龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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朗読劇「物語シアター」第六回公演のこと。

2011年06月13日 22時46分17秒 | 大震災の中で
6月11日(土)渋谷文化総合センター大和田伝承ホールで開催された
朗読劇「物語シアター」第六回公演(代表 堀井真吾)
を聴いてきた。

メチャメチャ面白かった。

肉声を生で聴くこと。それも、単なるおしゃべりや一方的な「説得」を旨とする講演などではなく、「対話」において耳を澄ますこと。

そういうことを、震災後の身体が求めていたのだと分かった。
年若い友人がチケットをおくってくれたのだ。

この友人は、18年前私が無呼吸症候群で入院したときも、椎名誠の旅本を持ってきてくれたのだった。
18年ぶりに危機を迎えたとき、さりげなく、きっと偶然に違いないけれど、最高の贈り物を与えてくれる。
そういう「出会いの偶然」は、文句なく心を豊かにしてくれる。

この朗読劇との出会い自体もまた衝撃だったなあ。

語り物の力を再認識しました。なにせ世界というフィクションを、声で支えるっていうのは、なんと素朴といえば素朴なことではありませんか。
でも、それが最高に洗練された日本語のプロによって語られていくのです。

悪いけれど、凡百の役者さんの「ことば」と「身振り」が霞んでいきます。
これに匹敵する「声」というか「語り」を現出させることのできる「役者」さんは極めて限られている。


感想はこちらに書きましたのでよろしければ。

メディア日記
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=4bdd9b017e6bb2c6148b813986adbb9b

1月に観た柿食う客のわざとらしさ満載の語り口で演じられる『愉快犯』とはおよそ対極的で、でも、声が出てくる場所を徹底的に見つめようとする瞳の凝らし方は、そんなに遠いわけでもないのかもしれない、と思ったりもします。

虚構を構成する「生身」の場所。

権力(状況定義力)のせめぎ合う第一の場所は自分自身の身体である、というその「そこ」は、とても視線を固定して目を凝らし続けることがむずかしい場所なのかもしれません。
耳を澄ませたり、身体を極限まで緊張させたり、飛んだり跳ねたり立ち止まったり、深呼吸したりしながら、それでもその辺りに近づいていきたい。

日常の忘却装置が、原発の冷却装置と共に壊れてしまった「現在」を生きるには、身体を伴った状況定義装置としてのフィクションが、どうしても必要不可欠です。
それは絶対に、震災前のシステムの使い回しであってはならない。
そのほかのことはほとんど何も震災前のシステムについて実感を伴った参照すべき記憶は失われてしまったけれど(柄谷行人が指摘してましたねそんなことを)、そこだけは譲れません。
水を入れ続ければ冷却可能、といいながら、汚染水をまき散らすような「忘却装置」に、私達は依存してはいられないでしょう。

いや、依存からの離脱はあらたな依存を招くだけだとすれば、そんなに早く代替表象を求めることはないのかもしれません。殊に、何も慌てて下手な旧来のシステム=政治の嘘で「福島」の裂け目を修復してもらう必要はないんじゃないかな。
長い黄昏を生きながら、酒でも酌み交わしつつ、ゆっくり瞳を凝らしていけばいい。
目を閉じて老後を生きようとは思わないから。

どんなシステムが立ち上がるのか、むしろ福島の人間は、わくわくしながら現場に立ち続けることができる、とも言えるかもしれません。黄昏をむやみに怖れることはない、のだと思います。
だって、原発事故がもし全然なかったとしても、瓦一つ手に入らない現状を考えても、「復興」とか煽るヒトたち、電力不足を必要以上に声高に危惧する人たちは、今すぐ福島県民退去すべき、みたいな人たちと同様、空絵事の絵図面が好きなのかもしれません。

大切なのは、顔が見える範囲の肉声から始めること。遠い目標を見失わず、目の前のことを少しずつ動かし、それを慌てずに、多少黄昏れても新しい発見があればそれを支持しつづけていくこと。
大きな国家規模の忘却装置が作動するスイッチオンの振動を見逃さないこと。
そういうことじゃないかな。

空絵事だから悪いといっているんじゃありません。
性急な強制はちょっと、と福島の住民の背中の唐獅子ボタンならぬ聖痕が痛むのです。
最初から国家レベルでの風呂敷を広げられると、排除と強制の論理が原発推進でも原発反対でも「説得と強制」として発動しちゃうんですよね。つまりは過度の状況定義力が発生しちまう。

過度の状況定義力すなわち権力は、それはもう、放射能だけで沢山なのです。

むしろ、小さな内部被曝も注意深く避けるように、小さいことから変化を歓迎し、大切に育てていく、ってことが重要なのかもしれません。放射能という絶対的な状況定義に対して、私達ができることはいったい何なのか。

