The Phantom of the Opera / Gaston Leroux

ガストン・ルルー原作「オペラ座の怪人」

1879年スクリブナーの記事

2007年11月18日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

私が先日掲載した「スクリブナーの記事」の事ですが、私としては電子図書にする時に編集者がたまたま見つけたこの記事を電子原作の補完として載せた、のかなと思っています。

ルルーはフランス人ですし、記者ですし、自分もオペラ座に通っていたし、もしかしたらペドロ・ゲラール(ガイヤール)氏と交流もあったかもしれないのでそれだけでも十分な資料があったように思います。
アメリカの雑誌を読んではいなかったのではないでしょうか?(語学力がなくてそのところはよく読めていません)
仮に読んだとしてもそれだけが全てではなかったとも思います。それに1879年ってルルー11歳ですし、ルルーが住んでいたノルマンディーは田舎で入手は難しかったと考えられます。(生まれたのはパリですが、その後はノルマンディーのようです)
ま、大きくなって古本で読んだ可能性もゼロではないでしょう。
シャンデリア落下事件(1904でしたっけ?サラザン本に書いてあったような気がします)や、タイムカプセル(1907)といったあたりが着想のきっかけかなー、とは個人的には思います。

 

記事には舞台で行なわれた「ガラ・コンサート」の後の支配人離任・就任祝賀会場になったLe Foyer de la Danseの床が「斜めになっていた」と書かれています。

ずっと「何故オペラ座の控え室の床が斜めなんだろう?」また「どうして控え室で祝賀会なんだろう?」と疑問でした。 ↓



角川p44「パリ中の名士がバレリーナ共同控え室に集まっていた。・・・・バレエ団員達は男友達にそっと合図を送ったりしていた。ブランシェの『戦争の踊り』と『田園の踊り』のあいだのゆるやかに傾斜した床に立食のテーブルがすえられ、大勢の男達がそれを囲んで談笑していた」

ハヤカワでは「・・・お別れの儀式がおこなわれていた。・・・二人はこの理想的で陰気な計画を実行するにあたって、当時のパリの社交界や芸術界の主だった全ての協力を得たのだった。こうした人達は全員バレリーナ控え室に集まっていた」p51 52

と原作にはあります。

 

なんとなく華やかそうな祝賀会なのに「控え室」 って。ねえ?しょぼくないですか?しかも「床が斜め」と言うのは何故?

 

でもスクリブナーの記事を読むと上の絵の場所そのものである
Le foyer de la Danseフォワイエうんたらかんたらが祝賀会の会場だと分ります。「Le Foyer de la Danse」と言うのは部屋の名前です。

しかもその場所は当時ダンサーがパトロンとおしゃべりしながら練習できるように「舞台と同じ角度のスロープになっていた」と書いてあるので、疑問も解決ですね。
(※オペラ座の舞台が5度傾斜しているのは以前記事にしました。だからLe Foyer de la Danseの5度傾斜しているのだと分ります。しかも傾斜部分は画家ブランシェの作品である『戦争の踊り』と『田園の踊り』と言う絵の間なんですね)

 

 

 ↓ フォワイエと言っても、よく一口に「フォワイエ(下の写真参照)」と言われる場所ではありません
上と下の絵を見比べると、柱の本数や溝の入り方が違いますよね。
上の絵で描かれているLe Foyer de la Danseにはレッスンバーが設置されています(今もです)。
そしてよく見ると、奥の壁が鏡張りなのです。(今もです)
シャンデリアは二つあるのではなくて鏡に映っているのです。
HPの方に載せる時にブランシェの絵とLe Foyer de la Danseの写真は載せます。

 

これはGRAND FOYER  ↓ 
支配人離任・就任祝賀会の場所でもガラ・コンの場所でもありません

       

 


***練習と恋の駆け引きが同じ場所で出来るなんて合理的ですね。

 

 

ここの場面では怪人も登場しますです。えっと・・・

 

「オペラ座の怪人だわ!」ジャンムは何とも恐ろしそうに叫び、黒い燕尾服姿の人々の群れの中にいた一人の男を指した。(どうしてもメグの声と姿が・・・)

それはひどく青白い、不気味で醜い顔で、目が落ち窪んで黒々とした穴があいていたので、皆はその髑髏のような顔を見るなり口々に囃し立てた。・・・

しかもいなくなったのかな、と思いきや今度はテーブルにちゃっかり着いていたりしています。つ・ま・り

こんな場所に素顔でピカピカした付け鼻なんかしてエリックさんは登場していたんですねぇ。
( ゜д゜ )( ゜д゜)( ゜д゜)




