牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

全知、全能、遍在、永遠不変

2018-09-18 07:28:59 | Weblog
神を定義する方法は,神の属性を見ると、その偉大さが良く分かると思います。
神は全能=「それは人には出来ないことですが、神にはどなことでもできます」(マタイ19:26)神は全能者。神には不可能なことはない。聖書は神の全能の力の記録です。
神は全知=「あなたは,私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます」(詩篇139:2-3)
神は遍在=わたしは近くにいれば神なのか。遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることが出来ないのか。天にも地にも、わたしは満ちているではないか」-主のことば-(エレミヤ23:23-24)
神は永遠=山々が生まれる前から,地と世界を,あなたが生み出す前から、とこしえからとこしえまで、あなた神です」(詩篇90:2)
神は不変=「主であるわたしはかわることがない」(マラキ3:6)
主イエス・キリストは永遠不変=「イエス・キリストは,昨日も,今日も、とこしえに変わることがありません」(ヘブル13:8)

神は霊

2018-09-18 05:14:22 | Weblog
聖書は神の存在を証しています。聖書は、「初めに神が天と地を創造した」から始まります。神がいないかいるか、その存在を証明する必要がないのです。
「愚か者は心の中で神はいないと言っている」(詩篇14:1)
一般的にも、人間を超えた絶対者の存在を意識しています。
天地宇宙が何の原因もなく存在し始めるはずがなく、そこに絶対者である創造主があると考えています。
天地万物の驚くほどの計画性と運行を見るだけでも、広大無辺の設計者があると考えます。
人間の知性や道徳心が自然発生したとも考えられません。
神の本姓
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネの福音書4:24)
霊と言宇野は、神は肉体を持っていないのです。肉眼で神を見ることはできません。空気や心が見えないけれどもあるように、神は霊であって見ることは出来ませんが、イエス・キリストとして人間になりました。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネの福音書1:14)
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネの福音書1:18)。
神は霊ですが,人格を持っています。
神は天地の主である父です。天のお父様と呼びかけ入れる幸いです。主の祈りを覚えましょう。
神は唯一です。
「 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(テモテへの第一の手紙2:5)
「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない」(イザヤ45:18)
「主よ、私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ。あなたのもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。」
(エレミヤ16-19-20)
三位一体(さんみいったい)の神
聖書は唯一の神の存在を教えると同時に、父と子と聖霊の三つ人格的存在の神であることを教えている。
神が三位一体であることは、神秘的で理解を越えますが、神のことば通りに、アーメンと信じるのがクリスチャンです。
たとえると,水は液体=普通の水、固体=氷、気体=水蒸気の三つです。それはどれも水です。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神、みな同じ神様なのです。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」
アーメン。(コリント人への第二の手紙13:14)

喜び歌い

2018-09-18 05:11:00 | Weblog
詩篇90篇
神の人モーセの祈り
12-17
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。
どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。
あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。
あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。
私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。