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The Phantom of the Opera / Gaston Leroux

ガストン・ルルー原作「オペラ座の怪人」

クラウドアトラス②

2013年03月27日 | 映画について

 

昨日の「汚れなき祈り」の陰惨さを払拭すべく、「クラウドアトラス」を鑑賞してきました。

前回はちょっと寝てしまったのですが、今回はバッチリ✩しかもパンフレットなどで復習もしていたので、話もわかりやすかったです。

やはりなんといってもベン・ウィショーの純愛ホモ物語が最高すぎでした。天才作曲家には随分ひどいことを言われてました。「性的倒錯者で、異常者で男娼」とか。傷ついたロビンシャーの表情にハートを鷲掴みにされました。

 

女装もしています。

ちょっときつい顔の美人だなあ、と思ってましたが、まさか男(ベン・ウィショー)だとは!(@_@;)

 

今回気づいたのは、時間の流れが一定でないのかな?という点。天才作曲家が未来のネオ・ソウルを夢で見たりするのも不思議です。ソウルメイトではないですが愛し合う宿命の二人は時間を遡ったりするのかな、とも思いました。物語の時間軸が行ったり来たりするのもそのせいなのかもしれません。冒頭の「食人種の島だった~」あたりも未来のハワイのエピソードの食人族との繋がりを感じます。

 

直線的なヘブライ、西欧の「時間」と、「永劫回帰」的なものの対比でもあるのかと。「永劫回帰」という曲名も登場しますし。

この「永劫回帰」という言葉もよくわからないのですが。orz

1936年フロビシャーに関する話で、これのモデルはエリック・フェンビー(Eric Fenby, 1906~1997)ではないかというもの。梅毒患者の作曲家フレデリック・ディーリアスの手足となり採譜をしていたのですが、ディーリアスはニーチェ信奉者。

「カルマ」「因果」など東洋的な言葉がいっぱい。

原作者デイヴィッド・ミッチェルは「世界で最も衝撃を受けた結末」と言う三島由紀夫の夢と転生の物語「豊饒の海」にインスパイアされたらしいですね。「豊穣の海」を読めば、なお作品が理解できるかも、と思いました。

 

 


汚れなき祈り②

2013年03月26日 | 映画について

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)」

 

という看板聖句の真逆を行くような展開でした。かと言って、被害者アリーナの身を寄せた修道院がカルトとか、異常性があったわけではありませんでした。貧しいながらも普通によくやっている修道院だったですし、最初はアリーナの登場にみんな笑顔でした。

ただ被害者のアリーナが物凄い問題を抱えた女性でした。少しレズがかっているし、もしかしたら薄く性同一障害かもしれないし、精神科で診断されたように分裂症なのかもという子でした。

修道院に来たのも、そこで修道女として暮らしている親友に会いたい一心でした。その「一心さ」が、トラウマを抱えた子なので異常というか病的なレベルだったのです。

アリーナは父親は死に別れ、母親は彼女と兄を孤児院に捨て、どこかに行ってしまい、相当心に傷を負っています。ただただ、修道女になった親友だけが救いなのです。

 

で、修道院に身を寄せているので、「懺悔をしたら」と勧められて、大して信仰心もないのに男の司祭に罪を告白して、懺悔したのです。その内容は映画を見ただけでは詳しくわかりませんが、「自慰の経験がある」とかいう言葉が出てきたので、そうとう何でも喋ってしまったみたいですね。隠し事なく罪を告白しないといけないのでしょう。

しかし、私の印象では、懺悔から帰ってきたあたりから狂ってきたような気がします。

うーーーん、発電所に勤務中、天使を目撃して信仰に目覚めて、聖職者になったような人物に、こんな複雑な心を持った女性の心のひだなど、相当に汚い、罪だらけのものだったのでしょう。五体投地1000回、その他の修行を言い渡されています。

親に捨てられた事から始まって、この子の苦悩に罪はないと思うのですが、やっぱり聖職者から断罪された事が心を傷つけたのでしょう。本来なら、カウンセリングや投薬が必要な人間に「罪」や「汚れ」とか言って、追い討ちをかけたのだと思います。

 

被害者のアリーナには罪の詳細な告白を要求していますが、アリーナが死んで、警察が入ると、あーだこーだ自分たちを庇って、嘘をついているのには呆れました。

 

