年には4男(74歳)とあり、お子様が多いことにも驚きました。
掲載ありがとうございます。
今年は感染症予防の為、式典は中止といたしました。6/13当日は関係者のみ少人数での慰霊顕彰を致しました。来年以降は通常に式典を開催する予定でおります。
沖縄の追悼式もご遺族の皆様は欠席と報じられておりましたので
やはりご生家でも中止にされました事、お知らせをありがとうございました。
千葉市遺族会の役員として千葉県南方諸地域追悼式に過去に3回参列して海軍壕を見学しております。
司令官の命日にははるかにお祈りを申しあげております。
住職様のご尽力に感謝を申し上げますと共にご健勝をお祈り申し上げます。
私の父は昭和19年レイテ沖海戦に「鳥海」の乗組員960名の戦友と永遠の眠りについております。
父を全く知らない一人娘です。
然し呉の海軍病院で出生時に父が抱いてくれました事を聞き、何より幸いに思っております。
親族のおかげで何不自由なく育ててもらいましたが、今でも父が恋しく、短歌に詠み偲んでおります。
日本遺族通信の九段短歌に投稿を続け140首の掲載を頂いております。
現在は佳き友、隣人に恵まれ、親孝行の子供たちにも感謝の日々を過ごしております。