龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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福島から発信するということ(4)

2011年06月19日 21時59分53秒 | 大震災の中で
明日から、被災者・罹災者は(被災・罹災の証明書を提示すると)東北地方の高速道路が無料になる。

私は個人的にクルマを走らせて遠出するのが趣味なので、高速道路原則無料化賛成派だ。
そしてさらに、今回は恩恵を受ける被災者の立場にある。

それでいてこんなことを言うのは躊躇われるのだが、正直「なんだかなあ」と思う。

むしろ東北地方以外の人たちに、観光とか救援とか物流とかでたくさん訪れてもらって、さまざまな支援活動なり経済活動なりを東北地方にもたらしてもらうのが大切なんじゃないか、と友人が呟いていた。その通りだと思う。

私の場合は、家の瓦がビニールシートで応急措置をしているのと家の土台に多少のヒビが入っているのとで、いずれそれを100万円単位のお金をかけて補修しなければならないけれど、それ以外は飛散放射能の危険(だけ)だ。

個人としては、停電や断水、道路の断裂は昔のことになりつつある。

まあ、近くには未だに水道が出ない場所もあるし、先日危険家屋の解体が私の家ちかくの崖上で始まったりと、それなりに「被災」の現実は見聞している。
海岸線では壊滅的な状況が今もそのまま残っている。
数日前もと同僚が、200戸以上あった海辺の集落で、残ったのは十数戸だけだったし、今もインフラは回復していないとも聞いた。
音信不通だった海沿いの別の友人は、埼玉に避難していたが、県内に最近戻ってきたとも聞いた。

具体的にはそれなりに被災の現実はある。

でも、それと被災民の高速無料化とが、残念ながら今ひとつきちんと結びつかないのだ。

せめて、この夏は宮城とか岩手とか福島県内の、観光地の温泉とかに行こうと思う。

P.S.
被災証明を発行するかどうか、その基準をどうするか、は各自治体に委ねられているのだという。
ちなみにいわき市は市民全員が被災。
それはことによると、市長がいちはやく?「安全宣言」をし、始業式を敢えて4月6日全小中学校実施し、いわき市に市民を踏みとどまらせたお詫びか……。

これもまさかねえ。

でも、まったくもって「なんだかなあ」だ。

福島市は罹災証明は出すが、全員被災者として証明を発行することはしないという(6/15現在)。
飛散放射能線量は、場所によるのだろうけれど、県の発表でいわき市の5倍以上。

その「匙加減」をどう考えればいいのやら。



福島から発信するということ(3)

2011年06月19日 21時28分37秒 | 大震災の中で
三春町在住の小説家・住職である玄侑宗久氏のサイト
http://yaplog.jp/genyu-sokyu/
の6月18日更新記事に書かれていた仮設住宅の問題が気になる。
仮設住宅が出来れば、避難所から住宅へ避難者は移動しなければならなくなっていくだろう。
しかし、仕事も土地も失った人々の中には、自活するのに困難な人も少なくない。

仕事を街中に見つけられた若い層は、借り上げ住宅を都市部に見つけて移動してもいける。
しかし、仕事も見つからず、経済的に余裕もない人々は、様々な経費がかかり、孤独な生活を強いられる仮設住宅に住みたいとは思わない場合もあるに違いない。

玄侑氏は、そんなことは阪神淡路大震災の後から分かっていたはずではなかったか、と指摘する。

仮設住宅は、解体作業まで含めると一戸600万かかるのだとか。
もっと支援のお金を有効に使うことはできなかったのか、とも。

当たり前だが生活を可能にする条件は、単なる「箱」としての「家」ではない、ということだ。
被災はm100日後も日々さまざまなところで続いている。





福島から発信するということ(2)

2011年06月19日 21時05分59秒 | 大震災の中で
ここのところ、週末避難が続いている。今週は週末哲学に逃亡してきた(笑)。
正直、被災し、大学に間借りしつつ高校の授業をする生活は、いろいろと「疲労」が蓄積するのです。
年っていうこともあるのかもしれません。というわけで、

対談「スピノザの哲学」國分功一郎・萱野稔人 於:朝日カルチャーセンター6/18
内容は下記にまとめるので参照してみてください。

メディア日記

http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=ee1a9480836a9663fe44874d25e27f18