それに修道女は実際には20人以上で、看護婦経験のある者もいたのに、厳寒のルーマニアで、ろくに水分も食事も与えないのは、異常。しかもお漏らしもしてるのに、下着も服も取り替えないで、拭いてあげるだけ。警察が、「(拘束されていた)十字架が臭い」とか、言ってましたが、糞尿が染み付いてるんでしょう。

「は?縛り付けたのはただの板で、そんな尊い十字架とは違います!」と司祭が怒って反論していましたが、警察官は「十字架に見えます」と言っていたのも印象的。罪のない人間が、無知・無明な人間に殺された、というの点では共通なのかな、と思いました。

アリーナの言動は異常で、憎々しく思う気持ちがあったような気もします。ただわざとでないにしても、最後に、十字架に縛り付けるのに、犬の鎖を使っているのは可哀想でした。ちょっとイジメ臭も感じました。


司祭、修道女達にとっては、肉体を痛めつける事が、悪魔を弱らせ、霊魂を清め事になるのだ、と確信していました。神の実在を信じることは、悪魔(サタン)の実在も信じる事と同じなのですね。映画の中でも、罪の一つとして「見たことがないからといって、天国、神、聖母、悪魔を信じない」と言うような項目があり、信仰の中には「悪魔の実在を信じる」という事が含まれるのだと確認できました。

人間の苦悩、苦悩からくる異常性、心の歪み=悪魔の仕業

という捉え方しか出来ない事自体は、遡ればゾロアスター教あたりの二元論やら、ギリシャ哲学も影響しているのでしょうが、正直「人間の精神という複雑怪奇なものに対してあまりにも単純すぎ」と思いました。

 

「こんなんじゃイエス様も迷惑だ」と下っ端修道女が言うと、おとなしく十字架に縛られていたアリーナが怒り出すのは、見ていて気の毒。信心深そうでないアリーナでも一応キリスト教圏の人間なので、神様に嫌がられてるとか、言われれば悲しいはずだし、神の心がわかるのか?と、ツッコミを入れたくなりました。少なくとも「親に見捨てられた経験がある人間にそういう事は思っていても言うな」と思いました。

結局迷惑なのは司祭と修道女達だし。
ただ修道女長と親友だけは、彼女達の考えの及ぶなかで、アリーナを救いたいと思っていたのは感じました。方法が「悪魔祓い」だっただけで、善意は善意だったのだと思います。司祭に「お願いします。悪魔祓いをしてください」と、頼んでる時点では。

罪や悪魔に憑依されているというより、深い深い「孤独」を感じました。

 

修道院の人たちにとって、アリーナが、途轍もなく忌々しく、迷惑な存在なのも、わかると部分もあるのですが、やっぱり監禁殺人罪には変わりがないです。終身刑から、14年くらいに減刑されているので、多少は情状酌量されたのでしょう。

 

 

修道院の中にこんなメンバーがいれば、重荷を取り除くことはできなくても、死にはいたらなかった気がします。


瀬戸内寂聴。
不倫の経験アリ、人生経験豊富そう。


マツコ・デラックス


中村うさぎ
あの手の子の気持ちが分かりそう。


倉田まゆみ。


柳 美里
なんとなくアリーナの気持ちが分かりそうな気が。

 


イングロリアス・バスターズ

2013年03月22日 | 映画について

 

 

「ジャンゴ」が面白かったので、今度はユダヤ問題の「イングロリアス・バスターズ」を借りてみました。

今度はクロストフ・ヴァルツの「ユダヤ・ハンター」の異名をとるランダ大佐の怪演ぶりが怖い!それにブラピの演じる「バスターズ」(ユダヤ系アメリカ人8名からなる特殊秘密部隊)の殺し方がインディアン風でグロい。(タラ監督にはインディアンの血も入っているそうです)


ショシャナ役のメラニー・ロラン

メラニー・ロラン自身ユダヤ人なのだそうです。ナチ殺しを決行する前のチークの入れ方がインディアンを彷彿とさせるような?