政治的に同心円状に警戒区域を地図上に描くことではなかった、ということは分かりました。

科学的に放射能汚染地図を丁寧に科学的に計測して構成していくことは重要だけれど、それは「福島」とか名付けるべきものでもないことも分かってきました。
それは単なる汚染地域。
人間の営みは、線量の単純な関数として定義はできないですからね……。

福島県が受け続けている放射能汚染によって福島の住民が負った「裂け目」を、どうやったら人間の営みに生かし、その聖痕のバトンを誰にどうやって手渡していけるのか。
これからはそこいら辺をまた考えて行かねばなりません。

震災以後を生きる(9)

2011年06月13日 21時57分54秒 | 大震災の中で
associations.jp:シンポジウム第一部の模様(動画)?活動報告
http://associations.jp/topi02.html

いとうせいこう司会、柄谷行人、磯崎新、大澤真幸、山口二郎のパネラーで、2011年6月5日新宿紀伊國屋ホールで「震災・原発と新たな社会運動」と題するシンポジウムが開催された。その参加者各自の問題意識を各十分程度で述べる第一部が動画としてアップされていました。

以下の下手な説明の文章は、動画を見れば読まなくてもいいです(笑)。

震災後の状況を考える上での支援ツールとして効果的かと思います。

大澤真幸は、
今生きているヒトたちとは繋がることが(困難ではあっても)可能だ。現に被災地の現場でそういうことが起きている。しかし原発事故ではそうはいかない。
不在の他者と向き合わねばならないから、と指摘。
それでも過去の他者(死者たち)は「弱い不在の他者」であって、伝統とか歴史とか繋がり得る可能性はある。
問題は、未だこの世に存在しない未来の人々という「強い概念」としての「他者」とどう繋がるか、が難しい。つまりは五十年前に原発を計画した人は、今日この状態をきちんと想像していなかっただろう。
それを今批判するとするなら、私達もまた、未来のまだ見ぬ他者に対して、想像し、責任をとらねばならない。
それは、目に見える他者と繋がることよりずっと難しい。

だから、「エアコンか人間か」という「偽ソフィーの選択」は、本来だれでも人間を選べるはずなのに、「今」のエアコンと未来の他者の選択が難しくなっているのだ。

という話を。

柄谷行人は、

私は別に報告することはない。デモにいけと。以上。
しかしそれではいかんというので、敢えていえば、国家こそが原発=放射能を作った、いや、ある意味では国家が放射能なのだ。

とそんな話を。(他にもいろいろあって面白いんですが、詳細は動画を。)

磯崎新は、ネタとして、
1960年代はアバンギャルドしていればよかったリニアプログラム時代。
1980年代は値段の付かないものに値段をつけてネットワークに乗せていくノンリニア時代。
そして2010年代は自然なき自動発生を目指すジェネリックな時代。
言挙げせずに、やれ!
というアジテーション。

山口二郎は
戦後民主主義はこの事態に対応できるのか?
for the people
by the people
of the people
のうち、forはどちらかというと、人民のためにというばかりではなく、人民に代わって、という官僚パターナリズムの意味合いが強く、結果として人民による、という能動性が希薄で受け身的民主主義の傾向が強かった。
一時期原発誘致を市民が阻止するという動きも90年代にあり、それはby the people的動きとして評価できたのだが、2000年代になって、小さい政府とか自己責任とかいうおかしな方向に向かい、結果としてby the peopleは大阪・名古屋のようなスットコドッコイのポピュリズムにいってしまった。
能動的な「社会活動」をどうするのか、がポイント。
実は、原発推進を掲げていた自民党政権の時ではなく、官僚や企業のコントロールが甘い民主党の時に起こったのは幸いだった。説明が二転三転したということは、隠しおおせる大本営発表が通じず、真相に近づいていくプロセスが見えていたという意味では、良かった、とも言える。少なくても原発推進の政財官鉄の三角形に、学者や組合など四角形五角形と重なっていたことが明らかになってきたのではないか。
特に学者がそこに荷担していたことが明らかになったのは大事なことだ。
今は、強いリーダーが何も市民に考えさせないで(一見強い)リーターシップを取ること、なんて国民が求めなくなってきている。これは大事なことではないか。
夕方菅首相と会食したが、これからは市民運動がポイントになる、と彼が言っていたのは大事なところだ。



あ、なんかこうやって紹介してたらむしろそれぞれの芸風を披露しているある意味「芸能」っぽい感じもしてるかもしれない、と感じはじめた。
第二部もアップされないかなあ。
でも、こうやって遠くでやっているシンポジウムとかを公開してもらえるのは、いい時代になったものですね。

