Open your eyes

クルマに関する妄想集(+その他のことも少し)

グローバルネームについての考察

2007年01月19日 15時38分30秒 | Weblog
カムリの話をもう少し続けたい。ちなみに今はトランジットで立ち寄った香港のラウンジ。

世界中、どの都市に行っても見かけるトヨタ車というのがある。小さいほうから、カローラ、RAV4、カムリ、ハイエースといったところ。これにヤリスやレクサス系も加えていいかもしれない。とにかく、これらのトヨタ車は洋の東西を問わずどこに行っても走っており、なおかつ、原則的に世界中どこでも同じ名前で売られているのだ。人間には、自分を埋没させても既存の様式や考え方に寄りかかりたい欲望と、それらに逆らうことで他者と差別化したい欲望が同時に存在している。冒頭に挙げたトヨタ車が持っている、グローバルネームそれ自体が持つ安心感は、人間の持つ前者の欲望をいたく満足させるのである。

トヨタは、カローラやRAV4同様、カムリというブランドに対し並々ならぬ愛情を注いでいるように見える。このブランドは、いまや地域によってはカローラ以上の圧倒的バリューを持つに至った。カムリブランドはトヨタが時間をかけて育ててきた財産であり、だからこそワンボディ・ワンブランドを堅持するという発想になるのである。
ホンダも然り。シビック、CR-V、アコードは彼らの誇るべきビッグネームであり、彼らは決してそれらのブランドを場当たり的に違うボディに冠したりはしない。ただひとつ、日本市場を除いては、であるが。

そう、日本市場でカローラやシビック、カムリ、アコードが精彩を欠くようになって久しい。トヨタは例外的な措置として「アクシオ」という妙な名前をカローラにかぶせ(しかもセダンに、である)、ホンダもアコードのボディにインスパイアを名乗らせている。トヨタ・ホンダにしてこのような戦略をとらせる日本とは、やはり特殊な市場環境なんだろうか。そして、彼らの必死の決断にもかかわらず、日本におけるこれらのブランドはいまだに浮かばれないままなのだ。逆に言えば、日本市場に安易に迎合しないことで、カムリやアコードはグローバルネームとなり得たとは言えないだろうか。

ちなみに僕は、今回の中東出張ではじめて現行カムリのことを格好良いと思った。やはり、日本の気候や景色の中で見ると解らない良さがあるのである。サイドビューがMercの現行Sクラスに似ているのは意図的だろうか?


<後日追記>
よく考えてみると、ワンボディ・ワンブランド戦略を採っているように見えるカムリにも例外はあって、それは中国におけるカムリ=豪州・中東におけるオーリオン Aurion なのでした。どこのメーカーも苦しんでいるんですね…
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出張も佳境な訳で

2007年01月18日 23時32分21秒 | Weblog
今はドバイ国際空港内の、British Airwaysのラウンジにいる。今、ドバイは18日の23:30というところ。日付が変わった01:25のキャセイに乗って、香港経由で帰国する訳で。異国の空港で、ワインを片手にブログを書くなんて、我ながら優雅なことである。

今回の出張で(仕事以外で)何がいちばん印象的かって、とにかくトヨタ・カムリのタクシーに乗りまくったということ。感覚的ではあるけれど、ドバイにおけるタクシーの90%は旧型カムリで占められていて、しかも鉄道網が皆無なものだから、旅行者の移動は当然のようにカムリによってなされることになる。タクシー車両として使われるということは、同時にいくばくかのブランドイメージの低下も意味していて、だからこそトヨタは新型を導入した後も旧型カムリをタクシー車両として輸入し続けているとの由。

それで、カムリに乗りまくった印象だけど、ほんとに大陸的な、原低後のビッグマックのように風味に欠けるクルマであった。乗り心地はボディサイズから想像するよりは劣り、騒音はやや大きいが許容範囲、室内は広大。まあ、乗る前から分かっていたことだけど。数を売るクルマに必要なのはカスタマーの心理に訴えるcreditabilityな訳で、そういう意味では満点のクルマではあります。それよりも、カムリ・タクシーがはびこることによるカスタマーへのトヨタブランドへの親近感の寄与度はいかばかりであろうか。

今回の出張では、数え切れないぐらい多くのタクシードライバーとつかの間の時間を共にした。気さくに話しかけてくるヤツもいれば、じっと不機嫌そうにおし黙ったままのヤツもいたが、特に印象的だったのは、いちばん最後に乗った、バングラデシュから来たという顔にまだあどけなさの残る23歳の兄ちゃんだった。ドバイでタクシー稼業に就いて2年だという。日本人か?と向こうから話しかけてきて、僕が自動車メーカーの人間と分かると、僕の会社のクルマのことを一生懸命に褒めてくれた。自社のクルマの(マーケティングを含めた)至らないところを常に意識させられている身にとって、彼の優しい心根はとてもうれしかった。カムリに乗っているその瞬間、彼と僕は確かに心が通い合った、と思うのだ。
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異国にて

