『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く⑱

2018年06月23日 | 学ぶ

「世界をこんなふうに見てごらん」
 前回紹介した「世界を、こんなふうに見てごらん」(日高敏隆著 集英社)の一節です。

 子どものころ、ぼくは虫と話がしたかった。
 おまえどこにいくの。何を探しているの。
 虫は答えないけれど、いっしょうけんめい歩いていって、
 その先の葉っぱを食べはじめた。
 そう、おまえ、これが食べたかったの。
 言葉の代わりに、見て気がついていくことで、
 その虫の気持ちがわかる気がした。
 するとかわいくなる。うれしくなる。
 ・・・(省略)
 

  これを読むと、幼い子は「だれでも」虫を見れば、この日高少年のように夢中になると誤解をしそうですが、それは誤りです。さまざまな子がいます。ファインマンは、環境のさまざまなsomethingに対して、当初お父さんの助言と指導があったことはお伝えしました。
 また、ぼくのいう『環覚』の発現は決して「虫」に限るものではありません。自然環境を中心としたすべて、周囲のsomethingに対するsence of wonderのことです
 以前も何度か展開しましたが、「子どもたちの多くは『本来』潜在的な好奇心にあふれているはずだ」と考えています。時にはわずらわしくなるほどの、周囲の「もの」や「こと」に対する『なぜなに攻撃』は、その発露の『確証』です。自らの周辺環境をできるだけ多く、早く知る(学ぶ)ために備わった本能なのでしょう。一生そこ(つまり地球)で生きていかなければならないからです

 ところが、多くの場合、大人たちはいつの間にかその必要性とおもしろさを忘れ、日々の生活や目の前の欲望に「忙殺」されてしまっているので、その問いや疑問を無視してしまう。子どもたちは心の底からわき出てくる「学習するモチベーション」を握りつぶされてしまい、さらに「理不尽(!)」なことに、すべて「テキスト」や『抽象』から「学ぶこと」を半ば「強制(?!)」されてしまう、という『学校や塾でのお勉強』の流れがはじまるのでしょう。そんな「学ぶおもしろさ」に「逆行する」例が少なくないと、ぼくは考えています。
 邦訳では省略されていますが、先週紹介したTHE SENCE OF WONDERにLinda Learの序言があります。拙訳で紹介します。
 
 レイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーはわたしたちみんなが覚えている幼心への贈り物である。彼女は、この短い章句の中で、子どもたちの不思議と謎に満ちあふれた世界の本質を生き生きと表現し、私たちが長年憧れてつづけてきた生きとし生けるものとのつながりを思い出させてくれる。(前記原書p9 下線は南淵)


 

 レイチェル・カーソンの幼い頃は不勉強にして詳らかではありませんが、周囲の自然環境に対して驚くべき『環覚』を備えるようになりました。日高少年の場合はこうでした。
 
 ぼくは、小学校のころ学校に行かなかった。戦時教育下に、いわば登校拒否のぼくが過ごした場所は、まだ東京のそこかしこに残る原っぱだった。(これは、エジソンと似ていますね。二人とも、子ども心に訴える環境と時間が十分整っていた、ということです。注 南淵)
 あるとき、枝をいっしょうけんめいはっている芋虫に思わず話しかけたことがある。
 「おまえどこに行くの? 何を探しているの?」
 芋虫は答えなかったけど、ぼくにとって、それは大切な原点だったかも知れない
 「世界を、こんなふうに見てごらん」日高敏隆著 集英社 p10)

 もうひとつ日高少年とエジソンの幼い頃が似ているのは、自然と遊んでいるとき、同年代の仲閒たちとは別行動で、自分の目で「よく見て」考えられる(考えてしまう)時間と余裕があったということです。観察をし、ゆっくりした時間の流れの中で、その推移を見守り、自分の考えを取り出す余裕がありました。ファインマンの場合も、お父さんが他のお母さん方の『子どもの同行』依頼を断り、親子二人だけで「なぜ」の追究がはじまりました。ただ自然の中に連れて行けばよいとは限りません。落ち着いて「自然に浸る」時間がなくてはなりません
 日高さんは、先の引用の節の見出しに、「『なぜ』をあたため続けよう」と書いています。ところが現在も、こどもたちには、知らなければならない「身の回りの『なぜ』」や、少し目を留めれば『心から知りたい』『知りたいことはたくさんある』はずなのに、「別に知りたくもないこと」から「勉強をはじめなければならない」のが現状なのです。
 エジソンがエングル先生に「ノータリン」あつかいされ、登校拒否したときの『感想』です。

