お昼ぐらいの便でミュンヘンを後にした。乗り換えはソウル。インチョン空港でしばらく仮眠をとって福岡へ。無事帰国。
まぁしばらくはイタリアの余韻を引きずるだろうな。
というわけで長旅も終了。明日から仕事!
「夢のあと」
夢のあと 今とりあえず 風呂恋し
蔵
宿をチェックアウトし、早朝の水上バスで空港へ。ルフトハンザでまずはチューリッヒへ。そして乗り換えてミュンヘンへ。
チューリッヒへ向かう途中、アルプスの上を飛んだが連なる雪山の美しさは息をのむばかりだった。God Almighty! なんという素晴らしい仕事。
アルプスを見ながら思った。次は是非アイガー北壁を見に来ようと。そしてトニー・クルツとアンドレアス・ヒンターシュトイサーが死んだ場所までケーブルカーで登るのだ。アイガー北壁は世界でも登攀が困難な3大ルートの一つ。芸術品のように美しい山だが多くの登山者の命を奪っている死の山でもある。山男たちが果敢に挑戦した壁を是非見てみたいのだ。
ミュンヘンの空港に降りた時、外の景色にまず目を奪われた。美しい自然とそれに調和して点在する家。空港から乗った電車の中からの郊外の眺めも素晴らしかった。
駅を出て初めてドイツの街並みを目にした時、まず思ったのは「きれいな街」ということ。古いものと新しいものがうまく共存している感じ。清潔感もあった。だがさすがにイタリアよりはだいぶ気温が低かった。
わずか1泊のドイツだがめいっぱい楽しんでやろうと宿に荷物を置いてすぐに街へ。姫は買い物に夢中。
夜は2軒のお店をはしごしてビールとソーセージやホワイトアスパラの料理などを堪能した。とにかくビールがうまい。この旅行中にドイツビールを3種飲んだがどれも甲乙付け難し。いくら飲んでも飽きない。帰国したら同じビールがどこかに売ってないか探してみようと思った。お店の冷やし加減もちょうどよかったのかもしれない。それに炭酸が強くないことも。ソーセージやプレッツェルがあればなんぼでも飲める。なるほどさすがに本場は違うと唸らせられた。
最初の店ではメニューが全てドイツ語でどうしていいか迷っていたら、なんと隣の夫婦が英語でいろいろと教えてくれた上に代りにオーダーまでしてくれた。奥さんはリコーで働いているということだった。これもなにかの縁か。わずかな時間しか話せなかったがとてもいい思い出になった。異国での人とのふれあいはいいもんだ。
最後に行ったお店は市庁舎の建物の地下にあったが、ワシらが店を出て市庁舎の中庭から出ようとしても鍵がかかって出られなかった。市庁舎だから閉まってしまうのだ。お店の人にきくと店の反対側から出られるようになっていた。ちょっと焦った。
写真を撮ってたら通りすがりのおじさんが2人一緒に撮ってあげようかというので頼んだがこのおじさんがからきしカメラが駄目で何度教えてもうまく写らなかった。とうとうおじさんでは駄目で横で笑っていた奥さんが撮ってくれたがワシらも大いに笑わせてもらった。
「いざない」
思いやり ミュンヘンビール ソーセージ
われさそふなり ゲルマンの風
蔵
昨日の雨のせいか朝のヴェネツィアは霧に包まれていた。だが陽が高くなってくると霧は晴れて素晴らしい快晴になった。ヴェネツィアを堪能するには最高のコンディション。
道は迷路のように入り組んでとにかく狭い。両手を広げられない所もある。そこを観光客がどっさり歩いているから大変な混雑だ。かつてゲーテはこの道を地図も持たずに適当に歩いて街の全体像を把握したと「イタリア紀行」に書いていたが方向音痴のワシにはとても無理だ。
「サン・マルコ広場」はヴェネツィアの中心地。世界で最も美しい広場と言われているが、誰が初めに言ったにしろそれを否定する人はほとんどいないだろう。本当にこれ以上美しい広場があるなら見せて欲しいものだ。
