牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

奥田歯科医院へ

2016-09-27 07:52:49 | Weblog
今日は、大阪市西区阿波座の奥田歯科へ。先週の火曜日、台風接近中の大雨の中に、地下鉄四ツ橋駅から往復。
先月訪ねてくれた卒業生伝道師が予約も入れてくれました。パートで働いていたが腰痛になり、その治療で奥田歯科を訪ね、BCC療法と直観力で直す名医です。
詳しくは岡田歯科医院ホームページ参考。
前回はカウンセリングで、今日から初診料5万円、治療費5000円。保険は聞かないが、すぐ直れば幸い。もう癒されているが、杖なしでも歩けるようになる日が近い。
10時から診療。各務ヶ原から小山大三牧師を接待し、タクシーで生駒駅から難波へ、四ツ橋まで。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。


ありがとう

2016-09-26 20:10:30 | Weblog
恵みの朝来て 希望輝き

主イエスの十字架 救いの恵み

のち生かされて 今日も平安

奇跡の幸い ありがとう感謝!


主イエスは復活 世の終わりまで

共におられて 祈りに答え

助けと守りで 支え導く

御国に着くまで ありがとう感謝!


聖霊注がれ 恵みと愛は

豊かに満たされ 福音語れば

人々救われ 神の子となり

ハレルヤアーメン 天国の日々

アーメン







朝の目覚めと共に、恵みと愛は豊かに注がれ、秋の日はつるべ落とし。感謝の夜です。。

人生には二通りの生き方しかないと、アルベルト・アインシュタインは述べている。

ひとつは、奇跡はない。何も起こらないと思って生きる。

もうひとつは、あらゆるものが奇蹟だと思って生きる。

主の恵みは朝ごとに新しい。

1999年左脳内出血、2012年右脳内出血と、小脳内梗塞になり、生かされて活きています。それだけで奇跡の幸いです。主を待ち望む者は、新しい力を受ける。ただ恵みに感謝する朝ごと、日ごと。いつもより体調も良い夜です。おやすみなさい。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。








男の中の男らしく

2016-09-26 20:02:05 | Weblog
マルコの福音書14:50-52すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。
ゲッセマネの園の祈りの真夜中、イスカリオテ・ユダの手引で、イエス・キリストは捕らえられ、弟子たちはみな逃げてしまいました。
一人の青年は、捕らえられそうになると、亜麻布を脱ぎ捨て、素っ裸で逃げ出しました。この青年とは、マルコの福音書を書いたマルコです。
マルコの意味はハンマーという意味があり、男の中の男になって欲しい願いで名付けられました。母はマリヤで、その裕福な家の一人息子だったようです。
次にマルコが登場するのは、初代教会最初の宣教旅行の時です。何と旅の途中、エルサレムの母の家に逃げ帰りました
使徒の働き13:13 パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。
第二回目の宣教旅行の時、パウロはマルコを連れ行かず。叔父のバルナバが彼を伴いました。
使徒の働き15:36-39 幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」
ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。
バルナバ=慰めの子=に伴われたマルコは、ペテロの働きにも行動をともにし、マルコの福音書は、ペテロの福音書とも呼ばれます。ペテロも、私の子マルコもよろしくと言っています(5:13)
そして、何とパウロもローマの獄中からの最後の手紙で、マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです(4:11)と、テモテに書き送っています。
何という大きな変化でしょうか。マルコのユダヤ名は、ヨハネです。ヨハネの意味は主は恵み深い!その名の通り、大きな恵みで変えられ、役に立たない途中で逃げ出したような男が、ハンマーのような男に変えられました。
人生の素晴らしさは、どんなマイナスも変えられて耀くようになることです。
マルコの福音書を開きながら、マルコにも思いを寄せています。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。



