『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く⑬

2018年05月19日 | 学ぶ

マクドナルド讃
 ビッグマックじゃありません。マックシェイクでもありません。John D.MacDonaldのことです。
 アメリカでの高評価に比べ、日本ではそれほど人気が出なかったようですが(たとえば、チャンドラーやスピレインのように)、読んでみれば素晴らしい作家でした。不人気だったせいか、原書の一部を除けば、ほとんど「高い」古本でしか手に入りませんが、手にとってみる価値大いにありだと思います。ぼくも、何十年も前に出版された古本をアマゾンや古書店で見つけながら、ポツポツ読んでいます。今日は彼の作品から考えます。


 中・高生当時、田舎で品ぞろえの多い書店は一軒もなく、今のようにテレビやインターネットが普及していたわけでもありません。読書傾向が、どうしても以前紹介したK先生の影響や教科書に出てくる作家の作品に限られてしまいました。さらに、純文学と大衆文学という区別が当時は未だ幅を利かしていて、「大衆文学というくくり」にあった推理小説などは、田舎の受験校では一段低く見られていました。なかなか手を出しにくかった覚えがあります。「読むことの入り口」が当時は極端に狭かったのです。二十代まで、そんな傾向が続いていました。

 シナリオの勉強をまた始めようと思った関係で、DVDを見続けていたのですが、見たいものを一渡り見終わって次のステップに進む前に、先日例に挙げたクーンツの「ベストセラー小説の書き方」を読み、その「激賞」ぶりで興味をもちました。最近の作家ではないので、ミステリーやクライム・ノベルの愛好者には、「今更」という人もいると思いますが、これがおもしろい。会話の妙と云い、筋の運びのおもしろさと云い、素晴らしい作家です。
 若いころ、教科書に出てくるような「有名?」作家や「定評ある名作(?!)」ばかりではなく、こうした作品も読みたかったと今切実に思います。読んでいれば、スティーブン・キングが云ったように、テレビ番組なんか見るのは、ほんとうにバカバカしくなったはずです。
 学校や先生が訳知り顔で薦める本は、どうも堅苦しく、夢中でのめり込める本は少なく、「わかったような、わからないような、結局おもしろくない」という読後感の生徒が多いのが現状ではないでしょうか?(ぼく自身がそうでした) それでは読書には嵌れません。「対象は何でもいいから、おもしろいと思ったもの」の読後感を「聞いてみたり」、みんなで「話し合ったり」する方が「読書好き」が増えると思います。まあ、「わかったようなふりをして古典を読めるのも、若さの特権」だとは思いますが・・・。

 学校の先生が「肩ひじ張らず」、今回のマクドナルドやアリステア・マクリーン、マイクル・クライトンなどを読んで、そのおもしろさを伝え、みんなで原書にもあたり、できれば英英辞典を使い翻訳のまちがいさがし・誤訳を大討論する方が、「国語と英語の力が、どんだけつくねん、読解力がなんぼのびるねん」と思います。あきまへんか?
 「文学史に載っている、自分も読んでいない、考えたこともない・考えたくない(!)作品のアンチョコ解説でお茶を濁す授業」では、「説得力」と「心」はついてきません。ほんとのほんとの、「抽象」そのものです。おもしろくなくて、国語が好き、読解力も備わった子は育ちません。 
 さて、「ナイフを子どもたちに渡す意味」を先日もお伝えしました。自分で使ってみなければ、その「危険度」や「使ってはいけないこと」を実感できないから、と。また、今思えば「おおらかな時代」でしたが、中学1年のころ「やんちゃ」だった従兄の空気銃を借りて撃っていた話もしました。

 そのときの「痛い」思い出。ただ『茫漠としたイメージと好奇心』で、「当たること」や「死」という心得もなく、鶯を撃ってしまったのです。ぼくはその「痛み」で空気銃を従兄に返しました。
 ほとんど同じ経験が、先述のマクドナルドの“THE DREADFUL LEMON SKY”(J.B.Lippincott Company 邦訳名「レモン色の戦慄」篠原慎訳 角川書店)に出てきます。4~5ページを使っての展開です。引用が長いのですが、あまりにもよく似ている事件と感覚なので見逃しがたく、子どもたちへの指導の参考にしていただきたいと思います。少し端折って拙訳で紹介します。
 この作品の角川文庫版は未だ手に入りやすい方でした。古本でぼくが手に入れた、マクドナルドの他の邦訳分も写真掲示で紹介しておきます。(なお、写真のナイフはジャックナイフではありません)

