龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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震災後を生きるということ(その4)

2011年06月04日 14時39分54秒 | 大震災の中で
こんな風に考えるのは、入院先で寝たきりになった父親が、どんどん見当識を失って行くのを、大震災と同時進行で目の当たりにしたことが大きいのかもしれない。
彼は最後まで「家に帰りたい」と言い続けていた。

無論病人はふつう誰でもそういうものなのかもしれない。私は別荘気分で結構楽しかった記憶があるが、それはあくまで帰る場所があったから、なのだろう。

ともあれ、彼はもはやもとても帰宅できる状態ではなかった。そのとき帰りたいと語り出される「家」は、彼の、失われていく記憶の海原の中に時折現れる幽霊船のようなものにすぎない。

かれが人生の最後の何週間か参照していたのは、もはや彼の未来にとっては存在しない、しかし過去の記憶の中でもっとも大切な「家」である。

震災以前に存在していて震災後には決定的に失われたものの「記憶」を考えるとき、私にとって、この父親の最後を看取るときの体験と震災とが、強くシンクロし続けている。


それは、失われたモノは戻らないという喪失体験を隠蔽し、回復可能な傷であるかのように捉えなおして適応しようとする心の中の「勢力」と、忠犬ハチ公的に失われたモノをいじらしくも待ち続ける身体の中の「姿勢」と、二つの身振りを同時に拒否しようとする強い反発の核にもなっているようである。

死を迎えようとする病人にとっては、病院は二度と生きて出ることのできない最終的な収容の施設だ。
症状が進行してしまっている以上、家にはもう帰れない。
しかし、震災後に、病院閉鎖の危機が迫ったとき(結果としては最後まで医師に看取ってもらうことができて幸運だったのだが)、

「今、物資が全く届いていません。看護士さんの通勤のガソリンも確保できません。もし万一病院が閉鎖になったら、お父さまの今の状態では避難することもむずかしいでしょう。退院するということになれば、後はご自宅で、ということになりますが、そうなれば最後を看取ることはできなくなってしまいます」
というアナウンスを受けたとき、
「ああ、そうなんだ、彼は病院でなんとか生かされているんだな。そして私たちも」
と改めてしみじみ感じたのだ。

父がたまたま最期の時を、被災した病院の中で迎えた、というだけのことかもしれない。
そして私はたまたま彼を病室で看護しながらあの3/11を迎えただけのこと、なのかもしれない。

偶然と言えば偶然にすぎない。

しかし、私はそのときそこに、神さまなき身の上ではあるけれども、死と向き合う父親と、大きな崩壊をもたらす大震災と、その後に起こった原発事故との三つの出来事によって、まちがいなく「生かされている」という感覚、いわば聖なる痛みの刻印を受けたのだと思う。

その「場所」から見ると、「災害復興」を早く行うこと、というだけの方向性は、まるで原発をもう一度作ろうとでもしているかのような違和感を抱くのだ。


津波の被災地である海沿いの集落をまた敢えてそこに作るかどうか、あるいは放射能汚染を受けて避難した地域の人々は、一刻も早くそこにもどるべきものなのかどうか。

もちろん答えは簡単には出ない。
人為の側だけの地図を参照しただけでは、簡単には答えのでない種類のことだと気づかされてしまったのだ。

それは過去の津波を参照しろ、というレベルの科学的な話ではなくてね。

もちろん回復したい思いは痛いほど分かる。
欲しいのは特別なことではない。きっと、何の落ち度もなく暮らしていたあの日常をもう一度戻してほしいだけなのだ。

しかし、それはいくら正当なものであり、心情的には共鳴できるものではあっても、失われた過去の記憶に向けられた見終わらない夢であることもたしかなのではないか。

私は、あるいは穏当を欠いたことを書いているのかもしれない。

しかし、たとえ原発から20キロ圏の立ち入り禁止が解除され生活が再開されたとして、それが農業と漁業の旧態を回復することになるとは到底思えない。

長期的には分からないけれど、帰る場所が予め失われた「避難」、と考えるのが妥当だろう。

「もう一度」

と言う前に、収容施設に過ぎない避難所をなんとかしてほしい。帰る場所を失ったヒトを支え得る「生きる基盤」とは、どういうことなのか、どうかみんな知恵を絞って考えてください。

避難所、あれは一週間か二週間が限度です。
待って1カ月。
私たちが憲法で保障された健康で文化的な最低限度の生活以下だ、ということを、真剣に考えてほしい。
復興予算の捻出問題とか、法案成立とかいうレベルじゃないとおもいます。

