「妖怪が二つ、子育ての現場に現れている―『子人(ことな)』と『大供(おども)』という妖怪が…」。「この妖怪たちは、今後も日本ではどんどん拡散、拡大再生産されていく可能性が大です・・・」と、先週お話ししました。そして、
「経験上、家庭の理解と協力があれば、6年生までに子どもたちの一定の成長は成就します。逆に、理解がない場合、いつまでも治りません・・・」。
おとうさん、おかあさん、いろいろ大変だろうと思いますが、いちばんたいせつなこと、忘れないでください。子どもはかけがえがありません。人任せでは、絶対後悔をします。実例を挙げます。「子育て」を考えてみましょう。
「渓流滑り台」消滅の理由
7~8年前まで、夏になると赤目キャンプ場の谷間(たにあい)は、子どもたちの興声(?!・造語・きょうせい)がこだましていました(写真)。コンクリートの「渓流滑り台」で、水の冷たさとスリル、高揚感で大はしゃぎです。何度も何度も清流の細流から滑り落ちて、夏らしい夏を満喫していました。
団の子どもたちの遊ぶようすを監視する一方で、ぼくにはとても気になることが二つありました。
ひとつめは、保護者の状況判断の甘さ・危機管理能力の欠如です。
「すぐ上のキャンプ場に親子連れで来ているのに、危険がいっぱいの岩場だらけの渓流で子どもたちだけで遊ばせている」という感覚。いつ事故が起きてもおかしくないところ。近くにいても姿が見えないところでは子どもたちを守ることはできません。
もうひとつ。状況に応じたセルフコントロールがまったく教えられていないこと。
その滑り台で、数人でふざけて頭から滑り落ちたり、勢いをつけるために後ろから押したりする子どもがたくさんいました。町内会かPTAのグループらしく、保護者らしい人がいたのですが、そういう遊び方を見ても何も注意しません。
「状況判断できず危険度を察知できない」彼らの行動を見て、他の子どもが巻き込まれ、大けがをさせる恐れもあるので、ぼくは厳しく注意していました。すると、「おっちゃんがうるさいから、やめや・・・」と母親らしい女性の信じられない「ひと言」。「開いた口がふさがらない」のではなく、さらに広がりました。
「叱られるからやめる」という感覚。これは、「叱られなければ、続けてもいい」。つまり、なにもわかっていない、ということです。まさに子どもの感覚そのままで大きくなった大供・おどもです。残念だが、この楽しい遊び場も、おそらくすぐ使えなくなるだろうと、そのとき予測しました。
案の定、数年後に滑り台は金網で厳重におおわれ、さらに数年後、完全に「消滅」しました。噂では、やはり、小さからぬ『事故』が続いたようです。「目玉」がなくなったキャンプ場も今大きな痛手でしょう。
大供(おども)や子人(ことな)が生まれる一因
こうした大供(おども)や子人(ことな)が、団で指導し始めた20年の間に、恐ろしくもどんどん増えているのが現状です。保護者の考え方の基準があやふやで、正確な状況判断や安全管理ができなくなっている・・・ということです。
「おっちゃんに言われるから!」ではありません。父親や母親になれば、子どものどんな行動に際しても、日頃の注意を怠らず、様子を見てきちんと状況判断でき、適切に行動できる(そしてさせられる)力が必要とされます。子どもを守るという意識が基本です。親は「成人するまでは、どんな意味からも、自らが子どもの安全を担保し、注意や指導することができて」の親です。
例にあげたような遊具や岩場で走ったり、突き飛ばすことはもちろん、水苔で足を滑らせるだけでも、打ち所が悪ければ、生命に関わります。小さいころからよく知っている人なら誰でも、そういう姿を見れば、まるで「槍衾の上をサンダルで飛び回っているのと同じだなあ」とでもいうはずです。「骨折したり打撲程度より、生命に危険が及ぶ確率の方が高い」と言っても、決して言い過ぎではありません。そんな「シチュエーションで危険度がまったく予想できない」保護者がたくさん現れたのです。「今何をしなければならないか」、「何をしてはいけないか」。状況判断能力の欠如です。
思い返してください。これは、二十年前くらいから大卒の新入社員に見られた「指示待ち」の姿勢に共通する性行です。「指示待ち」、つまり、「自らで判断できない」。そういう保護者が増えてきているようです。
おそらく「渓流遊び」の経験等もほとんどなかったのでしょう。運動会や遠足・合宿でも「『(勝手に決めつけ)危ないこと』はすべて禁止」、また、馬鹿なヤンキーがナイフを持ち出せば、すぐ大騒ぎになって「刃物禁止・ナイフ禁止!」・「持ってはいけませんの一点張り」というような環境で育ったはずです。バカなヤンキーはいつの時代もいますし、そういう事件だけを取り上げて、判断の基準にする必要はありません。そういう輩がどこにでもいるから、「普通の人」にしっかり教育する必要があるのです。
本来なら、持たせて、使わせて、「ほらこんなに良く切れるんだ」、「使いたければ、常に注意をしておかなければ、けがをするよ」、「だけど便利な道具だから、時と場所をよくわきまえて使わなくてはね」と指導することが「教育」です。「それらを踏まえて」セルフコントロールを身につけ、危険を察知する感覚を身につけ成長することが「一人前」になるということです。そういう訓練を経ないまま大人になってしまった…。
どんなことがあるかもわからない「人生行路」なのに、「危険度の察知と危険なものを手にしたときのセルフコントロールさえ教えない」のが現在の教育です。そうではないでしょうか。「ナイフの危なさは信頼している(!)」のに、その
「ナイフを扱う「理性」や『知性』を育てる教育を信頼していない」のです。子どもの「健やかな」成長は「さておき」、公から私まで、「『危ないこと』は知らん振りをする」、「誰かがやってくれるのを待つ」、「臭くなる前にふたをする」、責任逃れのオンパレードになっていませんか?