俺のと同じ、赤い血さ
 マクドナルド作品の代表的な主人公トラビス・マッギーが、住まいにしている自らのボートで、相棒のメイヤーと酒盛りの準備をしているとき、傍らを通ったバカなヤンキーたちのボートから銃撃を受けたことが、このエピソードのきっかけです。ヤンキーたちが嬌声をあげて走り去ったあと、「なんであんなことをするんだ?」というメイヤーに、トラビスは
 
 「気持ちの昂りだけさ。他に何もない。自己顕示欲のみだ。ド田舎のバカなお調子者が、このクソおもしろくもない世の中を許せない小金持ち(つまり「トラビスたち」・南淵注)、いけ好かないやつらに、目にモノを見せたというわけだ。使ったのは拳銃で、距離もあった、一発でも当たったのは偶々さ」。(前記THE DREADFUL LEMON SKY p34 拙訳)
 

 トラビスの、この解釈を聞いたメイヤーは、12歳の誕生日のときに買ってもらったライフルをおもしろがって撃っていた自分の経験を話します。よく遊びに行った森の中にいた、玉虫色に輝くムクドリモドキという鳥と自らのエピソードです。
 
 「狙いをつけて引き金を引いた。鳥はさっき自分が水浴びをしていた、同じ水たまりにそのまま落ちた。羽をバタバタさせ、やがておとなしくなった。近づいてみると、水面近くで、まだくちばしをパクパクさせている。もう意味がないのに、俺は何も考えられず、溺れないようにしてあげたいと水から救いあげた。手の上で、最後のけいれんをし、鳥は静かになった。忘れられず、耐えられないくらい、静かに・・・石や、枯れ枝や、フェンスの支柱のように、ぴくりともしなかった」。(前記書 p35 拙訳)
 
 マクドナルドは、おそらく子ども時代の実体験だった「鳥殺し」の瞬間を、登場人物の台詞に託して、こういうふうに描いています。しかし、改めてぼく自身の経験から振り返ると、この「経験」だけではまだ不足でした。もうひとつたいせつなものあります。「痛みがわかる経験」です。

 マクドナルドも、経験値としてこのままでは「片手落ち」だと思ったのでしょう。(マクドナルドの代役である)メイヤーは、トラビス相手に話を続けます。
 
 「この部分は、何とかうまく説明したいんだが、トラビス。 親指の先の、この傷痕がわかるか? 板っ切れの舟にジャックナイフでマストをつける穴をあけようとしていたんだ。調子が外れて、ナイフの刃が閉じた。結構血が出たよ。刃が爪にまで食い込んでしまったからな。痛かった。それまで経験したことがない痛みだった。そのムクドリモドキを殺した2カ月ほど前のことだ」(前記書 p36 拙訳)
 

 このふたつの事件によって、メイヤー(マクドナルド)は「死」というもののイメージを子ども時代ににつかみます。
 
 「そのムクドリモドキは俺の手の上で横になり、きれいだった玉虫色はすっかり色あせてしまっていた。泥で羽は薄汚く、びしょぬれだった。どうしていいかわからず、俺は濡れた草の上に屍骸をおろした。放ってしまうなんてできなかった。ていねいに置いたが、手には血がついていた。鳥の血だ。けがをしたときの俺のと同じ色の、赤い血だった。俺と同じように痛みもひどかったろう、そう思った。目を背けたい、触れたくない、残酷な思い出さ」。
 
「拳銃だって弾だって『絵空事』なんだ」
 その経験をもとに、メイヤー(マクドナルド)は、銃撃したヤンキーたちに解釈を加えます。続きを読んでいただければ、実体験がなく育った子ども(半大人)たちの成長のようすが思い浮かぶのではないでしょうか?
 しばしの沈黙の後、メイヤーは
 「(この記憶と・南淵注)奴らの仕業との関係を正確に言い表すにはどう云えばいいのか考えているんだが、トラビス。 奴らにとっちゃ、拳銃も弾も絵空事なんだよ。死ぬことだって絵空事さ。指先の一瞬。パン!。薬莢の匂い。やつらにわかるのはそれだけだ。
 俺は、あの鳥が死んではじめて拳銃と弾と死がわかった。唯一無二で確実なものだと明らかになったんだ。鳥の死に手を下したのは俺だ、死は汚いものだ。小鳥には苦痛を与え、俺の手には血糊がついた。
 どうしていいか分からなかった。小鳥を殺す前の自分に戻りたくて逃げだしたかったが、どうすることもできない。はじめて自分というものを意識した経験から逃れたかった。
 すべてが実体をともない、厳粛そのものだった。現実がもっている本質の恐ろしさでいっぱいだった。俺はそれから鳥を殺していないし、これからだって殺すことはない。断末魔で救いのない苦しい目に遭っているような奴に出あわない限りはね」(前期書 p36 拙訳)
 