宿に昔の「サンマルコ広場」の絵が飾ってあったが、そこに描いてある人々の衣裳が違うだけで、それ以外は今と同じだ。なんと素敵なことだろう。願わくばこれから先もこのままであって欲しい。
ちなみにサン・マルコとはヴェネツィアの守護聖人マルコのことだ。新約聖書にある「マルコによる福音書」を書いた人。
「ドゥカーレ宮殿」は総督邸兼政庁だった建物で8世紀に建てられた。運河を挟んだ対岸の牢獄とは有名な「ためいき橋」で繋がっている。罪人がこの橋を渡って牢獄に行く時、そこから見える景色がこの世の見納めということでため息をついたということからこの名がついたが、どうも実際にはこの橋ができた時には対岸の牢獄は短期刑の囚人しかいなかったようで、この世の見納めでため息をついたということはなかったらしい。まぁ言い伝えというのは案外そういうもんだ。
実際に橋を渡って牢獄に行ったが、なんともおどろおどろしい雰囲気だった。写真を撮ったら変なものが写りそうな感じ。ひんやりとして気持ち悪かった。
狭い街中をぶらぶらとウィンドウショッピングしながら「リアルト橋」へ。
「リアルト橋」は「白い巨象」とも呼ばれる美しい橋だ。この橋の周囲はお店が多い繁華街なのでかつては「富の橋」とも呼ばれたらしい。橋の上にもお店があり、観光客で大いに賑わっている。
「リアルト橋」近くの店にてまたまた海の幸をランチで楽しんだ後は水上バスでゆらゆらと運河を移動。風も揺れも適度に心地よく実にいい気分。
だが「ムラーノ島」に向かう便に乗り換えて外海に出た時には風が少し寒いほどに感じた。波も少し荒かった。端の方にいたので時々波しぶきを浴びた。
「ムラーノ」はひとつの島ではない。7つの島が橋でつながっている。約6,000人が住んでいる小都市。ここはなんといってもヴェネツィアングラスが有名。かつてこの技術を他にもらさないために職人をここに住まわせて出られなくしたという話だが、実際はやはり逃げ出した職人もいたらしい。
島に着くと愛想のいい兄ちゃんが観光客を「こっちでーす」的な感じで誘導している。「なんだ?何があるんだ?」と釣られていくとベネチアングラスの実演の見学だった。そこでおじさんが真っ赤なガラスの塊から手際よく馬の置物を作っていた。実に見事なものだった。その会場の横がお店で、ベネチアングラスがずらりと並んでいた。なるほどお店の作戦なわけだ。商売うまいな。
ちなみに日産はこの島の名前を車に使ったが、なかなかセンスあるなと思う。
「ムラーノ」から戻ってからジェラートを食べながら再び街をぶらぶらと。イタリアに来てからジェラートを何度も食べたが、ここで食べたものが一番うまかった。
移動はとにかく水上バス。1日券を買ったので乗り放題なのがありがたい。
夜はシーフードピザでイタリアでの最後の晩餐を楽しんだ。えらくでかいピザで全部食べきれなかった。だが味はさすがに抜群。
ここでイタリアについて感じたこと覚書。
何を食べてもうまい。姫が店を厳選していたが、思いつきで入った店もおいしかった。イタリアに住めばすぐに太れる自信がある。旅行中日本食が恋しくなったことは一度もなかった。やっぱイタ飯は最高だ。
とにかく空気が乾燥している。さすがにヴェネツィアは違ったが他のところでは常に口が渇く感じがした。喉が渇くのではなく口が渇くのだ。日本では感じたことのない感覚。宿では洗濯物がよく乾いた。日中は汗ばむこともあったがじめじめとした気持ち悪い汗はかかない。日差しが強くなっても日陰に入れば涼しい。
イタリア人は男性は体格がよくがっちりしている。ワシぐらいの身長(177cm)では埋もれてしまう。女性はとにかく綺麗だ。そしてスタイル抜群。ローマでは街中にハリウッド女優なみの人を探すのは簡単だ。
どこへ行っても英語が通じる!お店だけでなく通りを行く人に話しかけても英語で答えてくれた。旅行中、英語が通じなかったのはマラネロで話しかけたおばあちゃんただ一人。
とにかくみんな親切。気分悪くなる対応は一度も受けなかった。