ここに参加することでずっと考えていたことが、少し整理できたような気がする。

デカルトは、与えられた結果から遡及して作用原因を追求し、世界原因=神に到達しようとする。
17C以降の「理性」は、このデカルトの考え方の方向で強化され、19C以降「常識」となってきた。

しかし、スピノザはそうは考えない。人間にはあらかじめ根本原因は与えられていない。だから、神=世界原因から初めて総合的・演繹的に世界を説明するためには、まず「知性を改善」して、「神の観念」に至ることが必要だ、と考える。

前者が分析的に他動因・作用原因を考えて、結果から遡及して原因を考えていこうとするのに対して、
後者は、総合的に、私達の存在可能性を支える条件を考え、その条件を踏まえて総合的に世界を認識していく。

私は、今、大地震・大津波・原発事故という大災害に直面して考えて行くべき方向性は、前者ではなく後者の哲学に依拠することだと強く感じています。

デカルトからスピノザへ。
(それを経済学者安富歩はニュートンからホイヘンスへ、という形で論じている。『経済学の船出-創発の海へ-』NTT出版)

たとえば海江田大臣(菅首相も今夕同意したみたいですが)が、休止中の原発に対して「安全確認」ができたから、再稼働を進めたい、と発言した。
この「安全確認」はどういうことか?

大地震・大津波

東電福島第一原子力発電所の事故が起こった。

その結果から原因を遡及して考える

チェックと対応

できることはやった(できないことはやっていない……だと思う……)

+経済的な安定的電力供給の必要性

再稼働要請

みたいな流れなんじゃないか。

でもね。
大津波も大地震も放射能も、私達がこの世界-地球-日本に住み続ける限り、避けて通れない
「生存可能性の条件」
だ。
制御できない放射性物質の扱い。防御できない大津波の力。予測不可能な地震の襲来。
これらは、たまたま偶有的に起こった原発事故の原因を遡及して「対応」していけばクリアできる条件ではもともとない。

これは、何かを研究したり分析したり、データを蓄積しなくても、哲学的に認識すべきこと、なのではないか。

私がこのブログでぐずぐず考えるともなしに呟き続けてきた

「人為」=≠「自然」

というのもその辺りに関わっている。

たとえば、グランドキャニオンやナイアガラ瀑布、富士山でもキリマンジャロでも、ギアナ高地でも、大自然の「力」を目の当たりにして私達は自然の「崇高さ」「偉大さ」を感じるけれど、それを決して脅威には感じない。

圧倒的な脅威と感じ、瞳を釘付けにされながら何度見てもその実質を受け止めきれずに瞳を逸らさずにはいられないのは、「人為の裂け目」から「自然」を垣間見る瞬間だろう。

あの津波の後の瓦礫を見た私は、言葉を失い、カメラに撮ることも躊躇われ、瞳を逸らすこともできないまま、茫然と受け止めようのないショックを受けた。
また、原発事故による放射性物質の飛散状況の報道をつぶさに見守り続け、自分の「視界」に入れることができないまま、生存可能性の条件がどんどん「狭められていく」のを感じてきた。

そして今も感じ続けている。

それはけっして単なる「自然」の脅威ではないのだ。

私達が「テクネー」によって築き上げてきた「人為」が、圧倒的な「可能性条件」の究極である「神」=「自然」の力によって引き裂かれ、「人為の裂け目」を目の当たりにすることによって初めて、怖れがその裂け目から不可視の現実として招来しているのではないか。

だから、私達が今瞳をこらすべきなのは、「自然」でもなければ「人為」でもない。
そういう二分法では、この「裂け目」はついに見えてこない。

自然という根本的な
「存在の可能性の条件」(1)

と、

インフラストラクチャやさまざまなアーキテクチャ-として私達の「人為」的生活の基盤となっていた、社会的な
「存在可能性の条件」(2)

とを、「総合的」に見つめ続ける必要がある。

失敗した原因から遡及して、あるべき「原発」の姿をこの数ヶ月で提示できるはずもない。
「生存を支える可能性条件」
が満たされていないことは、福島の住民ならずとも、身に沁みて感じたはずだ。

(エコロジーとの関係も両氏は言及していたが、そこについてはまた後日触れる機会を持ちます。)

素朴に「福島を返せ」と叫びたい心情も分からないではない。
しかし、少なくても私は、そういう「叫び」として言葉を用いることはしない。

「生存を可能にする条件」を、しっかりと瞳を凝らしてみつめ、考え続けていきたいのである。