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クルマに関する妄想集(+その他のことも少し)

日産エクサのユーザーレビュー

2009年04月30日 10時37分58秒 | Weblog
2000年8月、僕は初めての自分のクルマとして、日産エクサ・キャノピー TYPE B(5MT)の中古車を買った。以下は、インターネット上にもあまり見つけることのできない、同車のユーザーレビューのつもりである。

僕はもともと、初めての自分のクルマとしては、N14型パルサー・ハッチバックの1.8GTIあたりを考えていた。あの、泥を盛ったような、ベタッとしたリアビューが好きだったのである。パルサーGTIのマーブルホワイトの中古車を見つけて乗るつもりでいたのだ。

ところが、社会人2年目のある日、たまたまカーセンサーをめくっていたら、エクサ・キャノピーの程度の良さそうな車両を見つけてしまった。そして、そのまま千葉県佐倉市にある中古車屋まで見に行ってしまった。

かねてよりエクサ・キャノピーはカッコいいクルマだと思っていたが、その当時で生産終了からすでに10年が経っていたこと、不人気車ゆえのタマ数の少なさゆえに、まさかめぐり逢う日がくるとは思えず、自分が乗るクルマとしては考えられなかったのだ。結局、実車の程度の良さにひかれて、29万円のプライスタグを下げていたそのエクサを、僕は初めての自分のクルマとして選ぶことになる。

ライトブルーの塗装が素敵だったそのエクサは、やはりカッコいいクルマだった。今に至るまで日産デザインの特徴でありつづけている、どこかに芯を感じさせるソリッドな印象を、エクサもすでに備えていた。左側のリトラクタブルヘッドライトに、「NISSAN」と刻印されているのがどうしようもなくお洒落に思えた。当時、僕は自宅から片道100km離れたところに住む彼女と付き合っていたが、毎週末に彼女を送り届けてから100kmの道のりを帰る途中、運転に疲れては何度もコンビニの駐車場でエクサの周りをぐるぐる回ったものだ。会社の当時の同僚で、今は徳島にいるTが、エクサを真横から10m離れて眺めたときに洩らした、「カッコええなあ…」という呟きを僕は忘れない。

エクサは、外観もよければ、運転しても悪くなかった。少々重めのボディゆえに、加速はやや緩慢だったが、そのかわり乗り心地はよかった。段差を乗り越えても、しっとりした動きをするクルマだった。150km/hだしてもピタッと安定して矢のように進んだ。つまり、踏み込めばきちんと速いクルマだったのだ。また、マフラーに工夫がなされていたのか、クルマ全体が暖まった状態で加速をするとき(高速道路の料金所でお金を支払い、再発進するとき)には、とてもとてもよい音で加速していたことも懐かしい。そんな時僕は、お金を払うために開けた窓を閉めずに、スピードが乗るまでその快音を楽しんだ。ハンドリングはそれほどクイックでもなかったが、低いヒップポイントと5MTのおかげで、僕にとっては十分にスペシャルティカーであった。

もちろん、良い点ばかりではない。キャノピー部から発生するキシミ音を中心とした種々の異音には相当悩まされた。高いとはいえないボディ剛性に起因する異音なので、根本的な対策は無理だと千葉日産のメカニックに言われた。まあ、これだけデザインがよければ仕方ないと思うことにした。

あとは、実はエクサはタルガトップ、日産いうところの「Tバールーフ」が全車標準なのだが、このルーフは外したときにはセミオープンな気分でとても気持ちが良いものだったが、タルガトップを嵌める溝に泥や埃が溜まりやすいのが、洗車マニアだった僕を悩ませた。見なかったことにして放っておくことのできない人には厳しいかもしれない。

そんな欠点も含めて、深く愛していたエクサ・キャノピーだったが、別れは突然にやってきた。2002年5月、国道246上の表参道交差点で自損事故を起こし、フロント右のストラットが折れてしまう悲劇に見舞われた。エクサは廃車となり、僕は昔から好きだったプジョー306の初期型を捜し求めて買うことにした。

別れた彼女を思い出してしまうように、僕は今でもときどきエクサのことを思い出す。あの事故がなければ、まだ乗っていたか?というと、それはわからない。けれど、あんな形でエクサを捨てなければならなかったのは、本当に残念だった。僕の書庫には、エクサのカタログが眠っている。そのカタログと向き合うのは勇気のいる作業だ。こころのざわめきを抑えてそのカタログをめくることは、今後もできそうにない。
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日産ティーノについて

