『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

偏差値を超えるもの―学体力と学ぶ面白さ (2)

2012年05月04日 | 学ぶ

 

 下の写真は、よくまとまっているので団で教科書に指定し、もう何年も教材として使用している市販の理科の問題集(テキスト)です。

 

 

どこの塾でも、ふつうこういう問題集をテキストにして授業が行われています。

 ページ数の制限など諸々の条件が重なるのでしょうが、これらの本は受験に出題される可能性の高い用語をできるだけ網羅的に、ごく単純で短い説明で記載しているだけです。

例示の書物に限らず、市販の受験参考書や受験教材の体裁・記述内容はいずれも大同小異です。

 

 塾に通う子どもたちの多くはこれらのテキストを手に、簡単な説明を補足され板書されることをほぼ機械的に覚え、練習問題で記憶を定着させるというパターンで学習を進めていきます。
 中・高の学習の多くもその延長線上にあるのは、どなたも経験済みのことでしょう。「学ぶ面白さ」は生まれたでしょうか?

 

 

 もうひとつ、学ぶ面白さを阻まれる大きな問題は育った環境の変化による経験知の激減です。

高度成長期以降、子どもたちをとりまく自然環境が大きく変化しつづけ、心にゆとりのない日々の生活の中で、学習対象の多く(特に自然環境)をじっくり見た経験のない子がほとんどであるということです。

  

 それはかつての「理科離れ」の大きな原因のひとつでもあったと思いますが、事態はさらによくない方向に進んでいるような気がします。

子どもたちを見ていて、ここ7~8年ぐらい前から特に、保護者の理解が特別ある子の場合は別として、新入団の子たちの課外学習での行動や興味の持ち方が大きく変わってきています。

 

 子どもたちには貴重なはずのオニヤンマやヒグラシの羽化を見ても以前に比べて感動が少なく、注意して最後まで見続ける子が減ってきています。

また、川で魚捕りを教えてもなかなか網を持ちません。

ただはしゃぎながらボール遊びや水遊びをしているのです。

これらの遊びはプールでも海でも運動場でもどこでもできます。

 

 

渓流でそれらの遊びしかできないということは、自然に対する感受性が乏しくアンテナがたっていない、したがって自然からの情報取得はほとんどできない、

自然対象の学習内容のおもしろさがわからないということを証明しているわけです。

 

 小学校で習う多くのことが自然環境や身のまわりのことなのに、学習(勉強)はあくまで学習で、特別の区画・ポジションで営むものなのです。

身のまわりのことや自然環境などの日々の生活とはほとんど関係なく、コラボレーションすることなく進んでいきます。
 見たことがなく抽象的で文字でとらえるものばかりでは結局記憶の対象にとどまります。

  

学校で習ったり、本で読んだことに、ああそうだったのかと現実に気づいたり、逆に疑問に思ったり、不思議に感じたり、という次のステップが生まれません。

調べたり、興味をもったりという、おもしろくなるステップがすべて抜けてしまっています。


 そのままでは、見るもの聞くものに敏感に反応し、その成り立ちやしくみに興味を引かれるという多くの名だたる科学者たちの子ども時代のような体験はほとんど期待できません。学習・勉強と遊びが興味深く結びつくことはありません。全く別次元の話だからです。

 多くの子が「ちゃんと見たことのないもの」・「じっくり見た経験のないこと」を勉強しているのです。ひょっとして今指導している人たちにも、そういうことは言えるのではないかと危惧します。

 

 

 

 自然観察の経験が少なく草花の区別も満足にできない中で、入試に出てくる「草花の特徴」だけを、ただ覚えることのくり返し。先ほど取り上げた理科の一単元に限らず、現在の子どもたちのふだんの学習は、多くがこういう形で進められているのではないでしょうか。

 

 例示のテキストの説明に出てくる サクラ・ヒマワリ・タンポポ・ナズナ・イチョウ・ヤツデ・・・と子どもたちは「友だち」になっているでしょうか。見たことはあるけど通り過ぎただけではないでしょうか。


 友だちでもなく、興味をひかれない対象の特色を学ぶ受験学習、ほとんど見知らぬ植物の特徴を暗記するだけの学習で、果たして学ぶ面白さが身につくでしょうか。学ぶ面白さがわかるでしょうか。

 

 

 

 こうした学習のようすをわかりやすくたとえてみると、どこかで立っている人の横を偶々通りかかり挨拶もしなかった人のアルバムを後から見せられ「今度テストに出るから、このアルバムに出てくる人の名前と特徴を覚えなさい」と指導されているようなものでしょう。

 

 ロゼット葉についても、多くのテキストでは決まり切ったように試験によく出るタンポポやナズナという名しか出ませんが、写真のように、他にもたくさんの植物がロゼット状の葉を呈します。

それらがわかってなじみができ、自らと同じく寒さに抗するための『植物の企み』に興味が涌き、関心が向くのではないでしょうか。

 

 

 

 


 指導する方の力量がよほど優れていれば別ですが、簡単にまとめられたテキストだけを使って、学ぶ面白さを引き出す授業を展開するのは至難の業です。

さらに指導する側に余裕・想像力や理解に供するための活動や努力が不足していれば、事はもっと悲惨になります。 

 きっかけや切り口が違えばおもしろくなり、生涯をかける研究対象になるかもしれない対象をも、そのまま二度と振り向かれることなく終わってしまうのです。


 学ぶ意味がわからず、学んでいる内容が、そもそも自然体験や実体験が減っている中での、受験項目を中心とする暗記中心の勉強では、所詮「義務」の域を出ません。

 学習する意味がわからず、おもしろさもわからない受験のための「義務の学び」は、長引けば長引くほどおもしろくなくなります。

 学ぶことがおもしろくないという小学生時代の感想や思いこみは、学ぶという行為そのものに対する嫌悪感さえもたらしてしまうのではないでしょうか。勉強嫌いの【大量生産】です。

 

 小学生時代は、「学習すること」が「心豊かに生き、人生を充実させるには欠かせないもの」であるとわかる時です。

さまざまな意味で「学習を友としなければならない」人生の遠い道のりで、そのおもしろさがいちばんわかるたいせつな時期です。

 

 

 

 学ぶ面白さを取り戻さなければなりません。

それには自然体験を含む、子どもたちの子どもらしい経験知を呼び戻すこと、子どもらしい好奇心を取り戻す応援団になること。

 勉強と呼ぶにしろ学習というにしろ、現在子どもたちがぶつかっている大きな問題の根源は結局同じです。

あえて、勉強ということばを使いますが、ぼくは「勉強嫌い」ということばのイメージそのものも払拭したい、学ぶことが少しでもおもしろくなって欲しい、

いつもそう考えて授業や課外学習に向かいます。

 

 


 次回はこうした思いに応えてくれたOB諸君たちの紹介(申し訳ありませんが匿名)、

夢の「百人の会」です。なお、それ以降は団の実践、「立体授業」の有様を逐次紹介します。

 

 

 なお、文中に例示させていただいた書籍は、いずれも日ごろから子どもたちを指導するにあたって大きな貢献をしてくれている教材です。

子どもたちの学ぶ面白さをわかりやすく説明させていただきたく今回取り上げさせていただきました。

ご理解とご了解をお願い申し上げます。

 

  

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   立体学習を実践 学習探偵団 http://www.gakutan.com/
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