気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の3 「遊郭と医院と淀屋」

2016年08月21日 | 倉吉巡礼記

 倉吉新地にあたる越殿町の街路は、一ヵ所で長方形に回っていて、かつて遊郭街であったことを示しています。ですが、軒を並べた妓楼の大部分は廃絶して民家に転じ、いまでは普通の住宅街になっています。


 2016年8月現在、旧位置に建物をとどめているのは2棟となっています。20年前に訪ねた時は3棟でしたが、そのうちの一番大きな建物が取り壊されて駐車場および更地になっています。
 上図は、長方形の街路の東隅に位置する建物です。20年前に見たそのままの姿だと思うので、あれからずっと手入れや修理がなされないままに今に至っているようです。遊郭が栄えていた頃の状態や雰囲気を色濃くとどめているとみて良いでしょう。
 表札もかかっておらず、空き家か廃屋のような未使用感がただよっていました。このままいくと、いずれは取り壊されてしまうのかもしれません。


 裏口の並ぶさまにも、規模の大きさが見てとれます。当時の建築としては上級の、しっかりした部類に属しており、柱や板に良質の材がふんだんに使われているのが分かります。


 もう1棟は、長方形の街路の北側の真ん中あたりに位置しています。こちらは建物自体を建て替えているような感じがあり、とくに二階階部分はサッシが全面に施されて全体的にリフォームされています。表札があるので、現在は民家となっているようです。隅部を斜めに構えて玄関口にしている点は、辻に建つ古い町屋建築と共通する要素です。


 そして、長方形の街路の西側には医院らしき雰囲気の建物があります。なんでそれが分かるかというと、私の祖父が父方も母方も医者で、その構えた医院が似たような雰囲気の建物であったからです。


 特に、上図の建物が、いかにも昭和の古い街中の医院のそれらしい雰囲気をただよわせています。


 玄関口の横には、上図のように「健康保険醫」と記された青い表札がありました。「医」が旧字体の「醫」であるのが時代を感じさせます。「険」も旧字体のようです。昭和30年代に当用漢字が制定される以前のものだと分かります。
 そして、この表札は、健康保険制度が昭和初期から導入されていたことを示しています。ただ、現在のように強制加入ではなく任意加入であったため、一般にはほとんど普及しなかったそうです。しかし、遊郭では病気も頻繁に発生するため、遊郭の区域内に医院があるのはむしろ一般的であったようです。そして遊郭で働く女性たちは殆どが健康保険に加入していたそうです。
 いずれにせよ、街中の埋もれた歴史の一コマを示してくれる、興味深い表札でした。


 医院の斜め向かいに広がる駐車場および更地一帯が、かつて存在したもう一棟の遊郭建築の跡地です。


 この遊郭跡の脇の道を進んで信号交差点を渡った向こうが、越中町の街区です。八橋往還とも接する道なので、遊郭エリアへの道が繋がっているのはむしろ当然です。街道筋の歓楽街として賑わった様子がなんとなくしのばれます。


 町並みを東へ進み、倉吉淀屋に着きました。


 まだ公開時間帯まで5分ありましたので、外観を眺めて過ごしました。時間になると玄関口の撥戸が引き上げられて上に固定され、公開が始まりました。この日の一番乗りの見学客となりました。


 私のすぐ後に続いて入ってきた、スーツケースやカバンを持った学生らしき七人のグループが、建物の中を素通りして裏庭へまっすぐ出ていきました。全員が「ひなビタ」巡礼の倉野川市民であるようで、裏庭に立つ和泉一舞のパネルに歓声をあげ、スマホを向けて撮影したりしていました。


 その横から、施設のガイドを務めるおばさんが、「この娘には、これからもここで働いてもらうんですから、大事にしてゆきますよ」といった意味の事を話していました。
 このパネルはどうやら倉吉淀屋にほぼ固定して置かれるもののようです。そういえば、打吹まつりの期間中であるにもかかわらず、従来のパネルの大半が、それまでの設置位置から動いていないようなのでした。 (続く)

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