龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島から発信するということ(5)

2011年06月21日 22時27分23秒 | 大震災の中で

「誰が」「何を」「どのように」語るのか、ということ。
昨日、地方紙の民友新聞に、山下俊一教授のインタビューが掲載されていた。
じっくり彼の発言を読んだ上で、改めて指摘しておきたいことがあったので、少し書く。

引用が長くなるが正確を期すために引いておく。

「国際的な政策論で被曝は100ミリシーベルトを超えてはならない-とされているが、これ以下で住民の安全をいかに確保するかというとき、20ミリシーベルトは厳しいレベル。自己が収束しない段階では理にかなっている。『平時は1ミリシーベルトだから』と言われるが、現実的に(放射性物質が降下し)それは不可能で、文科省は段階的にしか下げられないし、今後も根拠になる」

「福島の人は原発事故と放射能汚染で、一人では背負いきれない大きな重荷を負った。我慢の時に誰かが重荷を背負う取り組みが必要。将来がんになる恐怖に対し、リスクをどう判断するか、自分自身の覚悟が問われている。去るのも、とどまるのも、覚悟が必要。自分の子だけがかわいいという利己的では、共に重荷は背負えない。チェルノブイリでは政府が情報公開せず、政府にだまされた。国が崩壊して突然情報が溢れ、住民は不安の中で逃げろと言われた。われわれは福島の応援団で、『チェルノブイリにするな』『人心を荒廃させない』と考えている。福島で頑張ろうという人がボランティアで、日本全体で支援するということを、県民も理解してもらわないといけない。過保護を否定はしないが、子どもには苦労をさせるべきだ。ストレスの中できちんと自己判断する苦労。○×の答えがないグレーゾーンの中でリスクと便益を判断する。海図のない海に出るのが覚悟の意味です。」
福島民友新聞 総合7版(2011年6月20日(月曜日) 第3面 県放射線健康リスク管理アドバイザー山下俊一氏に聞く

山下俊一教授は、100ミリシーベルト以下は大丈夫、という趣旨のことを繰り返し公言している。
専門家の間でも一致していない100ミリシーベルト以下の低線量・長期被曝の影響自体については、ここでは論じないが、山下俊一教授の「知見」や「態度」を、政治がどう用いるか、が問題のカギだ、とは以前にこのブログで指摘した。

人類の「人為」のリミットとして「安定的電力」を首都圏に提供し続けてきた原子力発電所がこの大規模な放射能汚染を引き起こした以上、私達の課題は、この究極の「人為」が破けたその「裂け目」によってもたらされた放射能汚染という「現象」を、どう受け止め、どう対処していくか、だ。

このとき、あくまで私達が「主語」=サブジェクトにならなければ、全く意味がない。

放射能汚染という「可能性条件」を提示されて、私達福島県民が、これにどう向き合っていくか。
それは、私達自身が私達自身の声で、それを発話していかねばならない。

山下俊一教授の言説は「支援」といいながら、徹頭徹尾「パターナリズム」(注)に裏打ちされた「恫喝」的説明=説得に終始している。問題の根幹は、100ミリなのか1ミリなのか、ではなく、私はその言説権力の様態にある、と見る。

「一人では背負いきれない重荷を負った」
「誰かが重荷を背負う取り組み」
「覚悟が必要」

どれもこれも、言説としては大きなお世話だ。科学的知見自体も基準の甘いアドバイザーだな、という印象を持つが、その基準自体よりも問題なのは、このパターナリズムを全く問題だと考えていない「愚かさ」だろう。確信犯的におろかさを演じているつもりであるしても、あるいは本気で「善意」を信じているにしても、そのあまりの「すっとこどっこい」さに目がくらむ思いがする。

私は、「この重荷」は一人一人が背負う以外にない、と考える。
私は、「重荷」は誰かに交換したり分け持ってもらうことができない種類のもののことだ、と考える。
私は、「覚悟」というものは、どこからかよそ者が来てお節介に「教えてもらう」種類のことではない、と考える。

百歩譲って、山下俊一教授の言説に「依存」した県民もいるのかもしれない。
しかしそれは、山下俊一教授のことばに依存するばかりで、とうてい彼自身の意図する「覚悟」には到達しえないだろう。
いや、もしかすると、徹頭徹尾パターナリズムを貫徹することがこの人の欲望なのだろうか。

強者で知識を持ち、県民を指導する立場にある支援者=山下俊一
弱者で重荷を背負えず、情報の氾濫に混乱し、指導される立場にある者=県民全部

そういう図式がこの教授の言説には満ちあふれている。問題は、そこなのだ。

ついでだから言っておくと、1ミリシーベルト/年以下の基準でなければ即刻福島を退避すべきだ、という「啓蒙」を続ける良心的な医療従事者や研究者もまた、立場は逆だが、同じパターナリズムを感じる。

先日Twitterでも流したが、まるで福島県民は放射能飛散の危険性を理解せず、大本営発表を鵜呑みにするように政府の発表や山下俊一教授の言説に依存して無感覚になり、安心しているかのような理解を、言説として生産してしまう人もいて、挨拶に困った。