 エングル夫妻の教育はたまらなく「いや」だった。あらゆることが無理に強いられた。書物によってのみ自然の過程を知ったり、アルファベットや算数を機械的に覚えこんだりするのは、かれにはできないことであった。かれが求めていたことは、自分の目で観察し、自分で「ものをすること」と、自分で「ものをつくること」であった。自分でものを見たり、試してみたりすることは、「ほんの一瞬だけであっても、見たことのないものについて二時間も教わるより有益である」と、かれは言っている。(「エジソンの生涯」マシュウ・ジョセフソン著 矢野・白石・須山訳 新潮社 p26より)

 エジソンも日高少年も、世間から見れば、謂わば「落ちこぼれ」の典型でしたが、彼らは「落ちこぼれている」間に、かけがえのない「一生の学び(研究すること)」に対する、無限の「モチベーション」を手にすることができました。ファインマンは落ちこぼれではありませんが、結果は同じです。

 これらの事例から現状の教育システムや学習指導を振り返ってみたとき、このブログで展開していますが、高々中学受験・大学受験のために、ただその目的(だけ)のために、こどもたちの「それ以外の可能性」や、抱ける「夢」をすべて握りつぶしてしまっている、という発想に思いが届きませんか?
 通り一遍の「自然活動」しか知らない指導者が、子どもたちを自然に「浸らせる」ことはできません。受験勉強しか知らない保護者が自然の大切さやおもしろさ・奥行きを伝えることはできません。ものすごい可能性を秘めている自然は、相変わらず「手つかず」のままです。
 巷間、自然観察や自然体験があまりにも表面的・皮相で捉えられていること、その感覚で野外活動が展開されていることがほとんどであることが残念です。ぼくの取り組みも、ご存じのように中年以降からはじめましたので、残念ながら道半ばなのですが、こうした方向に日本の教育がシフトチェンジされたとき、ノーベル賞の受賞者が飛躍的に増えるだろうという夢も抱いています。

 大きな発見や偉大な発明のコアは、周囲のsomethingであり、それがモチベーションになるのであって、けっしてtextbooksがきっかけではありません。textbookは、本来のモチベーションに追随するものであり、それらを補完するものです
 みなさん、みんなで大きな教育改革の流れをつくり出しましょう。完成の暁には、少子化に、もっとも歯止めがかかる取り組みになるのではないでしょうか。「大きな夢が生まれる」わけですから…。

いろいろなことをやってみたからよかった
 日高さんは、別のページで、こう述べています。
 
 ちゃんとした生物学のみを勉強したのではなく、進化論の概念が横から入ってきたり、実際のいきものも好きだからフィールドに出たりして、いろいろなことをやってみたからよかったのだろう。正当な学問の道筋だけ学んだのでは分類学の権威にはなれたかも知れないが、新しい考え方にはいたらなかったかもしれない。それも知って、さらにいろいろな外国語も知って、というのがとてもよかったのだろうと思う。(「世界を、こんなふうに見てごらん」日高敏隆著 集英社 p25)
 
 「いろいろなことをやってみた」のが先なのです。「その過程で、いろいろな外国語も知って」というのが、とてもよかったのです
 また、日高さんは別の著書(「動物はなぜ動物になったか」日高敏隆著 玉川大学出版部 p112)で、こういうことを言っています。
 

 気の弱いぼくは学校から逃げるほかなかった。ぼくは朝から学校をさぼって、近くの原っぱへゆき、そこで虫たちを眺めることになった。これがどうも生きものに対するぼくの関心の始まりのようである。だれかの話を聞いて感激したとか、何とか先生の本を読んで感銘をうけたとか、そういう高尚なことがきっかけになったわけではけっしてない。本や話はそのあとのことであった。のちにぼくに大きな影響を与えたファーブルの『昆虫記』も、ぼくが虫に関心をもっていたからこそ、すごくおもしろかったのにちがいない
 その後も、ぼくは生物「学」をやろうとは思わなかった。ぼくは生物を「知りたかった」のであり、今でもそうである。(下線は南淵)

 これを読むと自明のように、「学びを進めるモチベーションは」まずsomethingを知ることであり、環覚に目覚めることなのです。おもしろいものがあって「学ぶ」がはじまり、知りたくなるのです

 ファーブルの『昆虫記』が先にあるのではなく、「虫になじむことが先」にある、「または同時」にないと「すごくおもしろく」はならないのです。みなさんの発想は後先が逆ではありませんか? ファーブルの『昆虫記』を先に与えて満足していませんか? 虫といえば、お母さんがスリッパをもって追っかけ回したり、キャッキャッと逃げ惑っているゴキブリしか知らないうちに・・・。
 まずその発想を逆転しないとNO ORDINARY GENIUSは生まれないのでしょう。「ぼくは生物『学』をやろうとは思わなかった。ぼくは『生物を知りたかった』のであり、今でもそうである」なのです。
 NO ORDINARY GENIUSのファインマンは、次のように言います。