そして管理人はこの場面でイングランド版映画の「付け鼻を装着するエリック」と言う強烈な場面を思い出してしまうのです。

なんだか好きなんですよね、あの場面。

※ でもこの場面から察するにお客(語弊がありますが一般の人間)と間違われるレベルの顔らしい。しかも会食のテーブルだし。お客さん達が我慢してご飯食べられるレベルなのかなぁぁぁ?
相手のお客だから、と我慢している節もあったりしますが、少なくとも「化け物だっ!!」とか絶叫されていきなり射殺されるとか警察に通報されるレベルではない、らしいですね。

 

■ ガラ・コンサートは「舞台」
■ 支配人の祝賀会の会場は「Grand Foyer」なく「Le Foyer de la Danse」(名前が似ていますが別の場所です)


 

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「照明のバッテリーを管理する電気技師」
electricians who manage the light-producing batteries

「バッテリー(蓄電池)」と表現されているのが気になります。

そしてこの雑誌はアメリカの雑誌なので、視点はアメリカ人記者だと思われます。

アメリカの中央発電所から電力を供給するシステムは1882年(エジソン)からなので、オペラ座の電気的な照明も電源は「バッテリー(蓄電池)」と推測したのではないかな、と思います。
アーク灯は電池か発電機によって光っていて、電力はまさか供給されていないはずだと。
自分の国を鑑みてスクリブナー誌の記者はそう推測したとも考えられます。

東京電力のHPの記事では 「1878年 水力発電所の始動  フランスの河川近くに、従来の蒸気機関によるものではなく、水力利用の発電所が小規模ではあるが出はじめる」 となっているので、亜細亜大学の論文(1878年にオペラ座はバリ市から電力を供給されていたという)と照らし合わせると、この当時「オペラ座での水力発電によるアーク灯(arc light)の使用」くらいはあったのかな、とも思えます。(この論文はコピペが出来ないのです)

1879年にオペラ座を訪れた記者が書いたのなら「アーク灯を管理する技術者」を見たとしてもつじつまが合います。
この記者のオペラ座取材が1879年の何月何日か不明で、1879年発見の「白熱電球」が発見される前か、後か分りません。

しかし「light」と表現され、フランスにある物といったら「arc light」と言ってもいいのではないでしょうか?
つまりスクリブナー誌の記者は「アーク灯の技術者を見た」という事です。
そういう技術者の絵も残っているのです。

 


タイトルは「Régulateur des éclairages de scène  de l'Opéra de Paris
「パリのオペラ座の照明の管理すること」と言うタイトルです。隣の変な機械は二本の炭素棒が描かれているところから「アーク灯 arc light」だと私は思います。
そしてオペラ座の電気照明(客席)が1881年からなので、それ以前に描かれたものだと思います。少なくとも1887年の舞台の電化前に限定できるのです。

 



(アーク灯は電気溶接と同じく点灯するのに技術が必要で、電極の消耗が激しく絶えず電極の間隔を調整する必要があります)

角川p107でも「裏方が作りかけの舞台装置をそのままにしていった劇場に青白い光が差し込んでいた」と書かれているのはガス灯でなく「アーク灯」かな・・・と。「差し込んでいた」「青白い光」は何となくガス灯よりもアーク灯を感じさせます。




「その人工的な夜、いや、偽物の昼の光の中では、すべての物体が奇妙な形を呈していた。

一階席の埃よけカバーは荒れ狂う海、嵐をおこす巨人アダマストールの秘密の命令で、緑青色の波が瞬時に静止した海のように見えた。
両支配人は、そのカンバスに描かれたような静止した荒海で遭難した船乗りみたいだった。

異教の女神が二人をせせら笑っていた。

その時二人は五番桟敷に人影を見た・・・!」




のあたりです。

(アーク灯は光が凄まじいので普通の舞台照明や客席には使われなかったのではないでしょうか?舞台の裏方で使っていたくらいだったのではないかと推論。
舞台裏に慣れているクリスより何となく田舎者っぽいラウルの方が「光」に驚いていているらしいのも印象的p103

ラウル( ゜д゜ )<こんな光ははじめて見たましたよ!( ゜д゜ )))))

警察(--)<あなたは迷信を信じますか?

ラウル
<いいえ、僕はキリスト教徒です。( >д< )∑

警察(--)<その時どんな精神状態でしたか?

ラウル( >< )!!!!<極めて正常です!