失われた記憶なんぞにお金をかけるのは、実は復興とか言いながら、金を回せる奴らの発想だし、政治の発想に過ぎない、と、私は感じる。

失われたモノを慕う忠犬ハチ公的心情につけ込んで、復興を旗印に仕事をしようとする人たちと、新たな生への促しを支援することは、切り分けるべきではないか。

難しいのは分かる。
援助するがわはその区別はなかなかつかないかもしれない。


そして、短期的には援助の徹底が必要だ。現場の「難」を逃れた人を手当しないでどうする、ってことだ。

でも、それだけではいずれ立ち行かなくなる。
でも、持続的な支援は、経済的にも、環境的にも、文化的にも「回し続けられるもの」でなければならない。


では一体被災者は、これから何を参照しつつ「新たな生」を立ち上げていけばよいのか。

どう考えても「前と同じ」のはずはない。

また、関西まで逃げればよいと言われてもできない。受け入れるよ、と言われれば、ありがたいけどやっぱり無理だと思う。

繰り返しの再現前ではない、この土地における、差異を孕んだ反復。

生物的反応でもなく、動物的学習と反復でもなく、人間が作り上げた時間と空間の認識上に展開されてきた「人為」的世界像の再生・修復でもなく、できることを(場合によってはその場しのぎにみえるようなことであっても)、この場所で考え続け、行動し続けて生くにはどうすればいいのか。
相変わらず答えは風の中、か。


震災後を生きるということ(その3)

2011年06月04日 12時28分36秒 | 大震災の中で
例えば避難所の暮らしを考えてもいい。
食事一つ、いや食器一つ、トイレ一つとっても、出来の悪すぎる「キャンプ」生活だ。
それは、食器や食事、トイレにとどまらない。私たちそのものが、人為的な「自然」が失われた結果、全てがぎくしゃくした「意識」の上で執り行われている「お世話」の対象、オブジェクトとかしてしまっているということに他ならない。

避難所、という名前もよくない。
仮設住宅というのも名前が悪い。
実情は収容されている生き物の管理所だ。

だって、この大震災後には、避難から戻るべき場所は完全に失われている場合が少なくないのだから。

それはすでに「避難民」じゃなくて「難民」だろう。
原発事故による「難民」、津波による「難民」と、不謹慎を承知で国の中で、いやもとい、口の中で呟いてみればいい。


君が代歌ってる場合じゃねえ、と、余計なことまで呟いてみたくなるぐらいだ。

いや、戻りたいのは分かります。復興したいのも分かります。どうぞ頑張ってください。止めません。可能な限り援助もするべきでしょう。

でもね。被災民の端くれとしては、何を参照して「復興」というのか、が、個人的にはものすごく大きな問題なのです。

予算が付いて、ブルドーザーがはいって、建物を建てて復興景気に湧いて、箱物や住宅ができたら借金が残った……
そういう過去は参照しないのか、と。
農業も漁業も山間部の酪農も、置き去りにされてボソボソ地域に根付いてなんとかやってきた、それを再現すればいいのか、もしくはなんだかわならない未来都市の出来損ないみたいな街に「連れて行かれる」のか。

適応は、大事。
ある場合には失われたモノを参照したい忠犬ハチ公も必要でしょう。
一念発起して地図作りの旅に出た伊能忠敬のようなことだって「庭の外」にはあるのかもしれない。

「参照可能性」の限界を踏まえて、途中下車してじっくり考えることが、自分の大切な役割の一つなのかもしれないとも。
行き先の分からない電車に乗っている者としては、急ぐ理由が見つからない、のです。
「人為」=&≠「自然」
の裂け目を目の当たりにしていきる、ということは、
その多重化した
自動機械としての「自己」=「社会」=「自然」
を、ちゃんと瞳を凝らして見つめる格好の観察期間、だと思うんだけどね。

そこで「天罰」とか「神」とか口走る亀井静香や石原慎太郎の無意識過剰は、天皇の振る舞いに心が動かされることとどこかで通底してもいるのかもしれないね。
芸能人のみならず炊き出しとも。

でも実は、私たちはやはり、処理されるべき対象でもありつづけていたのではないのか?

主体たるべき自己とは、生活それ自体の
「人為」=「自然」
という空想のもとではぐぐまれた便利な「付帯機能」ではなかったのか?

ついでにそういうことも含めて考えさせられます。

聖なる痕跡を巡って、さらに妄想は続きますが。





震災後を生きるということ(その2)

2011年06月04日 11時47分37秒 | 大震災の中で
しかしその生物的な適応は長続きしない。というより、その反応は元来「緊急時対応」にすぎないのであって、長期化すれば、緊急の過剰な反応レベルは、低下していくことを避けられないだろう。

それは、生物的なレベルばかりではなく、社会的な学習のレベルでも共通している。

生まれ育った土地。その環境に対する「愛着」は、単なる「物神化」の結果ではないだろう。環境の中で学習し、適応し、それを継続的に蓄積してきた結果として「身に付いた」、意識に上らない基層として私たちの「生」を日々支え続けている。それはもはや幾分かは「自分自身」そのものでもあるのだ。
餌場はどこか、住処はどこか、社会的な振る舞いを学ぶ時空間はいつどこに現出するのか、学校で、職場でどんな身体性が要求され、どんな社会的身振りが必要とされるのか、そういうもの全てが、具体的な「空間分割」によって支えられ、強化され、人為によって支えられている。
そういう意味では、言い古されたことだがこの「人為に満ち溢れた」故郷は「第二の自然」でもあるのだ。