柄谷行人と大澤真幸の二人が言及していたのは
『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか 』レベッカ ソルニット (著)
まあ、原発事故をそこに加えると、うまくいかない(大澤)、あるいは国家がその共同体の可能性を壊す(柄谷)という風に、想像的には「特別な共同体」を想定しつつ、そうはいかない現実にどうアプローチするかって方向性で読んでるみたいですが。
とりあえず注文。

震災以後を生きる(8)

2011年06月13日 02時46分53秒 | 大震災の中で
震災から3ヶ月が過ぎた。
(大げさに聞こえるかもしれないが、それ自体は小さな形で)さまざまな「疲弊」の徴候が顕れて来つつある。

Wikiを引いたら、PTSDといえば、まず戦争帰還兵の心の傷から研究が始まった、とある。
忘れていたがそういえば聞いたことがある。
今日、母親と昼飯を食いながら
「戦争以来かねぇ、この大震災は」
と訊いてみたら
「いや、戦争も大変だったけど、終戦後はむしろ希望があったからね。これから良くなるっていう」

と80歳になる戦中派は言っていた。
先行きの暗さでいえば、「戦後」より暗いかも、という話だった。

示唆的だ(苦笑)。
これから福島は「長い黄昏の時を生きることになる」のだろう。
汚染物質の最終的は廃棄場所の候補にもなっているということだし、冷却によって排出される汚染水の処理さえメドが立っていないし、冷温安定化はどれだけ先か分からないし、冷温安定化は既に飛散した放射能の問題を全く解決しないし、調査が進むにつれてホットスポットは増えていくし、何より福島県産ブランドの受けた傷は、向こう何年かは回復の余地がないし、市民の内部被曝についてはほぼ大多数がそのまま「なかったこと」にされていくのかもしれないし、
福島県に住む限り、その闇の根源である洞穴のような東電第一原発の事故と向き合いつづけていくしかない。
そしてそれをそういう風に「福島県」の問題として切り分け、あるいは「日本」の問題として切り分けるのが、「人間的振る舞い」である、ということも間違いない。

科学に「福島県」とかいう「範疇」は別にないものね。汚染区域という概念はあっても。

私達が「福島」に生きるのは、それを自分の内面に位置づけ、生きる場所として「選び得ないものを選び直す」形でそこに生きる、ということになる。
究極的には東京に移住したって阿蘇のふもとでやり直したっていいわけだから。
実際、沖縄までいってしばらく逗留するよ、という福島県民だっているわけだし。

何を好きこのんで高濃度放射能汚染地区に住み続けるのか、という疑問が、「外部」には立ち上がるのかもしれない、とも思う。

でもね。
そこに生まれてそこに育ったから、そこに住み続けるっていうのは、そう簡単に変更可能なことではないと思う。避難するならむしろ、初動が勝負だった。
政治的にそれを抑制したんだね。民族ならぬ県民大移動を抑止することが一方では最も大きな政治的課題だったのだと今は思う。
情報を隠蔽した最大の効果が、福島県民を福島県内に住み続けさせることだったのだ、と今なら分かる。

「直ちに健康に影響はない」という枝野発言も
「20キロ圏内退避」という設定も
「100ミリシーベルト/年以下の累積被曝線量では、有意な危険は認められない」趣旨の山下俊一発言も、
「いわき市は安全です」宣言の渡辺いわき市長も

全て200万人大移動をこの震災の中で「二次的大震災」として起こさないために作用した言説だ。

それは、過度な移動を抑制するという意味では「パニック防止」という表現の側に評価は傾いていくのだろう。
他方、市民を危険性をもった汚染地域に留まらせるという意味では「情報隠蔽」による被曝被害の拡大という評価が下されていくに違いない。

福島県民は、ここでもまた、引き裂かれる。
「引き裂かれてる場合かっ。とにかく逃げろよ!思考停止して放射線を浴び続けるのかっ?!」
という「福島県民=愚民」という指摘も
「原発容認=追認が現況を招いたんだから、福島県民も愚かだよね」認識に加えて、一面当たってないこともないな、と思う。

他方、被曝の現実を踏まえれば、政治の「小汚い」姿勢は断固許し難い、とも見える。
「200万人を動かす覚悟なくして1億2000万人を動かせるのか」
というのは、一国の為政者に対して至極まともな市民の反応。
でもさあ、200万人は急には動かせないと思うよ、実際。

むしろ問題はここから先。

おそらく福島県民は、大震災と原発事故によって精神的な疲労が蓄積してきた3ヶ月後の今からいよいよ、その疲弊自体に対応する「症状」と向き合わなければならない。

改めて、福島に住むのか離れるのか。

「沈み続ける船」なら、退避するに如かず。
乗り換え可能な「船」ではなく交換不可能な「生きる基盤」としてとらえるなら、踏みとどまってそこに新たな営みを刻んでいく他はない。

