龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

福島から発信するということ(6)

2011年06月26日 20時44分13秒 | 大震災の中で
「ポスト3.11の公共哲学」
http://www.pp-s.org/
に参加してきた。
内容は、現況考えるべき課題・問題点のおさらいとして最適だったと思う。

公共哲学の山脇氏、環境論から鬼頭秀一氏、正義論の小林氏、科学技術社会論の平川氏に、宗教学の島薗氏の5人のお話。

でも1人40分の報告は、ちと長かったかな(^_^;)

会場とのやりとりとかが、もう少しあると、もっと盛り上がったかもしれません。
また、パネラー同士のつっこんだ議論もなく、そこも残念。

ただし、ステージ横にはニコ生の放送画面が表示されており、ダダ漏れ的に流れ続ける書きたい放題のコメントと、先生方の真面目な発表のギャップは、なかなかに楽しかったです。

無論、遊んでるコメントが圧倒的に多いものの、思わずそうだよなあ、という突っ込みも時にはあり、このニコ生の画面があることで、逆にシンポジウムが救われていたかも、と、終了する頃には思いました。

時間のないところでしたがら、せっかく福島から来たのだからと、一つ質問させてもらっちゃいました。

福島にいる人間は、放射能汚染を目の当たりにしているのに言葉を持たず状況に耐えている人も多い。
安全だと言われてもなあ、とも思いつつ、すぐ逃げなくちゃ、と言われても、動きにくい。

公共哲学の担い手ということを考えたとき、これをどうしていったらいいのか、みたいな質問でした。

平川氏からは原発賛成とか反対とか単純に二者択一的な言葉を求めるのではなく熟議をやっていくべき(だって、原子炉を廃炉にするにも何十年もかかるわけだした、それと長く付き合って行かなくちゃならないのだから、ポスト原発とは、単純な賛成反対じゃない)との言葉を、山脇氏からは、公共性を担うべき言説の発話者を育てる教育の重要性、という言葉をもらって帰途に着きました。

単なる200万分の一が、あたかも福島県民を代表するような話になったらまずいとは思いつつ、しかし、何かは外部に発信していきたいとも思いますし。

難しいですね。

もはや福島は、世界中に流通する「原発事故被害」の代表的な「記号」になっているし、たとえその流通する「記号」性を措くとしても、研究され言及され観察される「対象」になってしまっていることは間違いない。

その中でどんな言葉を発しつづけていくのか。
また日常の中で考えていかねば、です。

シンポジウムは、本にもなるそうですし、4時間5人の発表内容はまとめきれないので今回はパスします。

そういえば、鬼頭先生の評論、授業で扱ったことがありましたね(^^)

今日はちと疲れました。
お休みなさい。