『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

「学体力」が過保護を超克する⑤

2013年06月15日 | 学ぶ

「ものがあること」は幸せなのか?
 貧富の二極化がはじまっているといわれています。そんな傾向もたしかにあります。

 

でも、子どもたちが「食べるもの」や「着るもの」にも事欠く、つまり「着るものがない」、「食べるものがない」という家庭が、どんどんふえているというわけではありません。「小学校に弁当さえもって来られず、こっそり水を飲んでいた」というような話も今は聞きません。ものは有り余っています。
 「ものがあるから、今の子どもたちがうらやましい」。必需品さえ手に入れることがむずかしかった『昔のこども』たちからよく聞くことばです。

 しかし、はたしてそうでしょうか。「もの」があれば幸せでしょうか? 
 ブランド品に群がる人がみんな、それによって「最終的な幸せを得た」という話を聞いた人はいるでしょうか。憧れていたブランド品を買っても、しばらくすると次の新しい物、他人が持っているものが欲しくなったのではないでしょうか。
 「品物を手に入れることでは『精神の飢餓状態』を克服することはできないのではないか。所詮「代用品」ではないのか。それでは心を満たすことができないので「また、新しいもの・次のものを手に入れるが、それでも一時の満足感でしかない・・・」という堂々巡りに終わるのではないか。心からの満足感や幸せは手に入らないのではないか。

 ぼくは塾を始めてから、「ほんとうの幸福感」とは「昨日(前)よりわかるようになった・うまくなった・できるようになった」等という、「自ら自身のスキルが向上した・力がついた・能力が上がったという確認で得られる達成感・充実感」なのだ。さらに「そうした手応えによって可能になる、自らのこれからの可能性のイメージや描くことができる夢ではないか」と考えるようになりました
 以前、「赤ん坊の笑顔」の意味について考えてみました(ブログ「天使のほほえみが意味するもの」二〇一二年六月九日アップ分から引用します)。

 ・・・僕が特に注目したいのは赤ちゃんのあの、天使のほほえみです。見えなくなったお母さんの姿を見つけたとき、ハイハイが上手になって遠くまで行き着けたとき、また何度も失敗した後,やっとつかまり立ちできたとき・・・。
 もちろん一歩歩けたときの嬉しそうな笑顔。あの笑顔も、「生きるためのしくみ」から生まれるものだと考えられないでしょうか。
 ひとりでは生きていけない赤ん坊にとって、見えなくなったお母さんや庇護するものの存在を確認できるかどうかは直接生死に関わることです。庇護してくれるものがいるという安心感は何物にも代え難い大きな喜びでしょう。
 

また、はじめてつかまり立ちや歩き出したときは、自分の行動範囲がそれだけ拡大したとき・行動できるという自信が生まれたときです。つまり生きていける可能性が大きく広がったときです。生きるために備わっている心と身体のしくみに手応えや自信ができたときの快感。あの天使のほほえみのうれしさの秘密はそこにあるのではないか。
 生きるためのしくみに手応えが得られたとき、あるいはその有効性が確かめられたとき、またそのための行動を可能にするような手がかりが得られたとき。生きていけるという自信が生まれたときほど嬉しいことはないはずです・・・。

 つまり、何よりも「生命を維持・存続できる手だてや方法、またそれを手に入れることができるという感覚や確信によってこそ、この上ない幸福感が得られるのではないか」と考えるのです。

    「この快(報酬系―南淵・注)と不快(罰系―同・注)に関する脳の機能は、いわゆる高等生物 の場合、別の意味で自己複製に欠かせない機能となっています。なぜなら、有益な餌、有毒な 餌というものは、例外はあるものの、有益なものはおいしく、有害なものはまずく感じるように なっています。また、この餌場では有益な食料にありつけるということを快感という形で脳が感じ、別の場所では得られないということを不快という形で経験することは、極めて合目的な内容になっています。このように考えると、快と不快が、個体に維持や種の維持に大きな役割を果たしてきたことがうなずけると思います。そういう意味では、この脳の構造も進化の過程で研ぎすまされ、人間でもラットでも、機能や組織という基本が同じものとして保持されてきているのです。」        (「自己治癒力を高める」 川村則行著 講談社現代新書・一一〇ページ・文責・傍線は南淵)

 引用のように、脳には快感神経(報酬系)があり、主に生命維持を司っている脳幹部と脳のさまざまな部位と結ばれているようです。例外はあるものの、「生きるために有益なものは快感という感じで捉えるようなしくみ」ができあがっているということです。そうであれば、赤ん坊のしぐさについても、「生きる可能性が広がる」方向が、「快―大きな喜び」として進化してきたと考える方が自然ではないでしょうか。

 ぼくたちの最高の「快感」は、「生命を存続させること」つまり「生き延びることができること」に対する可能性の拡大によって得られるのであれば、赤ん坊に限らず、人間の潜在意識がほんとうにほしがっているのは「自らがこの世界で生きていくことができるという力」、この世界で生きていけるという自らに対する「効力感のはずです。その効力感が、何よりの「快感」、つまり、ほんとうの「幸福感」をもたらすのではないかと考えられます
 物を手に入れたからといって、それだけでは、必ずしも生命の存続が保証されるわけではありません。したがって、全身で喜べる幸福感は物では得られないのではないか。「ほんとうの幸せ」とは「自らがこの世界で生きていくだけの力がある」とイメージできたとき、実感が生まれたとき、「生きていくため」の自らの能力の向上や成長の実感得られたとき」と考えたほうが自然です。

 莫大な財産をもった資産家であれば、物で得られる、それなりの幸せを一生追いかければよいし、追いかけることが可能かもしれません。しかし、大多数はそんなわけにはいきません。いつの時代・どんな地域でも、「みんなが資産家」などということは考えられません。経済のしくみや歴史をさまざまなスケールで考えても、貧富の差が解消されるということは望めません。
 「ものを手に入れるから幸せ」という「幸せ感の確証のなさ」を考えれば、「物に対する執着」から少し離れ、『自らの知的能力・さまざまにパフォーマンスできる力を向上させる方の幸福感』に意識をシフトし始める方が「幸せになれる」と思うのです
 物を手に入れて幸福になろうとすれば「いたちごっこ」で、ストレスや飢餓状態を増幅させ、諍いを招き、不幸な状態をつくるばかりではないでしょうか。物に目を奪われ、物が増え、物が有り余るほど不幸な時代を招く、多くの人のフラストレーションがたまり、幸福感は薄れかねないのではないか、ぼくはそんな気がします。
 それより「『生きるしくみ』のなかにインプットされているであろう、たいせつな財産―「自らの知的能力の確認やその向上に喜びを見出せる―の方向に考え方の舵を切ること」で大きな幸せが得られるようになるのではないでしょうか
 さて、「物があることによって生まれる、もうひとつの不幸」を次週考えてみます。 


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