獣でもある人間は、第一の生物的基層ばかりではなく、この第二の社会=脳みその時空間分割を「自然」として生きているといっていいだろう。

だが、この「社会的な身体訓練によって作り上げられてきた第二の基層は、臨界期を持つ。音楽とか、言語とか、スポーツとか、愛情とか、学習とか、およそある種の個人的身体を伴った技術を必要とする社会的なことがらは、制度設計の面でも、身体適応の柔軟性からいっても、臨界時を持たざるを得ない。

「四十の手習い的」伊能忠敬モードはいつの世にも例外的に存在するが。

「成獣」となってからの新たな適応は、妖精=幼生の時よりも各段に難しい。
あとは、既に成立し、脳に刻まれた世界像とそれに対する「反応」のデータベースによって日々を事故なくドライブしていくことが出来る「はず」だ。ある意味、自分の作り出した「人為」に「動物的適応」をすることで、最適化してしまうという倒錯を生きることになる、といってもいい。

古今東西の文明はこのようにして滅んだのか、と隠居ジジイの感慨めいたコメントは不要だろうが、前提を自ら作り上げ、そこで「動物化」することによって「最適化」をはかるエンジンがどうしても働いてしまうのだね。

「時間と空間」の認識を前提としてヒトはヒトとしての「生活」を現実世界と脳みその世界と、同時に二重化して生きていく。考えてみれは当たり前、のことだ。
そしてその当たり前を自動的に運営してくれる人間の脳はなんと高機能なのだろうか、と感心もする。

しかし、その便利さは、諸刃の刃でもある。

その便利な脳の機能を駆使して、作りあげられた人為的事物が、次々に前提としてくりこまれ、参照可能な「第二の自然」として扱われて行くことになる。

その挙げ句に、私たちの中には、忠犬ハチ公的に帰らぬ第二の主人を待つ「犬」が私たちの中に立ち現れるのだ。

まちつづけるのは「主人」か、「自然」か「人為」か。存在しないものを参照しつづけるヒトの脳みそは、実は地震に怯える犬とどこがちがうのだろう、と考えてしまうのだ。


ちょうど家で飼っている老犬が、地震が起きる度に「この庭」からなんとか逃げ出そうとするように。あたかも目の前にある足の下の「この庭」こそが揺れてでもいるかのように。

本能ではない。

明らかに犬なりに思考と判断は機能している。しかし、揺れているのが「この庭」だけではないことを老犬は「知る」ことができないのだ。

なぜなら、犬が参照可能な脳みその記憶とそれに基づく判断を、私たちは書き換えてあげられないから。

「地震だよ落ち着いて」、と言うことばは、永遠に老犬には通じないから。うちの婆さんはいつも犬に毎回言い聞かせてるけどね(笑)。


そして震災後の「問題」はこの庭から飛び出しても、解決しないところにとりあえずの面倒くさい本質の一つがあるようにおもうのです。
「動物」である人間にとって「庭」はどこか?

次第にまた分からなくなってきたけど、この項続きます。(つづく)



震災後を生きるということ(その1)

2011年06月04日 08時23分24秒 | 大震災の中で

先日、「震災後」を生きていると書いた。
それは、
「壊れてしまった/失われてしまった」
ことをゆっくり受け入れる暇がないまま、やむを得ず次にやってきた「電車」に乗り込み、行く先もわからぬまま揺られているような感覚だ。

帰る場所への道は断たれているのに、行くべき先は分からないまま。

実は、ふだんの日常だってそうだったのかもしれない。でも、
体=脳みそ
が「覚えている」地図に乗って動いていられるうちは、断崖の横でもすり抜けられたし、深い溝でも何気なくジャンプできていた。

しかし、大きな「喪失」や、根本的な社会・生活・経済上の「基盤変化」を被った者にとって、その
「破壊・喪失・変化」
は、単にA地点からB地点に移動したことにはならない。


トラウマとか、そんな話じゃない。
心理的に構成された世界像の書き換えが上手く行かなかった、というのが本当なら書き換えをうまくすることだけが一義的な問題になる。
しかし「適応すれば解決だ」っていうのは、「心理学」や「精神分析」の虚妄(少なくてもそれを道具化することの錯誤)だと、「震災後」を生きてみると分かる。

確かに物理的身体は徹底的に「今」の「環境」を生きているのかもしれない。
新たな環境に投げ入れられればそれに懸命に適応し、サバイバルしようとする。

しかし同時に、ヒトはいくつかの意味でその身体との乖離を生きることになるだろう。

まず、身体と脳みそが自動的に動く身体的な習慣がある。
ある意味で無意識に、といっていいだろうが、刷り込まれた本能や脳みそのレベルでの反応(危機に際して免疫があがるとかアドレナリンが出るとか、あるいは仲間の様子をより強く見て同調しようとする傾向をみせるとか)があるだろう。
プログラム参照のレベルと言ってもよい。(続く)