イタリアの街は汚いと聞いていたがそれはどこに行っても感じなかった。夜はゴミが散らかっているところもあったが翌朝にはきれいに掃除されていた。ただしローマでは車がどれも汚かった。あまり車を洗うという習慣がないのかもしれない。ローマ滞在中に見たきれいな車は1台だけ。
走ってる車はアルファとフィアットが多い。フェラーリはマラネロ以外ではほとんど見なかった。
道は舗装してあるところと石畳のままのところがある。石畳のところを車で走ると結構振動がすごい。タイヤはすぐに悪くなりそうだ。だが全部舗装する必要はないと思う。石畳があるからこそヨーロッパだ。
ローマは治安が悪いと聞いていたのでしっかり警戒対策をしていたが全くの杞憂に終わった。スリにあうこともなく、それらしき人を見かけることすらなかった。心配しすぎだったのか?
陽気な人が多い。どこへ行っても基本は笑顔だ。特に飲食店では仕事中にも関わらず歌いだす人、踊りだす人。多少の失敗ノープロブレム。
電車は時間より少し遅れるが誰も文句は言わない。乗るほう、乗せるほう、どこかみんなゆるい。このへんは国民性だろうな。だがそれぐらいでいいと思う。日本はきっちりしすぎだ。
イタリア人は芸術と歴史とともに生きている。街を新しく変えていこうという姿勢ではなく、できるだけ損なうことなく次世代に伝えようという姿勢を強く感じる。非常に素晴らしいことだと思う。大いに共鳴を覚える。
とにかく外国人観光客が多い。やはりイタリアは世界の観光地だ。
というわけでまとめると、イタリアは非常にワシの感性にマッチしているといえる。「住んでもいいなぁ」と感じた2つ目の国になった。ちなみに1つ目はフランス。
「水の都」
去りがたき 水の都の ものがたり
いかなる筆も 語りつくせず
蔵
最期の思い出にドゥオーモの周りを散歩してから宿をチェックアウト。電車で今度はモデナに向かった。
モデナに着いたらタクシーでマラネロへ。ついに、ついに、ついに、憧れのマラネロだ!フェラーリの根拠地!エンツォ・フェラーリの街!高速で走る芸術が生まれる街!タクシーで向かう途中も何度か「コーン!」という音と共に走りさるフェラーリを見た。あぁ鳥肌が立ってくる。
「フェラーリ・ミュージアム」には歴代F1マシンや市販の名車がズラリと展示されている。本当に夢中で写真を撮りまくった。ここも世界中から観光客が集まるのでミュージアムの中は結構混んでいた。1台ずつシャッターを切るのも大変だった。
F1マシンに関してはチャンピオンカーか、もしくは何らかの栄光を背負うものだけを選んであるようで、いわゆる失敗作や目立たなかったものはなかった。全車種あると思ったのが甘かった。それでもこれだけたくさん展示してあるところは恐らく他にはないだろうから満足しなければならない。
一番感動したのはなんといっても126C!ワシの大好きなジル・ビルニューヴが乗っていたマシンだ。これだけは自分と一緒に写真撮ってもらった。あぁこれに乗ってたんだ!天才はこれに乗ってたんだ!これで伝説を作ったんだ!と思うとなかなかそこから離れられなかった。
近くにテストコースがあるので外に出るといつも「コーン!」という快い響きが聞こえてくる。お金を払えば誰でも市販車のモデナやカリフォルニアなどのテストドライブができる。お店の人にどうぞと言われたがぶつけて壊しそうなのでやめておいた。
工場もすぐ近くにあるがここはフェラーリ・オーナーでないと見学できない。中古で買っても駄目だ。新車で買わないと。それじゃ一生見れないじゃないか。
ちょうどお昼時に工場の近くにいたら真っ赤な集団がどやどやと出てきた。フェラーリで働くってどんな気分だろうかと思いながらぼーっとその集団を眺めてしまった。
名残惜しくもマラネロを後にして、再びモデナから電車でヴェネツィアへ移動。