前向きにまっすぐ

2016-09-26 06:48:59 | Weblog
:目標があれば、前向きに真っ直ぐに

ピリピ人への手紙3:12-14 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

志をはたして 
いつの日にか帰らん
山は青きふるさと 
水はきよき故郷

牧師になる道を目指して、故郷種子島を離れたのは1957年。
生駒聖書学院での最初の冬。
目が覚め外へ出たら。真っ白な雪が芝生の校庭いっぱい積もっている。
雪が大好きで、種子島から屋久島の雪を見て、雪よりも白い心を、イエス・キリストの十字架をアーメンと信じ、洗礼を受けクリスチャンなった。
本物の雪を初めて見た。外へ飛び出し、真っ白な雪の上を歩いてみた。自分では真っ直ぐ歩いたのに、振り返ると真っ直ぐでない。
今度は大きな松の木を目当てに歩いた。振り返ると足跡が真っ直ぐ続いている。ピリピ人の手紙のことばば響く。
あの雪の日から、今日も目当てを目ざして、天国への道を、多くの人の救いと幸せだけを願いながらの日々です。
天国から追い返された牧師の冊子も再版増刷。50ページの小冊子です。お読みいただければ、贈送できます。elimyoshi@kcn.jpまでご連絡ください。

ありがとうございます。きょうもまた天国の一日です。感謝します。



目を覚まして気を付けよ

2016-09-25 18:45:46 | Weblog
聖書の一言;マルコの福音書13:37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」
イエス・キリストのことばは、真理のことばです。マルコの福音書13章で、世の終わりの前兆につい教えました。マタイの福音書24書でも。
自分がキリストだと名乗る者が大勢現れ多くの人を惑わす。
戦争と戦争の噂を聞く。
民族は民族に、国は国に敵対する。
方々に地震がある
飢饉もある
苦難の日が来る。
福音が全世界に宣教される。

どうしたら良いのか。
人に惑わされないように気をつけなさい。
あわててはいけません。
気をつけていなさい。
その時、あなたがたに、そらキリストがここにいるとか、ほら、あそこにいると言うものがあっても、信じてはいけません。
これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
気をつけなさい。目を覚まし、注意していなさい。

兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。


きれいに生きる

2016-09-25 18:26:20 | Weblog
詩篇103:10ー13 私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
罪、咎、そむき、いま天使のような清い思いを持ったかと思うと、汚れた思いに支配されたり、妬み憎しみで恨んだり、人の心と考えは、千変万化します。
罪の性質があるから、どんなにもがいても、自分で自分に、正しいことを行わせることができない。良いことをしたいと思ってもできず、悪いことをしないよう努めても、どうしてもやめられません。正しいことをしたいと思っているのに、どうしても悪いことをしてしまう、これが人生の現実であるように思えます。
ああ、私は何とみじめで哀れな人間でしょう。いったいだれが、このひどい低劣な状態から解放してくれるでしょう。
その罪から、愛の神様が、イエス・キリストの十字架により救い解放し、神の子としてくださいさいました。
御子イエスの血により日々洗われ、今日の聖書の言のように、罪から遠く離された聖なる新しい人生を、感謝しつつ平安で幸せに!!
ありがとうございます。今日もまた天国の聖なる一日です。感謝します。


七転び八起

2016-09-25 05:57:39 | Weblog
倒れても起き上がり続ける幸い=七転び八起き




ミカ書7:7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。

7:8 私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。




ミカの時代の特徴

ミカ=だれが主のようであろうか。BC700年代で、アモスの後、ホセアの後期、イザヤと同時代の預言者




国際的には外国の圧迫、北イスラエル国は、アッシリアに滅ぼされ、強大なバビロニア帝国が世界の覇者となり、ユダ王国にも滅亡が迫っていた。

政治的、社会的、倫理的、宗教的堕落に対する神の刑罰。神のことばに聞き従わない神の民に、神のさばきが近づいていることを告げる預言者アモス。

アモス書を読むと、現代日本の姿に似ている。聖書を読んで見よう。みよう。




*貪欲な金持ちの罪と罰

*横暴な為政者、悪い預言者、貪欲な祭司

*家庭の人間関係と家庭の崩壊

7:5 友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。

7:6 息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。




アドナイシャマ!