いくらなんでも、んなわきゃねえだろうに。

私達は、私達自身がサブジェクトとなって、与えられた可能性条件の中で、主体をあらためて選択しなおすことが必要だ。

それでなくても、福島県は「フクシマ」というオブジェクトとして語られる「対象」と化している。

まして、外部からは弱者である「フクシマ」を「支援」しようと、処理されるべき「対象」として、県民がどう「主体的に振る舞うべきか」を「指南」してしまうパターナリズムの言説がさらに溢れかえっている。

いらいらしたついでに少し大げさに言ってしまえば、外部からの言説の8割から9割は、結果として「強者」のサブジェクトたらんとする欲望を生きてしまっている。たとえ善意から出た言葉であっても、だ。

それらのパターナリズム的言説は、結果として、私達福島の市民を対象=オブジェクトとして扱うことによって物象化してしまい、思いどおりの<「小さな」「裂け目の入った」「弱く」「愚かな」「支援を必要とする」「主体」>に仕立て上げようとする欲望を生きている、といっていいだろう。

しかし、私達は既に、十分に引き裂かれているのだ。

それは、大震災以前は「幸せ」がそこにあったかのような叙情的幻想とは異なる認識である。

大震災と原発事故の放射能飛散で初めて気がついたと思っている人も多いのかもしれないが、実際はそうではないだろう。

福島県民の少なからぬ部分は、原子炉事故を、全く意外性のないものとして受け止めていたと思うよ。

少なくても私は大震災と原発事故の放射能汚染で、
「初めて/あらかじめ気づいていたことに/後から気づかされた」

その限りで、私達は無垢ではない。
背中に受けた「人為の裂け目」の傷を、放射能汚染と共にそして雇用の喪失とともに、「人間」として生き続けなければならないだろう。

だからこそ、パターナリズム(注)の言説は、ごちそうさま、なのである。

私達は海の魚も、田の米も、畑の野菜も、果樹園の果物も、綺麗な風景も奪われた「弱者」だ。
そういう意味では、21世紀の代表選手的な被災者には違いない。
だが、同時にそんなことが十分起こりえることにも気づかなかった「日本人」の代表選手としての「愚か者」=「普通の人間」でもあるのだ。

そして、それでもなお、福島があの貧乏だけれども輝きを持った自然を誇れる場所であったことを、なお大切にしつつどうにかしてそれを取り戻したいと「祈る者」でもあるのだ。

さまざまなレベルで「聖痕」としての「裂け目」を私達は放射能汚染によって刻印されているのだとつくづく思う。

それは究極の「人為」によるものなのに、「自然」の半減期を待つ以外に「人為」ではどうすることもできない。

注意深く避けることしかできないのだ。

これは文字通り、スピノザの哲学の底流に流れている「生きる可能性条件」としての「神」=「自然」そのものではないか。

社会的可能性条件と、存在論的可能性条件を混同する科学者の言説の典型として、山下俊一のこのインタビューは、記憶すべきものであろう。

「福島で頑張ろうとする人がボランティアで」

という表現は、「公共性」ということを取り違えている。
少なくても私が福島で生きているのは断じて「ボランティア」(自主的行為or利他的行為or公共的)ではない。
どんな定義でこの言葉を使っているのかも明確ではないが。

私が福島で生きているのは、経済的な「計算」だけでもない。政治家は避難規模のコストで限界線量の設定をするんだろうけれど。

惰性?習慣?人間関係?

無論
「人間いたるところ青山あり」
なわけだし、どこにいったって食って行ければそれでいい、とも言える。
覚悟があればそれも可能だろう。
でも、覚悟はすぐれて個人的な問題だ。

今起こっていることは、個人的な選択の問題だけではない。

そして、今起こっていることは、社会的な共同体や経済活動や政治的限界や科学的知見の問題だけでもないのだ。

私達は、どうしても自らの身体と、生きてきた時間と空間、思考の全て、を用いて、自分で「世界」のありようにたどり着かねばならないのです。

それは、自分自身の「存在論」を獲得しなければならない、ということでもある。
「人為=≠自然」
の出来事によって、私たちは「裂け目」を背負った。

「社会」と「自然=世界」との間の「裂け目」を背負った「個人」は、存在を根底から問い直さずにはいられなくなる。

少なくても、山下俊一レベルの「覚悟」では不十分だと思う県民が多い、ということだろう。
(個人と社会という軸でしか考えられていないんだもの)

確かに政治的な現実、経済的な事情、科学的根拠、といった事柄は、「社会的」な可能性の条件、ではあるのだろう。
1ミリシーベルト/年以下の基準だと100万人以上の避難が必要で、そのコストはどれだけになるのか、とかね。

でも、私達が直面しているのは必ずしも「社会的」な可能性条件の問題だけではないのではないか。

人間が生きるということの可能性条件を問い直すこともまた、福島の民には突きつけられているのだと思う。

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(注)パターナリズム

パターナリズム【paternalism】 父親的干渉。温情主義。父権主義。(大辞泉)

pa・ter・nal・ism-ランダムハウス英和大辞典
n. (人間関係・仕事・政治などでの)父子[家族]主義,温情主義,父親的干渉[統制] The employees objected to the paternalism of the old pres ...

パターナリズム[カタカナ語]-情報・知識imidas
[paternalism]父親的温情主義.父親的干渉.親が子に温情をかける行為. ...

パターナリズム[生命倫理]-現代用語の基礎知識
医療父権主義 。慈悲深い父親としての医師が、無知な子どもとみなされた患者に代わって治療方針を決定する