 

日本では1878(明治11)年、工部省電信局の東京・銀座木挽町に中央電信局を開設の祝賀会を虎ノ門の工部大学校(現在の東京大学工学部)で開いた際に、この会場に電気灯を用いるよう、伊藤博文工部翁から命じられた英国人W.E.エルトンが、グローブ電池50個を使い、講堂の天井に備えられたアーク灯を午後6時に点灯しました。
会場は目もくらむような青白い光がほとばしり、講堂をくまなく照らし出したという事です。

日本でも使われていたくらいですからパリで使われているのは珍しくはなかったでしょう。

 

ついでに・・・。「発電機」と言うのは蒸気で動かしていたらしいのです。

オペラ座地下で石炭を燃やすのはすがに無理かなーー、だから電力は盗んでいたのかななんて思ったりしています。

この時代を二次創作するまで行きつけるか分らないのですが(あ、私は小説も書いていますです)私は「盗む」派だったりします(^^)。

そしてペロスでは「電池」を使っていた(あの場面の照明時間は短いし)派です。

 

「エレベーター(昇降機)」に関して。現在、当然オペラ座にあります。そして昇降機そのものは案外昔からあったものらしいで、1879年当時もあったのでしょうね。

 

 

エジソンの伝記によれば「白熱灯の発見は」
In September of 1878, Edison announced his intention to harness Niagara Falls and produce safe, electric incandescent light.
と書かれているものもあるので1878年9月には水力発電での白熱灯利用計画発表しているのですね(とりあえず発表する事が特許関係で威力を発揮します。特許予告記載?)

しかも
Fourteen months later, a crowd of 3,000 spectators marveled as the first electric lights cast their golden glow over the grounds at Edison's factory in Menlo Park.

とあるのです。この1879年のメンロパークの出来事は人々を驚嘆せしめたようですね。

 

だからこういう事の前に(1879年の終わりごろまでには)エリックに電気を使わせないと「エリックは天才」設定も成り立たない、際立たないのですね。

そしてエジソンは調べ物の最中によく出てくる人物なのですが、彼が行なったとされている発明に似た事は他の人たちもやっているのですね。(白熱灯や発電機や電話や蓄音機など)

ただエジソンには「アーク灯は廃れる」など物を見抜く力、発明を商業ベースに持っていく才覚があったようですね。

1878年パリ万博時、ロシア人ヤプロチコフ 電気ロウソク(アーク灯)をオペラ座前広場で実演した記録や写真も残っています。
でもすぐアーク灯は廃れ、白熱灯に代わっていくのです。


アーク灯に見切りをつけていたエジソンは白熱電球を1879に発明します。


電気照明・白熱灯の時代の幕開けです。一つの時代の終わり、街に電気の光が溢れる新しい時代のはじまりです。大きな区切れの象徴なのではないでしょうか?

 ↓ 白熱電球 ガラスの中にフィラメントが入っています。

 

 

 

 

白熱灯、アーク灯、ガス灯そして電話、電車、自動車という技術の変遷の過渡期に「オペラ座の怪人」の舞台はあるのかも知れませんね。
個人的には「オペラ座の怪人」は蝋燭やランプ、カンテラ、ガス灯そして馬車時代で白熱灯や電車や自動車というものがこの世になかった時期が舞台であってほしいと思っています。

ファントム、亡霊には蝋燭やガス灯――闇――が似合うのではないでしょうか?

 

 

 

 <競売人>

目録番号666。壊れたシャンデリア。オペラ座の怪人の不思議な事件をご記憶の方もおいでてしょう。

決して解き明かされることのない謎です。
皆様、このシャンデリアはかの有名な大惨事に関わったとか。
今は修理されて電気もつくようになっています。

明りをつければ亡霊も追い払えるかもしれません。

 

 

 

 

1881年10月15日
「二日後のガラ公演での完全実施を前に、ガスに代わって初めて電気照明が用いられた。
大階段の白い光がまず観客を驚かし、淡い黄色に輝くフォワイエ、そして白熱電球のシャンデリアの閃光に満ちた客席が人気を湧き立てた」(竹原 正三「パリ・オペラ座より」)

しかしこの記者さんは素晴らしいですね♪


<声>

2007年11月18日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

<声>と言うのはもちろんエリックの声のことです。
映画や舞台だとエリックは「音楽の天使」と呼ばれていますが、原作では<声>と表現される事も多いです。

個人的になかなか好きな表現です。
実体もないのに声だけが存在するなんて不気味で幻想的です。



そして「実体がない声」と言えば「電話」です。



オペラ座での電話の最初の使用はいつなのか分りませんが、1881年5月18日、「ザモラの貢物」を電話中継しました。

時の支配人ヴォーコルベイユはリュ・リシェの舞台装置製作所で、その最初の聞き手となりました。

(竹原正三「パリ・オペラ座」より)



個人的には「電話」以前という設定も大切かな、と思っていたりします。より<声>の神秘性が強調されるので。




※ 1877にグラハム・ベルが電話会社を設立しています。開発自体が1876年で早速なのですね。
現在の電話の原型になったものとして1877年に発明されたエジソンのカーボン式電話があります。