 そんな経験をした自分に対して、ヤンキーたちはどうなのか。メイヤー(マクドナルド)の判断です。

 「あのボートに乗っていたヤンキーたちは、俺のような、ムクドリモドキを殺してしまった経験なんてまったくないんだろう。実際に血で汚れちまった経験なんてないのさ。現実にはあり得ない西部の殺人劇を思い描くだけだ。やつらは「ゴッドファーザー」で噴き出す血をポカンと大口を開けて見ていただけ、「俺たちに明日はない」でボニーとクライドの「死のバレエ」を見たことがあるだけだ。

 テレビの「ガンスモーク」で、マット・ディロン保安官が管理する街の大通りの砂塵の中に「麗しく」倒れて消えた男、そのシャツの胸元の血の痕を見たことがあるだけなのさ。
 そんなものは、あの森の中に入った俺が、死んだムクドリモドキの写真を拾ったようなものだ。やつらは現実というものの本質をよくわかっちゃいないのさ。よく分かっちゃいないし、死というものがどんなものか、これからも分からないだろうよ。どうしょうもなく醜いものだってこともな」。(前記書p36~37 拙訳)
 

 ゲームで相手を倒したり殺したり、消したりするという「愉快」の感覚のまま、自らの痛みを知らずに育つことの怖さを以前述べましたが、このマクドナルドの感覚をたどれば、よく理解できるのではないでしょうか。イメージや感覚の未成熟の怖さが…。
 むやみに動物をいじめたり、殺したりするわけではなく、「現実に生きている自然」に出あえば、生死を目にする機会はふんだんにあります。ふとしたきっかけでそういう体験にあって学べば、そういうことは「あえてしなくなる」のがヒトであり、ヒトとしての成長だと思います。「人は現実を見て、出会って、失敗を通じて学ぶもの」ですから。

 紹介した隠蔽事件の愚かさも、そう考えていけばよく分かるのではないでしょうか。イメージの貧困です。生身の人間がわからない。現実も見ず、失敗を通じて学ぼうともせず、「シミュレーションプレー」や「テレビゲーム」しか知らない。そのあたりの感性や想像力の不足にも、メイヤー(マクドナルド)は触れています。
 
 「(発砲した 南淵注)やつらにとっちゃ、誰かが魚籠の中から取りだした拳銃は、現実じゃないんだよ。引き金を引くことが、おぞましい悪臭を放つ死への最初の一歩なんだという関係性なんか、分かっちゃいないのさ。一見関連が見えないところにも、原因や結果がともなっているもんだ、という感覚が欠落している」。(前記書 p37 拙訳
 
 これに付け足す台詞はありません。「体験がともなわないゆえの感受性や想像力の乏しさ」がもたらすやりきれない状況が、今回水谷が被害を受けた事件でも、そこここに顔をのぞかせています。
 

想像力の欠如がもたらす軽佻浮薄と、信頼なき社会
 小さいころ肥後の守で指先を傷つけたとき、ぼくも「自らの流れる血や痛みとともに、相手(自分以外)の痛みと存在が分かった」と、かつて述べました。心配する母を思う気持ちや、自分と同じ傷を与えてはいけないという訓えです。さまざまな自然体験・外遊びの経験によって、子どもたちが覚えること・学べるものは無限で、かけがえがありません。説明のように、身体だけではなく、こころも養えます。
 街。「虫が怖い」や人工物の環境の中「だけ」で育ってしまうと、生命と死は縁遠くなります。「絵空事」です。ガリガリの受験勉強漬けで過ごせば、それを考える暇もなくなります。