今年の四月、東京から福島の職場に戻ってくることになった知人は、周囲の友人から
「故郷だからっていって、なぜ今福島に行かなくちゃならないの?」

「強いね、あなたは」
という二つの反応を受け取ったという。

ヒトはそろそろ、福島県民だけじゃなくて「裂け目」を生きるということがあるのだ、と気づいていい。

治療的排除的に一方的クリーンさを求める欲望からも、
統治し、数の上でヒトを効率的に生かしていく「生=権力」的な振る舞いからも

距離を置いて「分離」しつつてんでに共同性を求め直す道筋が私たちには必要だ。
自分自身が生きることからさえ、距離を持たずにはヒトは生きられないのだと、知っていい。

福島県民というカテゴリーを今「使用」することに意義があるとしたら、そういうことなんじゃないかな。
福島県とか20キロ圏内とか20ミリシーベルト/年とかいう区切りは、何かをあるいはだれかを同定するための機能としてだけ働いてしまいかねない。
でも、そうじゃないことにヒトは気づいてはいる。

「1ミリシーベルト/年以下であることが望ましい」
とか言うけれど、神様もいないのに「望む」って誰が何をどう、誰に対して「望む」のか。望んでどうなるのか?誰がそれを実現に向けて動かすのか。

「望みます」「願います」
というのは、現行ですべての権力から解放された「天皇」にこそふさわしい言葉であった、とふと、気付く。

無力であることと権力を行使してしまうことの隙間。
福島に踏みとどまることと逃走することの隙間。
村上春樹の世界像的にいえば、トーラス状の立体上に立ちつつ、その内側にあるドーナツの穴のような洞穴を見つめ続ける「非現実」と「現実」の隙間。

その中で単一の共同体を構成せず、「分離」「離散」しつつも粘る姿勢。
そういうところを私たち、いや、少なくても私は「生きている」「生きさせられている」のだと感じるのです。

たとえば東電第一原子力発電所で作業を続ける作業員の多くは福島県民だし、警戒区域から県内の他地区に避難・転校してきた児童生徒たちも福島県民だし、避難所暮らし4ヶ月目に入ってなおも体育館暮らしをするのも福島県民だし、日常がすっかり回復して、放射線量も低く、「どうして同じ福島と括られてしまうのか」と風評被害にいら立つ地区のヒトも福島県民だし、避難してきた親戚とバトルを繰り広げながら「避難民」の悪口をまきちらすおばさんもまた福島県民だし、都内の飲食店で福島ナンバーの入店拒否をされたりするのも福島県民だし、考えてもしょうがないから、何もなかったように「問題」を忘却して日々を生きる福島県民もいるし。

でも、その根底には3・11以後の「揺らぐ大地」(地面が揺れるという意味でも、精神的な安定という意味でも、社会的な基盤という意味でも)に対する「負の想像力」の渦巻きがグルグルしていることにおいて共通している。
原発事故の負の負債(負債は負に決まっている?)を自らが抱えていると思うヒトは、福島県民じゃなくてもその聖痕を「負の想像力」で背負うヒトだと思う。つまりは引き裂かれてる人々ね。

もう一度「日本」を、という言説に与するヒトは、その裂け目を回復すべき傷と見るのだろうし、引き裂かれた生をなおも生きるヒトは、それこそが生の与件だ、と見るのだろう。

これから先、なおも「福島県民」を生きるというのは後者であり、「日本人」を生きるというのは前者になるのかな。

反原発であっても原発推進であっても、前者のヒトが多い。
そういうヒトは「日本人」なのだろうね。

原発事故を「聖痕」と見なさなければ、そんな「福島県民」にならずに「日本人」であることを回復したい、と思うヒトもむろん福島在住のヒトにはたくさんいるでしょう。

当然「福島県民」として引き裂かれつつもさらに「日本人」としてもアイデンティファイしつづけていく、ってのが「ふつう」なんだけれどもね。

あー面倒くせぇ(苦笑)。

でも、そういうことはちょっと前までは、各自の「匙加減」に帰する問題であるかのように扱われてきた。

そういう意味では「いい時代」になった、ということでさえあるのかもしれない、ある意味ね。
だから、
「悲惨な現実によって傷つかなければヒトは生きることさえできない」
とは必ずしも思わないけれど、そうなってみないと「そんな風にしてもなおヒトは生きる」ということには気づかないっていうことはある。

そして、
「そうなっちゃった」
のだね。

さて、3ヶ月後の「今」から、いよいよ改めて問い直しをしなければならない事柄が出そろってきた感、があります。

また、ぼちぼち行きます。