電車が長い橋を渡り始めたところから既に感動は始まった。あぁヴェネツィアに近づいている!水の都ヴェネツィア!アドリア海の女王ヴェネツィア!ここもまた見ずに死ぬわけにはいかない。
ヴェネツィアでの移動手段は船。水上バス、水上タクシー、ゴンドラなどあるが、ワシらは一番安い水上バスで移動。まずは宿にチェックインしてからレストランで海の幸を堪能。その後は夜のヴェネツィアを散歩。
「カッフェ フローリアン」はイタリア最古のカフェ。創業はなんと1720年!一体ここで何人の人がお茶したことだろうか?目の前の「サンマルコ広場」のあちこちには楽団がいて素晴らしい音楽を聞かせてくれる。かなり高くつくお茶タイムになるが、それだけの雰囲気は十分にある。なんとも贅沢なひとときだ。
「跳ね馬」
跳ね馬や 夢を残して 走り去る
谷間のゆりの 美しきかな
蔵
フィレンツェの朝は強烈な教会の鐘の音で起こされた。この街の人は朝寝坊はできないにちがいない。
「ダンテの家」はあの「神曲」を書いたダンテ・アリギエリの家だ。彼は政争に敗れてフィレンツェを追放された後に「神曲」を書いたのでこの家であの名作が生まれたわけではないだろうが、ここで生活していたと思うとやはりジンとくるものはある。偉大なるダンテ・アリギエリ、それにしても「神曲」は素晴らしかった。
家の前でパントマイムのおじさんが「神曲」の朗読をしていた。大衆の前での詩の朗読という芸術は日本から消えつつあるが、やはりいいもんだ。もちろんイタリア語(ラテン語で書かれていたからラテン語か?)だから全くわからないが。
「ヴェッキオ宮殿」はフィレンツェで最も見たかったところ。 イタリア旅行の予習をしていた時にたまたまテレビでこの宮殿のことが放送されていた。「500人広間」にあるジョルジョ・バザーリの壁画「マルチャーノの戦い」の後ろには実はレオナルド・ダヴィンチの幻の傑作「アンギアリの戦い」が隠されているということがわかったという内容だった。壁画に小さい穴を開けてファイバースコープで見ると塗料が確認されたということだった。「アンギアリの戦い」は未完成だったのでバザーリはその上に絵を描くように指示されたらしいが、巨匠の作品を消すにしのびなく、わずかな隙間を作ってその前面に新たに壁を作ってその上に自分の作品を描いたらしい。バザーリは傑作の行方を自分の絵の中に暗号にして残すという小説さながらのすごいことをしていた。
「CERCA TROVA(探せ、されば見つからん)」
カメラの望遠レンズでこの文字を絵の中に発見した時には全身鳥肌がたった。現物を見ることはできなくても壁画の枠の厚みを見て、この中にあるんだなと思うだけでも感動せずにはいられない。なんて素晴らしい話だろうか。「アンギアリの戦い」がどんな絵だったかはルーベンスが残した一部の模写でしか知ることができないが、これが完成していたらどんなにすごいものになっていただろうか。それにしてもダヴィンチの作品をなんとか後世に残そうというバザーリの努力には本当に感動的なものがある。
ルーベンスの「アンギアリの戦い」の模写
街は昨日の祭りの後なのでさぞかし静かだろうと思いきや、今日もまたお祭りのような人出。どこも賑やかだった。
宿の窓からパレードを見ることができた。この美しく歴史ある街は様々な人種で埋め尽くされていた。それだけ人を魅了する街なのだ。この繁栄をコジモやロレンツォなどのメディチ家の人々が見たらきっと誇りに思うに違いない。
「バザーリ」
バザーリの 熱きこころに 涙する
かくまでにして 美を伝えしか
蔵
オルヴィエートの朝は鳥の声で起された。徐々に様々な鳥の声が混ざっていった。たまに聞こえる教会の鐘の音。窓から見える古い屋根、遠い山なみ。極めて美しい朝だった。
少し散歩した後、朝食を済ませてチェックアウト。次はフィレンツェへ移動。
昼前にフィレンツェに到着したが、その人の多さには驚いた。お祭りがあるせいだろうか?それともいつもこうなのだろうか?