1.祈りの確信=主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。

2.一寸先は光=私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。

3.確実な勝利の人生の約束=7:9 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。

7:10 それで、私に向かい、「あなたの神、主は、どこにいるのか。」と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる。




結論

聖書の約束をしっかり意識に刻もう。

みことばを告白し続けよう。

聖書通りに胸を張って生きよう。


許しは、人+十字架+言

2016-09-24 18:21:14 | Weblog
詩篇103:1ー5私は心から神様をたたえます。今までいただいた祝福を、決して忘れません。
神様は私の罪をみな赦し、病気を治してくださいます。地獄行きの身を身請けし、恵みと優しい思いやりで包んでくださいます。私の一生は祝福でおおわれ、鷲のように若返ります。


16歳の高校生まで無神論で、ものも言わず、歌も歌わず、運動もせずの少年時代でした。
高校生の時、西之表キリスト教会=種子島で、イエス・キリストの十字架の救いをアーメンと信じ 、クリスチャンになったその日から、愛なる神様をたたえる日々になりもうすぐ58年。


朝ごとに恵みの奇跡です。十字架の救いで罪とがを赦され消され、病=左右脳内出血と小脳内梗塞、言語の乱れもいやされ、地獄行きから永遠のいのちを与えられ天国行きの保証で平安。幸せで豊かな祝福でおおわれ、歩いても疲れない、鷲のようにのぼる若々しさも与えられています。
イエス・キリストの十字架で、すべてを赦されたので、許しの人生を歩める恵みの日々です。うらみ、つらみもなく、愛と許しの幸せ人生を、今日から体験なさってください。


許=人+十字架+言=人が十字架(父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているか分からないのですから)に赦されるとき、自分たちもまた許せないと思っているとき=どんな恨みつらみ、憎しみがあっても、許しますと言うとき、本当の平安と幸せを体験できるのです。十字架で赦された大きな喜びは、私たちもまた相手を許しますと宣言するとき、大波のような喜びと幸せに包まれます。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日。感謝します。

思い違い

2016-09-24 18:18:40 | Weblog
大変な思い違いをしていると、イエス・キリストは答えました。死後どうなるか、人類の歴史始まって以来の大疑問です。
また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』
さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。聖書を読み、聖書通りです。誠にそのとおりアーメンと、受け止め信じているだけです。不思議に聖霊の知恵と知識も与えられ、現実の日々を、神のなさることはみなその時にかなって美しい。ありがとうございます。感謝します。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。イエス・キリストは、昨日も、今日も。いつまでも同じ生きているお方です。神がともにいる人生は、生きている今も、死んだ後も天国の平安と幸せな歩みです。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

出会いの時

2016-09-23 20:04:23 | Weblog
詩篇102:17窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。
神様は…苦闘している人の祈りを聞かれます。その祈りが耳に入らないほど、忙しくはしておられません。
歴史は、その事の記録で満ちています。聖書の記録だけでなく、キリスト教会2000年の歴史は、恵みにあふれています。
森祐理さんが、ラジオ放送で美しい歌声とともに、イエス様の十字架の救いを伝えたい願いがあり、希望の声番組で話しました。大手の広告代理店に打診し、無理ですと断られました。けれども彼女の願いと祈りは、愛なる神に答えられ、ラジオ関西で、毎週金曜日午後9時ー9時30分間の番組が始まり継続しています。
昨年の9月、熊本空港で飛行機の中で出会い、大阪空港を歩きながらの語らいで。久しぶりに、関西・国家朝餐祈祷会のロビーで出会い語らいの時。20年前の阪神大震災震で召された長男に会える最高の日と、
天国の喜びで召された臨終の父親のことを語り、美しく賛美する姿は天使のように輝いていました。
ことばが語りづらいなら、いつでもABCラジオ放送を手伝いますと応援します。しばらくの語らいの時でした。
窮した者の祈りを顧み、その祈りをないがしろにされない大きな愛と、全能のみわざを感謝します。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日。感謝します