港湾エリアから東町商店街に戻る途中で、「丸五水産」の近くの交差点の風景を撮影しました。その際に町内巡回バス「海遊号」が通り過ぎていきました。シャッターを切った瞬間にバスの前部が少し見えていました。
「丸五水産」の店主さんに朝の挨拶をして、そのまま道を進みました。「小野瀬水産」の横を過ぎる辺りから道が蛇行しているのは、かつての街道筋の名残りとみられます。
「ウスヤ精肉店」の向かいの立派な古民家を、別角度から捉えました。無住のように見えましたが、二階の横の雨戸が一枚開けられてシーツ状のものを窓枠から垂らして干してありました。やはり住人が居られるようです。
酒の「さかげん」の前を通りました。お店の商用車らしい、プラウダのマークをつけた軽自動車が停まっていました。プラウダマークをつけた車は他にもあるということですが、見た事はありません。
民宿「忠愛丸」のある、一の鳥居前の信号交差点に出ました。西には神社境内地へ連絡する赤い橋も見えました。
「大洗ホテル」の前から大洗磯前神社へ斜めに登る車道です。劇中の親善試合時の大洗チームの転進ルートとして聖地の一つに数えられますが、いまではその景色を撮る巡礼ファンも少なくなったと聞いています。
先ほどから海岸線の波の音がいつもより響いてくるので、まだ海は荒れているのかな、と思いました。二の鳥居の向かいの砂浜への道を降りて、神磯の鳥居の辺りを見ました。海面のうねりが大きくて岩場の周囲は白く泡立っていました。
次の瞬間に、ドバーッと大波が神磯の岩場にぶつかって高く水柱に転じて潮飛沫をまき散らしました。初めて見たので思わず「おお」と声を上げてしまいました。荒ぶる海原の景色は、古代神話の世界観では「海神の天地創造の働き」をも意味したとされています。これが中世以降になると水運や航海上の水神信仰の領域において「海神の怒り」とみなされ、波濤の激しい日には船を出さないこと、というようなルールが出来たと言う説があります。
周辺の海岸を見渡してみました。いつもより岩場が多く見えるのは、干潮時だからでしょうか。そこへ荒波が次々と寄せて、あちこちで波濤が岩に飛び散ってゆくのでした。迫力があるので、しばらく眺めていました。
眺めていて、この海岸線を含めての総称が「鹿島灘」であって「灘」の字があてられる点に気付きました。灘は、さんずいに難と書くので、古くから航海が困難な場所を指します。波が荒くて潮流が速い所を指し、黒潮が流れる太平洋側に多く分布します。いままで眺めていた鹿島灘の長閑な海原の景色のほうが、むしろ珍しいわけです。
後で神社の方に話をうかがい、鹿島灘は荒れている時の方が多い、さらに太平洋岸においては鹿島灘が、「灘」の字がつく海岸線の北限だ、ということを教えていただきました。
ふたたび神磯の岩場に視点を戻して、鳥居のあたりを見ました。
また大きな波がドンと寄せて岩に砕けてはじけてゆきました。鳥居周辺に次々に飛び散る波濤の姿には、なにか神々しい雰囲気すら感じられ、襟を正して礼拝せずにはいられませんでした。この海岸線において最も大きく波が飛び散って水柱も高く上がるところなので、それを海神の依代とみなしても不思議はありません。それで鳥居がこの場所に立てられたのだろう、と思い至りました。
気付くと、鹿島灘の波濤を30分余りも眺めていました。本来の荒ぶる海の光景をもう少し見ていたかったのですが、神社に向かうことにして二の鳥居を見上げました。 (続く)