そういう指導も経ず、ナイフ・刃物や武器の怖さを知らない子どもが、「痛みがわからない架空の武器や刃物」で「心身ともに、自らは痛みを感じないまま、無差別に攻撃する」ゲームで、相手を倒す快感を感じながら育っていく怖さ。世の賢人や、心ある教育関係者、知識人は、なぜ、その恐ろしさをもっと訴えていかないのでしょう。
小さいころから自律・セルフコントロールを教え、一方で危険察知、自分を守る術・・・を教えないと、すべての道具はいつでも凶器に変身するし、なお、それを防ぎうる心や身体の「構え」さえも養うことはできません。
ところが、今はどうか。何が危険か、どこが危ないかなどを「危ない方からのみ」考察し、組織の責任逃れを模索する。これが社会や多くの学校・教育機関・指導法の現状です。
こうして一見安全を堅固に守られているような環境で育てられてしまった、危険度がわからず危険察知ができない「大供(おども)」が、「おっちゃんが言うたから・・・」と宣うとき、頭の中には、「救急車もすぐ来ない山中で子どもが頭から血を流して、通じない携帯電話をもち右往左往している自らの姿」など「かけらもない」はずです。
赤目では、子どもたちがはじける面白さを味わうシチュエーションが、また一つ姿を消しました。つまり、自らの子どもたちにその面白さとセルフコントロールを指導できるきっかけも一つ姿を消していきました。危険度を知らず、危険を伝えていけない「大供の再生産」は、また拡散していきます。
さて、参考のために、これらを克服するためのヒントを紹介しておきます。
子育てのヒント
団では、教室や課外学習で、ナイフやのこぎり・植木ばさみを使わせ、作業をします。使ったナイフや包丁は砥石で自ら研ぎます。切れない方が、より危ないことが実感できるからです。木登りをし、屋根に登って植木を『散髪』します。立体授業です。
紹介のように、団の立体授業(課外学習)のロケーションポイントは、主に二カ所です。飛鳥と赤目。どちらも交通の便が良く、大阪から短時間で移動できるので、団開設以来約二十年、それぞれ毎年宿泊を含め4~5回訪れ、遊びと学習を満喫しています。
以前にも総合学習や社会学習の現状の展開の無意味さ?「一方的な知識の伝授」や「買い食いで通りを歩くだけの時間つぶし」のくりかえし? についてふれましたが、飛鳥も赤目も、あるいはどんな場所でも、何回も足を運ぶことによって環境を知悉し、『危険度』も含めて、子どもたちが積極的に「自然と交流を図れる」展開が始まります。
自然環境だけに限りません。土地の歴史や文化・遺跡など、子どもたちの関心をひき、興味が生まれるのは、「回数を重ねてこそ」です。自分がその場所に存在し、馴染みが生まれてこそ(「環覚」の成立)です。「覚える」「出会う」「見つける」「思い出す」です。「おとなへの一歩」や「学ぶおもしろさ」のきっかけはそこから生まれます。
教科書でならっている「通り一遍の学習」に、専門家が多少の色づけと説明でお茶を濁しても、教科書と教室の指導から一歩も抜け出すことはできません。団では、同じ場所を訪れても、毎年新しい出会いや発見があります。子どもたちには宿舎の方や世話になる人・出会う人が「隣のおばちゃん」や「向かいのおっちゃん」になります。子どもたちは向かいのおっちゃんやおばちゃんの元で、遊びながら、さまざまな出会いと発見を重ねます。学習とともに、身のこなしや体と心のバランスを覚え成長していきます。
社会学習や総合学習、「大供(おども)」に終わらず、「子どもが大人として成長する教育」とは、そういうものだと、ぼくは思います。来週は「状況判断」の例を、別角度から考えてみます。