2009年04月29日 14時52分57秒 | Weblog
このクルマが数ヶ月先にも発売されることを、「ニューモデルマガジンX」誌上で知ったのは、1998年の夏であった。僕はこのクルマを、「時流を的確にとらえた、良い意味で日産らしくない、非常に洗練されたクルマ」とうけとめ、セールス上の大成功を確信した。

ティーノと命名されたその2列シートMPVは、予定通りその年の12月に発売された。当時流行っていた、「Mr.ビーン」ことローワン・アトキンソンを起用した気合入りのCFとともに、ティーノは走り始めた。年が明けて1月には、トヨタから次世代の戦略小型車(ヴィッツ)が出てくることがすでに明らかになっていた。僕は、1999年1月の車名別販売ランキングは1位がヴィッツで、2位はティーノがいただくものと思った。つまり、それほど僕は、ティーノが大ヒットして日本市場を席巻することを疑っていなかったのだ。

しかし、このブログに多少なりとも関心を寄せてアクセスしてくれる方ならご存知のように、ティーノの販売成績はまったく振るわなかった。結局、日本市場における4年あまりの販売期間を通じて、ティーノが素敵な販売実績を記録することはただの一度もなく、同時期のトヨタ・ナディアとともに静かに消えていくこととなる。僕はこのときから、自分のクルマ審美眼を過信することはやめた。

僕は、2006年の秋、知りあいの所有するティーノで、東京-鈴鹿間のロングトリップを敢行したことがある。純粋な日産エンジニアリングになる最後の世代であるティーノは、運転して面白いタイプのクルマではなかったが、その広いスペースと豊かなシートで、大人4人とそのラゲッジを、しごく快適のうちに目的地まで運んだ。長距離をともにしたクルマにはどうしても情が移ってしまうものだが、それを差し引いてもティーノとは優秀なクルマであることを知った。惜しむらくは、メーターデザインがポップ調にすぎ、上質感やそこから得られる信頼感を少なからず損ねていることだ。この手のクルマは、特に内装においては抑えの効いたデザインを施すほうが、ずっとそれらしく映るというのが僕の考えである。

写真は、比較的めずらしい真っ白のティーノ。Carviewのユーザーレポートでは、このクルマは非常に高く評価されているのだが(ユーザー自身の評価ゆえに、多少過大評価ぎみであることはやむをえない)、この白いティーノの持ち主も、きっと「こんないいクルマなのに、みんな知らないで」と思いながら日常の足としているものと思う。

あらためてティーノの外観をよく見てみると、ヘッドライトフィニッシャーが黒く塗られていることにより、キャラクターにそぐわないワルさを醸し出している点は気になる。また、フロントフェンダーがもう少し絞られ、エンジンフードの傾斜がもう少し緩ければ、「顔がデカすぎる」「顔が気持ち悪い」という印象はだいぶ緩和されただろう。この頃の日産が推し進めていた特徴的なフロントグリルについては、僕は全面的に肯定する。N16アルメーラとともに、ティーノのフロントグリルの大胆な形状も、「日産グリル」の最終的到達点であると思っている(僕のティーダもあのようにしてもらいたかった)。

一方、リアビューについては、今日の水準からすれば質感不足を指摘されるかもしれないが、当時の水準では非常にうまくまとまっていると思う。膨張色のボディカラーにも救われているのだろうが、豊かなボリューム感をたたえた、室内の広さを容易に連想させるデザインだ(質感不足といえば、この標準装着のホイールキャップはいただけない。緻密な感じがまったく不足しており、もっと魅力的なものはいくらでもできるはずだと思う)。

ティーノは、3列シートMPVがまさに爆発の初期段階にあったとき、2列のシートと3ナンバーボディで果敢に挑戦し、今から思えば「やっぱり」という感じで消えていった。同じコンセプトのトヨタ・ナディアも、ホンダ・エディックスも同様だ。これらのクルマは、商品企画の最上流たるコンセプト立案や想定ユーザー選定の段階で、すでに日本人の好みを外していた…と言われればそれまでだけれど、それでもこういうクルマを残しておく余裕が欲しい、というのは単なるワガママなのだろうか。
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スプリンター・カリブを再考する