2007年01月15日 06時12分44秒 | Weblog
いま、ドバイにてこの記事を書いている。日本との時差は5時間。ドバイではまだ夜中の1時である。

この出張に際して、僕にはひとつの考えがあった。旅の途中で、久保田早紀の「異邦人」を聴いてみようと思ったのだ。イスラム圏を旅するならばコレだ、と考えたのである。運よくMoraで普通に売っていたので即購入。首尾よく入手に成功した。

機上の人となり、雲の上の夕焼けを見ながら聴いてみた「異邦人」は、予想以上に心にしみた。今回の旅の思い出の曲になるかもしれない。
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カローラが気になって気になって②

2007年01月10日 22時47分24秒 | Weblog
ハッチバックというボディ形式のスタイル上のポイントは、そのほとんどがリアビューにあるとされている。そして、トヨタはハッチバックのデザインが上手いというのが、ごく最近までの隠れた定説であった。
ちょっと思い返すだけでも、83年の初代FFスターレット、86年/90年のタコⅡ兄弟のハッチの処理は、シロウト目にもとてもレベルの高い仕事に見えた。

初代カローラFXを見るのは久しぶりだ。僕が中学生ぐらいまでは、街中でもよく見かけていたものだが。
いま見ると、このクルマの、どこかにひっかかりを感じさせながらもあくまでこなれたデザインは、ある種の名人芸のような気すらしてくる。絶妙な長さのルーフとハッチの傾斜、ぴったり合った曲率を持ちながらボディに溶け込みきらずに存在を主張するテールレンズ、ボディに占めるグラスエリア比率、鉄ホイールの表情、どれもこれも憎いぐらい知性を感じさせる。ウルトラモダンなデザインだ。

日本ではホットハッチ的なコミュニケーションが採られ、4A-GEを積んだ「FX-GT」ばかりが目立ったけれど、このクルマのオシャレさは、写真のような素の状態ではじめて引き出されるのだろう。
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神との邂逅

2007年01月07日 00時20分04秒 | Weblog
今日は朝から冷たい雨が降っていたが、鎌倉の鶴岡八幡宮へ初詣に行った。

外気温3℃のなか、雨の高速道路を306は矢のように進んでいく。306の中は暖房が効いてぬくぬく快適である。頭寒足熱の状態で、出来の良いシートに体をまかせながらも精神は冴えている。いわゆる「ドライビング・ハイ」というやつだ。 それは、ドライビングの神が降りてくる瞬間だ。

都内に戻ったのは19時半ごろ。その頃には雨も止んでいた。
この間、心ない者によってドアに深い傷を付けられてしまった306だが、鎌倉往復の156kmを快調に走りぬいた。駐車場に残した306を見やりながら、こんな充実したドライブはなかなかできないな、と思った。
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カローラが気になって気になって①

2007年01月06日 00時17分54秒 | Weblog
埼玉県某所で見かけた、E90系カローラセダンである。グレードは「1.5XE」で、世界市民のクルマであるカローラらしさがよく出ている機種である。SE-Limitedでは日本の小市民くささが前面に出てしまうように思う。
このクルマは塗装の艶も褪せて、ボディもところどころ凹んでいた。持ち主が、このクルマに過剰な愛情を寄せておらず、日々の必需品として淡々と使っているさまがうかがえた。こんな使われ方こそ、カローラの本分であるといいたい。カローラ(というか、トヨタ車)の役割を完璧にまっとうしている。

ひるがえって、いまのカローラアクシオのことを考えた。ボディはかつてのコロナサイズにまで膨れてしまい、それにつられて車両価格まではね上がった。「脱・大衆車」なんてコピーを声高に叫ばなくとも、もう誰もこのクルマに親近感なんて抱きやしない。こんなクルマをカローラと呼べるのだろうか?

だから「アクシオ」なんだとトヨタは言うかもしれない。だけど、クルマのマーケティングには「分相応感」も必要なことを、トヨタは忘れてしまったのだろうか。カローラのような、地方の年配ユーザーに支えられているクルマに、ある面で従来のカローラを否定するような価値観を提示しても、トヨタの思惑通りにアピールできるとは思えない。
今のトヨタのラインナップで、大衆の気取らない良き友人であるカローラの代わりを見つけるのは困難である。いまひとつ気合が感じられないベルタ、欧州メイン色が濃いヴィッツ。どれもかつてのカローラの役割を果たすには違和感が否めない。日本におけるカローラの現状を放置しているトヨタを見るにつけ、多くの日本メーカー同様、トヨタもホームマーケットである日本市場を切り棄てているような気がしてしまうのである。
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卑劣な手段には屈しない

2007年01月05日 19時32分38秒 | Weblog
2007年の1本目の記事に、こんなことを書かなければならないとは考えもしなかったけれど。

1月2日の朝に、僕の306の右前後ドアに意図的な深い傷をつけた人を、僕は許さない。そんな卑劣なことを正月からやってのけた彼(彼女)の人間性を、僕は軽蔑するものである。
僕は彼の行為を受けて、2007年を正義を貫きながら生きることを逆に決意した。だから、僕が彼に言いたいことは、「こんなことで僕がガッカリすると思ったら大間違いだ、僕は君のような下らない行為をなす人間のことを気にしている暇はない」ということだ。おあいにくさま。
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