今回の宿はB&Bとは思えないゴージャスなもので、ブッキングミスだろうか1日目はスイートのような部屋に通されて2人ともご機嫌。寝室2つに広いリビングダイニング、洗濯機、冷蔵庫、食器一揃いあってそのまま生活できる状態だった。ひと月ぐらい滞在するか。
荷物を置いたら早速街へと繰り出した。
「ウフィッツィ美術館」はフィレンツェで始まったルネッサンスを象徴する美術館で、メディチ家のコレクションである収蔵品の量と質は大変なものだ。建物はジョルジョ・バザーリの設計で1580年に竣工した。ローマの建築物はジャン・ロレンツォ・ベルニーニの名前を何度も聞くが、フィレンツェの街ではそれがジョルジョ・バザーリになる。
ちなみにこのウフィッツィという言葉はこの建物がもとは庁舎だったことからそれを意味する。これは英語のオフィスの語源なのだ。言葉の起源というのは面白い。
ここでの一番の感動は何と言ってもサンドロ・ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」と「プリマヴェーラ」、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」の本物を見れたこと。観覧者が多かったがかなり長いことこれらの絵の前から離れられなかった。
ここは写真撮影禁止なので写真がないのが残念。
昼食は近くのお店で済ませたがここのおじさんが傑作だった。顔も声もアル・パチーノにそっくりのかっこいいおじさんでてきぱきと仕事をこなしていたがBGMがノリのいいロックになると仕事の手を止めて踊りだしていた。
基本的にイタリアの飲食店で働く人はみんな楽しそうだ。客のほうまでウキウキしてしまう。
「ヴェッキオ橋」はフィレンツェのお約束スポットの一つ。アルノ川にかかるフィレンツェ最古の橋で、「ウフィッツィ美術館」と「ピッティ宮殿」を結んでいる。橋そのものが建物になっており、なぜか宝飾店がたくさん入っている。2階部分はジョルジョ・バザーリの設計による「バザーリの回廊」。メディチ家の人はこの回廊を通って通勤していたらしい。今は肖像画コレクションが陳列してある。
「パラティーナ美術館」には1500~1600年代の絵画が1000点以上ある。それを28の間に分けて展示してあるのだがどの間にどういうものがあるかのコンセプトがいまいち見えずに混乱してしまった。とりあえずはラファエロやティッツィアーノを見つけては鑑賞するという感じだった。
夕食は惣菜とフォカッチャとワインを買って宿のダイニングルームで食べた。なんだかフィレンツェに住んでるような気分になれた。窓から街並みが見えたが今夜はお祭りということで賑やかだった。
その楽しそうな雰囲気を味わうために食後のほろ酔い状態で再び街へ。ベッキオ橋のライトアップが美しかった。あっちもこっちもみんな楽しそう。明日はメーデーで休みなので今日はみんなオールナイトで遊ぶらしい。お店も深夜まで開いてるそうな。なんと楽しい日に来合わせたことか!素晴らしい思い出になった。
「美」
中世の 美は守られて ここにあり
古きはつねに 新しきかな
蔵