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クルマに関する妄想集(+その他のことも少し)

トヨタ・セラに関する、ごく私的な事柄

2009年07月10日 01時02分41秒 | Weblog
ある日曜日のこと。何年ぶりかで、このような間近でトヨタ・セラを見かけた。実は、僕にとって、路上でトヨタ・セラを見かけるということは、普通の人とはちょっと異なる意味合いを持っている。今日はそれをお話ししたいと思う。

その昔から、僕にはあるジンクスがあった。それは、「試験を受けた帰り道にセラを見かけると、その試験は成功している」というものであった。これは、馬鹿馬鹿しいと思われるのがオチなので、いままで妻を除いて誰にも話したことはない。

あれは中学3年の頃だったと思うが、英検(何級かは忘れたが、たぶん3級程度だろう)を受けた帰り道にセラを見かけたことが始まりだった。当時の僕は千葉市の稲毛というところに住んでいて、千葉市立稲毛高校を会場として行われた英検を受けたその帰り道、JR稲毛海岸駅前で、ガルウイングを開け放ったセラを目撃したのだった。その数十分前に受けた英検は、決して自信のある出来栄えではなかったのだが、後日郵送されてきた結果は、はたして合格であった。

もちろん僕も、そのたった一回の出来事だけで、そのジンクスを自分の中で明確に意識したわけではない。しかし、その後、学校における中間試験や期末試験、さらには高校受験に至るまで、帰り道にセラを見かければ、その試験は必ず良い結果であった。逆に、セラを見かけなかったときは、かなりの確率で、その試験は失敗に終わった。このことから僕は、「セラを見かければ試験は成功、見かけなければ失敗の公算が大きい。つまり、見かけない=試験失敗では必ずしもないが、見かければ必ず成功」というジンクスをはっきりと意識したのだった。また、不思議なことだが、試験を受けていない普通の日にはセラを見かけることは滅多になかった。

自らの中にそんなジンクスを確立してから数年がたった頃、僕は高校3年となり、大学受験の季節を迎えた。1994年2月のことである。

第1志望として挑んだ青山学院大学からは、不合格の通知がすでに届いていた。あまり深く考えずに願書を出した成城大学も、比較的自信があったにもかかわらず、結果は不合格。これから試験を控えている日本大学にも失敗したら、僕は浪人しなければならないという瀬戸際にいた。どうしても日大に受からなければならないと思いながら、背中をあぶられるような焦燥感に苛まれ、僕は思うようにはかどらない勉強を続けていた。

そして迎えた日大入試の当日。京王線の桜上水にある、日大のキャンパスで受けた試験は、はっきりいって「受かる気がしない」という出来だった。僕は十分な準備をせぬままに日大の入試当日を迎えてしまったことを激しく悔いた。しかし、もうどうなるものでもなかった。
冬の午後は短い。午後4時ぐらいだったのか、試験を終えて日大のキャンパスを後にしたときは、あたりにはうっすらと暮色がただよっていた。

帰りの京王線が新宿に到着した頃には、街は夕暮れ一色に染まっていた。僕は数時間におよぶ試験を受けた後で疲れてはいたが、どうしてもそのまままっすぐ家に帰る気にはなれなかった。といって、普段新宿になど来ることもない高校生に、どこで遊んでよいかわかるはずもなかった。

いつしか僕は、新宿駅西口の、小田急百貨店への連絡通路となっている歩道橋の上に立ち、その下を行き交うクルマたちを眺めていた。いまセラが僕の目の前を通り過ぎれば、僕は日大に合格しているのだ。受かる気がしない試験といいながら、そんな万に一つの可能性にすがらないわけにはいかなかった。しかし、残酷なことに、たった1台のセラも通ることはなかった。

僕はそのまま小一時間も過ごしただろうか。セラは、やってこなかった。僕は絶望的な気分で家路についた。そして結局、僕は日大にも失敗し、1年間の浪人生活を送ることを余儀なくされる。

トヨタ・セラを見ると、僕は今でもあのときの夕暮れの光線の具合や冬の乾燥した空気、行き交う人々のざわめき、そして何よりあのときのすがるような切ない気持ちを思い出して、18歳の当時の自分をいとおしく思う。あの日からだいぶ年月もたった今、いつしかそのジンクスは効力を失い、トヨタ・セラが僕の人生に影響を与えることはなくなった。そもそも、そんなジンクスは最初から存在しなかったのかもしれない。ただ、ひとつだけはっきりしているのは、トヨタ・セラは、僕の人生にひとつの深い襞を残し、それは僕の過去の記憶を豊かにしてくれるということだ。
コメント
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