 わからないのは、科学をつまらない、むずかしいものだと思ったり、簡単でおもしろいと思ったりする人がいることなんだよ。ぼくには(科学をすることで 南淵・注)すばらしくおもしろいご褒美があるということしかないし、この世界が実際はどうなっているのかを究めようと思えば、相当の想像力が要るってことさ。ぼくは、四六時中、あらゆることを想像しようとしている。ランナーが走って汗を出すことに喜びを感じるのと同じように、ぼくはいろんなことを考えることによって快感を得るのさ。(No Ordinary Genius Christopher  Sykes  W・W・NORTON p126 拙訳)

 両者とも、モチベーションは「快感」なのです。「知りたい心」です。この身体の奥からわき起こる『快感』を掘り出す手伝いをすることこそ、教師(指導者)の役割です
 エジソンやファーブルやニュートン・アインシュタイン等、偉人たちの仕事や伝記や発明・発見の概略を指導することで天才が生まれ、学習のモチベーションが発動するのではありません。それらの従来の教育システムや指導方法を根本的に見直すべき時期に来ているのではないでしょうか。

 日高少年やエジソンの時代は、まだ子どもたちが『一人ででも環覚に目覚める環境が健在』でした。ところが、今は自然環境のみならず、あらゆる環境がこどもたちの『環覚』育成に敵対しています。その障害を排除できる有効な指導こそ「立体授業」だと考えています。
 ブログを読んでいただいているみなさん、せこい「自己顕示欲」や「収入増大」の、さらに先にある大きな夢と目標、つまり「子どもたちへの貢献」に向かって力を合わせましょうよ。
 最後に、日高さんが、学生やぼくたちに投げかけている問題(少し古いですが、科学全般にわたってその骨子は健在です、今、逆に加速していないでしょうか?)を紹介しておきます。

 高校で、メンデルの遺伝法則を習って、その見事さに感激し、生物学をやろうとする学生は、今でも後をたたない。ぼくの偏見によれば、そういう学生がまともに生物学をやってゆくことはむずかしいようである。彼または彼女は、たしかに体系化されたものの美しさを理解できるし、その体系を学んでゆく能力ももちあわせている。つまり、ちょっとした初等数学のテクニックや物理学、化学の初歩知識、機会の扱いかたを身につけており、電気にも強い。したがって、すでに体系化された近代的な生物学の徒となることは十分にできる。そして、先生からも若干の進歩的な仲間からも賞賛される精密な論文ぐらいは書けるのである。
 けれど、こういう近代的なアプローチがもたらすものはなんであろうか? 生きものの中から近代生物学的に扱える部分だけをぬきだして、それを解析し、そのことだけから生物学を作りあげるという、きわめて一面的な結果のみがふえてくるのではなかろうか?
 (「動物はなぜ動物になったか」日高敏隆著 玉川大学出版部 p113)

 「世界を、こんなふうに見てごらん」も「センス・オブ・ワンダー」もいずれも、それぞれの作者がなくなる前や病床での作品です。「透徹した目」で子どもたちと未来を思い、本質を生き生きと伝えている。読みとったこれらの真実と「読む心」を、いかに子どもたちに伝えることができるか、それがぼくたちに課せられた課題です。

子どもを幼く見過ぎ
 さて少し、子育てのアドバイスです。最近のお父さん・お母さんは、とにかく子どもを幼く見過ぎです。
 見るところ、実年齢より三才くらい幼い子に接するような態度です。子どもは、その境遇に甘んじてしまい、なかなか一人前に、自立の方向に向かい(向かえ)ません。小学校3年生なら年長児くらい、小学校6年であれば、3年生に対するような態度で接しています。
 お父さんは、少し自分の中学進学前後のことを思いだしてみてください。〇ンコに毛が生えてくるようになった自分を、そんなに幼い存在だと考えていましたか? もっと、いろいろ考えていたでしょう? 
 自分の子どもを指導する基準がわからなかったら、一緒に仕事をする仲間として、あるいは友人として、こうあってほしいという理想をぶつけるべきだと思います。一流の人はこうあるべきだという理想であれば、もっと良いでしょう

 「自分がそうでないから言えない」、というのであれば、もうその時点で「子育て失格」です。一流の人の親がすべて一流だったわけではありません。子どもに「自分より立派になってほしいと厳しく接する」のは、「この上なく立派な親の務め」です。件の悪行を企んだ中学校の男性教師はそういう意味でも「父親」失格です。


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