牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

だれも閉じることのできない門

2012-06-06 09:27:19 | Weblog
 昨日はABCスタジオで、ラジオ放送希望の声7月分の録音でした。早いもので7月放送から40年目になります。

 名神高速道路で木曽川陸橋上を走行中、同乗の牧師が突然、義之君ラジオ放送をやらないか?と語りかけてきました。

 ABCラジオとのこと。費用は毎月5万円はかかる、聞いた途端「できへんわ!」と舌の上にありましたが、ことばにする前に「一ヶ月くらい祈ってからの返事でもいいよ」と言われました。

 できませんという言葉を口にしていたら、現在ラジオ牧師はしておりません。現実的には開拓教会当初で、教会に集まる献金が5万円くらいでした。その上に話べたで赤面恐怖症の名残もあり、できないと言ってもだれにも非難されない状況でした。

 しかし、「ああ、麗しいかな!良い知らせを告げる者の足は」という聖書のことばで、献身の道を歩み牧師になっているので、イエス様の救いをできるだけ多くの人に伝えたい情熱はありました。

 愛知県稲沢市の稲沢福音教会に到着し、夜の集会前に部屋で祈っていると、福音を多くの人に知らせるためにラジオ放送ができればとの思いが増して来ました。

 祈りつつ開いた聖書のことば、見よ!が目に飛び込んできました。

ヨハネの黙示録 3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。

 見よ!わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。

 思わずアーメン。ありがとうございます。誰も閉じることのできない門が開かれました!感謝します。と信じ告白していました。

 イエス様は、叩きなさい。そうすれば開かれます!と約束されました。積極的で意欲的な人々は、叩き続けて開かれた働きを続けています。素晴らしいことだと思います。

 しかし、消極的な現実主義に生きる者には、叩く気力もなく仕方がない、できないと言うままになる場合が多くあるように思います。

 でも黙示録の約束は、見よ!わたしは、あなたのまえに、だれも閉じることのできない門を開いて置いた。もうい開かれた門があるのです。アーメンと信じて、その場でABCラジオ放送での働きを宣言しました。そして今日まで39年継続し続けてくることができました。

 経済的な必要の毎月滞ることなく支払い、ラジオ放送聴取者を中心に大阪市浪速区に、エリムキリスト教会が誕生しました。

 今年の8月12日(日)には、聴取者大会を計画しています。神のことばは生きていて力があるので、アーメンと正面から信じ受け止め告白し実行していくとき、考えられないような想定外の奇跡を経験できるのです。

 ではどのような人が、だれもも閉じることのできない開かれた門の恵みを経験できるのでしょうか?

 聖書は三つのことを記しています。

 まず第一に、なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、とあります。いつも何かをしようとする時、力があるかないかを問われます。力がなけらばあなたには資格なしでカットされるのが世の常です。

 けれども少ししか力の無い者の前にも、誰も閉じることのできない門が大きく開かれている約束です。

 少ししか力がないと嘆くのではなくて、信仰の足を踏み出し実行する時、考えられないような奇跡が始まります。

 今朝歩いていたらチョウの片羽が動いていました。しゃがんで良く見ると小さい蟻一匹がその羽をひっぱていました。自分の身体の100倍もありそうなチョウの羽でした。驚きつつ見守りながら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらずとのことばを思いました。

 第二に、わたしのことばを守りとあります。聖書のことばは神の約束のことばです。聖霊のことばです。神のことばが語れれるとその通りに実現します。

詩篇1:2-3 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

 その人は何をしても、栄える・繁栄する・成功=成幸する約束です。聖書を毎日読みつつ心に響くことばを、アーメンと純粋に信じて告白し行動する時、その約束通りのことが起こるのに驚くことでしょう。

 第三に、わたしの名を否まなかったからである。私の名とは、イエス・キリスト様のお名前のことです。

 マタイの福音書 28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

ヨハネの福音書 14:13-14 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。


ピリピ人への手紙

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。

2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

 十字架の上にいのちを捨て、墓に葬られましたが、三日目に死を打ち破り復活されたイエス・キリストは、昨日もきょうもいつまでも変わらない救い主であり、主なる神なのです。

 その名を否まずアーメンと信じつづける時、想定外の恵み驚きます。

 その名によって祈り、その名によって考え告白し行動する時、すばらし聖霊の助けとともに、祝福が流れ続ける開かれた門は、天国に召される日まで大きく開かれ続けて行くのです。

  人の不可能は神の可能性です!神の恵みをしっかり受け止め、開かれた門の祝福を経験し続けたいものです。

 今日もまた天国の一日です!感謝します。