2009年04月28日 16時57分45秒 | Weblog
写真は、とある工事現場で半ば作業車として使われている、AE90型スプリンター・カリブである。僕はなぜかカローラファミリーが気になってしまうという性癖があり、カリブを好む理由も、カローラファミリーの一員というこのクルマの出自が大きく作用している。事実、このクルマは仕向地によっては「カローラワゴン」名で売られていたこともあり、「裏カロゴン」と呼んでも差し支えないのではないかと思う。

この世代のカリブは、1987年に投入されたAE90系カローラのプラットフォームを母体として1988年に世に出た。その後、本家カローラが1991年に次期型に更新され100系となった後も、旧プラットフォームのまま継続生産され、1995年にやっと本家と足並みをそろえて110系にフルモデルチェンジされることとなる。つまり、本家の1世代分(100系)をパスして、7年間生産されたということだ。4年サイクルのフルモデルチェンジが当たり前だった当時の日本マーケットで、トヨタが特定の大量生産車を7年作ったというのは珍しい(スターレットも6-7年のライフ期間だったが)。

1991年のAE100系カローラが、新規開発のプラットフォームで入魂のフルモデルチェンジを行ったことにより、旧プラのままのカリブは地味な存在に転落するかと危ぶまれたが、コンパクトな4WDワゴンを求める層は一定以上存在したとみえて、案外な長寿モデルとなった。もとより、1987年に出たAE90系カローラファミリーのプラットフォームは堅実・堅牢な設計が評判だったので、カリブの絶対的な競争力は古びることなく7年間維持された。

このカリブは、生産終了から14年も経つクルマだというのに、いまでもそう古びて見えない。ホイールベースと全長がもう少し長ければなとは思うが、よく見るとなかなか華のあるワゴンボディを与えられている。実際、前後ドアのデザインや、ワゴンとして重要なリアエンドなどは、無骨さをアピールしながら個性的にカッコよくまとまっていると思う。本格的なワゴンとして、どこまで荷室に知恵が盛り込まれているかは未確認だが、実用上大きな問題が生じるほどではないのだろう。

小さな子どもがいて、川原でバーベキューや、1泊程度のお手軽なキャンプを趣味とする人が、強い思い込みもなくこのクルマを買い求め、その利便性ゆえに気づけば手放せない存在となっていた…なんていうのはとてもいい。家族のよき道具として、過不足のないものを持っているクルマだと思う。このような、一見地味でも、実はユーザーを満足させる内容を持ったクルマが、1世代遅れのプラットフォームながらつごう7年間も作られ、14年後の今日でも元気に走っているのを見るにつけ、クルマとユーザーの理想的な関係について考えさせられるのである。
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また会えた、初代コルサ

2009年04月27日 23時41分21秒 | Weblog
写真のクルマは、15年ぶりに見た、初代コルサ・ハッチバックである。腺病質で、どことなく不安定さを感じさせるボディは、リペイントされているところが惜しいが、それ以外はフルノーマルの状態を維持しているようだ。ドライバーは、僕と同じかやや年上な感じの男。最近の登録なのか、ナンバーは「○○500」となっていた。

初代コルサ・ハッチバックの実物を最後に見たのは、1994年のことだ。当時の僕は、大学受験に失敗して、代々木ゼミナール津田沼校に通う浪人という立場に甘んじていたが(早い話が無職である)、あれは秋にさしかかっていたころか、自習室での独習に疲れ、いつもそうしていたように一人で校舎の前庭で紙パックのコーヒーを飲んでいたところに、オフホワイトのそいつはごく低速でゆっくりと走ってきた。

その数ヶ月前の「NAVI」で、徳大寺有恒の「いま、初代コルサのハッチバックに乗ったら洒落ているぜ」という科白を読んでいた僕は、当時すでにめずらしくなっていたそのコルサを思わず走って追いかけた。すでに免許が取れる年齢になっていたにもかかわらず、大学入学を優先させるためにそれを諦めていたやる瀬無さが、そのような行動をとらせたのだろう。もう15年も前のことだが、懐かしい気分とともに思い出す。

写真のコルサを駆る彼は、どんな気持ちでこのクルマを買い、乗っているのだろう。無理矢理にコルサを停めて、彼に声をかけようかと迷ったが、その間に青いコルサは僕を残して走り去っていった。
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