狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

大言海

2009-03-21 12:53:01 | 本・読書
           
まず辞書からの出発である。
大言海:大槻文彦 冨山房 昭和10年9月印刷・発行・初版。定価金6円50銭也。
期間限定特価金5円のシールが貼り付けてある。この辞書は索引を入れると5巻本で、索引を除く4巻はわが町にある古本店「H書房」で魂消るほどの安値で購い求めたものだ。ここの主人は古本屋としては若いオーナーだった。しょっちゅう出入りしていたから、奥さんのいたときなどはお茶をよばれたこともある。
「古本H書房」と書いた看板の〝古本〟の文字がバカでっかい。
あるときボクが「〝古書〟と書き代えたら?」といったことがある。
その時主人の詞、店内の割と広いスペースのあるコミック誌コーナーを指さして、
「これでは〝古書〟とは言えないでしょ。これがバカに出来ないのよ」と笑うのだった。(平成の現在はギャラリーを設けて、文庫本は、岩波と中公以外は扱はず、硬派本と稀覯本限定本のネット販売が主流で、コミック誌のコーナーはない。
 索引付きは神田のY書店で、高い買い物だったような気がする。
だから私は現在2組の「大言海」を所持している。欲しい方、本を大事にする方だったら4巻の方を譲ってあげても良い。月報が付いているかいないかで本の「価値」は違ってくると言うが、この月報にはいろいろの人がかいてあり、面白いものだ。

道草をくって、「大言海」彙報 第一号の一部を引用紹介する。
大言海並に本紙表題に用ゐた大言海の三字は唐代の名筆、柳公権字は誠□の、玄□塔碑中より集字したものであります。

陸軍軍楽隊出張演奏の初記録
          堀内 敬三
 明治九年九月二十八日、東京本郷金助町五十三番地に新築された大槻磐渓氏の邸で故大槻水翁の五十回追遠会が行はれ、陸軍軍楽隊の出張奏楽があった。
 大槻磐水翁は玄澤と称し奥州一関の藩医の家に生まれた。誕生は宝暦七年九月二十八日。家業をついで医術を修め、江戸に於いて蘭医杉田玄白・前野良澤に学び、また長崎に遊学して蘭学・西洋医学の蘊奥をきはめたので、仙台藩の侍医に挙げられ更に幕府から蘭書翻訳の命を受け、「蘭学階梯」「重訂解体新書」を初めとして多くの名著を残し、文政十年(即ち明治九年の五十年前)三月晦日に七十一歳で逝去した。
 その子の磐渓(清崇)氏は大儒として知られた碩学で、孫には文学者大槻如電先生と、「大言海」の大槻文彦博士とがある。
 この時の追遠会は午後三時先ず磐水翁の遺像の前に於いて祭典を行ひ、それがすんでから祝宴が催ほされ、宴半ばにしてロシアの宣教師ニコライ氏が立って日本語で祝辞を述べ、宴終って庭園内で陸軍軍楽隊の奏楽があり午後九時すぎに参会した。
(略)
三浦俊三郎氏著「本邦洋楽変遷史」の第82頁に陸軍軍楽隊沿革の一部として
『又一般庶民の奏楽依嘱に応ずるの規則を設けられた。而して同年(明治八年)十一月には初めて仙台の大規模の祝賀の宴席に於て奏楽した。之が洋楽を市井に開放したる最初の試みで現時の出張奏楽請求手続きに依る奏楽のイニシャチヴと云ふべきである。』と記してある。此の『仙台の大槻某』が爰んぞ知らん大槻磐渓・如電・文彦の三氏であったのだから驚いた。
 この会の記事は如電先生の編んだ「追遠会誌」の中に記してある。此の本は明治十年四月二十三日に出版された和綴六十二頁のもので四号活字で組み、書だの画だのは木版で入ってゐる。
 付録として此の会の事を叙した新聞記事が転載してあるが、朝野新聞の記事として
『…陸軍の楽隊二十有八名盛装し、前堂に環列して楽を奏する数曲(頃日士民の礼会に陸軍楽隊を貸与せらるる事を許すの令有り故に松本君陸軍省に乞ひ本日楽隊を大槻氏に送る蓋し官許を受け楽隊を私事に用ゐるの嚆矢なり)其音洋々賓主皆楽しめり…』とある。