 能力が相当程度高ければよいですが、能力が高くもなく、学習姿勢や学習態度も整っていないうえに、受験に特化したタイトな日常生活では、「生きている相手の存在を認識する力」、「自分と同じく生命があり、生きている人間である」と感じる力・想像力・メタ認知・判断力を身につける余裕はなくなります。本は読めるけど、字はわかるけど、書いてある「情(こころ)」は読めない、中身はわからない、わかろうとしないという成長です
 テレビや媒体を通して見る生命も死も、あくまでも抽象の域を出ません。スイッチを消せば消えます。「傍で触る温かさ」や「いのちが消えた冷たさ」を実際に感じとったわけではありません。
 子どもの窃盗事件の隠蔽工作で、水谷に卑劣な犯行を重ねつづけている玉川夫妻も、思いが及んだのは自分(たち)のことだけです。犯行を振り返ると、彼らの視角には同じ人間である他者の存在は入っていません。想像力の欠落です。自分以外の相手が見えないのです。だからシンパシーやリスペクトが存在しないのでしょう
 その結果。貧弱な想像力で犯した「罪の隠蔽」で、もっともたいせつなものさえなくしました。「軌道修正をきちんと図れたら手に入れられた、わが子の健やかな成長と将来」です。
 「罪と現実にきちんと目を留め、その責任を果たし償ってこそ、子どもは正しい倫理観と人間性を身につけることができました」。「子どもの将来の糧」でした。先述の「痛みがわかる経験」を自らがスルーし、子どもにもさせていません。

 いくら隠そうとしても、「悪」そのものは隠しおおせません。いつまでも本人たちの心の隅で生き続けています。教訓になるべき経験が、最悪の判断によって、もつ必要のなかった二面性をもたせてしまう(もたざるを得ない)方向の成長に子どもたちを加速させてしまった。
 自らの子どもに携帯端末を持たせ、それによって不法な盗聴をつづけるという『方法』の是非や倫理性に何の疑いもはさまず(はさめず)、小さな子どもたちがその感覚と習慣を自然に身につけていったとき、その子どもたちの精神作用やこころのはたらきはどうなっていくか。そのイメージが見えないことが、つまり想像力の欠落が、今回の事件の大きな原因です

 「信頼の置ける人間関係」や「信頼できる社会」という、「社会生活をしていく上でもっともたいせつな、根幹部分」が壊れていく、ということにも考えが及ばない。
 自らの子どもたちだけをそうした判断力・倫理観で育てるなら、口出しすることはできません。しかし、小学校の教師・中学校の『国語(!)』の教師ということですから、反省もないまま虚偽と陰謀と、相変わらずの悪意をまき散らして、これから何千人ものピュアな子どもたちを、その判断力や倫理観を元に指導していくわけです。その現実は見過ごせません。


 さて、巷間、疑問も抱かれず一般的になりつつある、底の浅い倫理観や想像力の不足の問題はまだ根深いものがあります。子どもの指導という点から考えて、早急に指導方針の再検討がはかられなければならないもの、それは危険に対する考え方と、安全の担保です。
 たとえば「ナイフをもってはいけない」、「危ないから~をやってはいけない」という『今様の』視点・指導方法は、冷静に考えれば、その非は自明だと思いますが、これこそ無責任きわまりない短絡指導です。「危ないものはもたせない、近づけない」という処置によって、逆に『危険を知らない、危険が分からない人と社会』を続々生みだしてしまうからです
 なぜか? そういう対処法によって、みんな逆に「危険というものがどういうものかわからなくなる」わけです。それがマクドナルドの書いている、「森の中の写真」です。写真に写っている死んだ鳥は、生きていた時から、殺してしまうまで、さらにその後まで、逐一感じた「自らの実感」とともにあったわけではありません。手の中で温かかった生命が冷たくなる感覚とともにあったものではありません。他人事です

 ひとりひとりが安全に過ごすことができるのは、危険や使い方が分かり、危険度を自覚し、それぞれが正しく自己判断・セルフコントロールをできるようになってこそ、です。危ないものや悪いものを隠しても、それがなくなるわけではありません。危ないものは無限にあります。永遠に出てきます
 実際に取り返しのつかない、危ないことをしてしまう前の、いわば「プチ危険!」の体験(存在)が、その後の行動を大きく左右します。「プチ危険」をどうするか?

 自然体験や外遊びは、意識せぬ間にも、その体験補助をしてくれます。そうした方向性の指導法の考案や授業がポイントになるわけで、「持ったらダメ、近寄っちゃダメ、やったらダメ」だけでは、自他ともに危険度が減ることは望み薄ではないでしょうか。
 さて、日本が諸外国と比べ安全なのは(だといわれるのは)、伝統的にも歴史的にも未だ、個人の自覚と倫理観・信頼関係が社会で整っているから」という判断に異を唱える日本人は少ないと思います。「正しく判断できる人、正しく行動できる人が多い」から、「外国人が称揚する安全や道徳が社会で担保されます」。
 水谷の事件の当事者の行動など、さまざま考えてみると、その内部からほころびが見えてきているようです。問題山積の教育環境ですね。マクドナルドにも学びましょう。


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