今回も痛快、というか「最後の哄笑、怖い(怖い天使か、魔女か悪魔のような怖い描かれ方だし)」と思いましたが、ストーカーなナチ将校にとどめをさせないあたりに、この女性の非情になりきれない優しい部分を見た気がします。映画を見て、ストーカーナチ将校に「ただただ憎いナチ将校」でありながら「人間味」を見てしまい、ためらい、それが故に死んでしまうあたり、うまいなあ、と思いました。

史実に反して映画が第三帝国を打倒する様を映像化されています。

 

 

額にナチスの鉤十字が刻まれるのは新約聖書の黙示録7:1~4節に記されている「神の印」(救われてて天国に行く人)と「獣の印」(地獄に落ちる人)あたりのメタファーなのでしょう。

ダンテの「神曲」煉獄編では、「ペテロの門の前でダンテは天使の剣によって額に印である七つの P を刻まれた。」という「額に印」という表現もありますし、旧約聖書の「エゼキエル9:1~4」にも「額に印」というのが出てきます。

 

いずれにせよ「額の印」というのは天国と地獄に振り分けられる審判の時の決め手になるようです。
バスターズに刻まれた「額の印」は生きている限り消えない「ナチスの制服」であり、「無実の人々を虐殺した」事の証拠で、冷たい視線を受けたり、報復される可能性をもたらす烙印です。

 

ナチスを裏切り、アメリカで悠々自適に暮らすことを夢想するランダ大佐は自分の額に「神の印」が刻まれていると確信していたかもしれませんが、そこに鉤十字が上書きされるというのは凄い皮肉だと思いました。

 


汚れなき祈り

2013年03月20日 | 映画について

 

2005年、ルーマニアの片田舎の修道院(正教会)に友人を訪ねてやってきた当時23歳の女性が、「悪魔祓い」と伝えられる行為によって亡くなった。そのニュースは国内だけでなく世界中に衝撃を与えた。
女性は修道院で発作を起こし、医師には統合失調症と診断されたが、修道院では彼女の病が悪魔の仕業だと考えられた。彼女を救うために、悪魔祓いの儀式が二昼夜続けられ、その結果、急性心肺不全が原因で死亡。

儀式に関わった神父と4人の修道女は、不法監禁致死罪で逮捕。2008年、裁判の結果、神父たちには実刑が下される。
彼らは現在、出所しているが、再び僧衣を着ることは認められていない。

 

という実話をもとにつくられた映画だそうです。めずらしく正教もので、小説の参考になりそうなので見にってみようかな?第65回カンヌ国際映画祭女優賞(主演の2人)&脚本賞受賞。2013年第85回アカデミー賞外国映画賞ルーマニア代表作品ですし。

http://www.kegarenaki.com/index.html

 

現代でもエクソシストがいて、悪魔祓いをやっているのは知っていましたが、・・・若い娘さんが死ぬなんて、一体どんな儀式を行ったのでしょう?エクソシストものの映画ですと、お祈りしたり、十字架を振りかざしたり、聖水かけたりしているだけで、死ぬ感じはしませんが。。。

 

【追記】

 [ブカレスト 19日 ロイター] ルーマニアの裁判所は19日、ギリシャ正教の司祭1人と修道女4人に対し、教会の地下室で別の修道女(23)を悪魔払いの儀式で殺害したとし、実刑判決を下した。被害者は2005年6月、飲まず食わずで3日間にわたって十字架にはりつけにされ死亡。

司祭と修道女らはその間、被害者から悪霊が退散するよう祈っていたという。
 検察側は被告の司祭に終身刑を求刑していたが、地元テレビによると、裁判所は禁固14年を言い渡した。また修道院長に8年、ほかの修道女3人には5年の実刑判決がそれぞれ下された。
 ただ被告らは5人とも罪を認めておらず、控訴する方針だとしている。
 地元メディアによると、殺害された修道女は統合失調症をわずらっており、これを見た他の修道女らが悪魔にとりつかれていると信じたという。 2月20日16時13分配信 ロイター

 

十字架に三日間・・・。明らかな殺意を感じますが、何をどう考えて集団でこんな事をしでかしたのか。。。。やりきれないです。

よく考えたら、それでもこの聖職者たちは世俗の法に裁かれているのですね。しかも正教からは僧籍を剥奪されている。これが一昔前なら、無罪だったかもしれないし、そのままこの連中は賞賛され、立派な聖職者として生き続けたかもしれないです。

両親のいない少女が一見エキセントリックな行動をとったくらいで、「悪魔」扱いって、非常に残念な発想です。身体を痛めつけることで霊魂が清められるのでしょうか?霊魂と肉体の二元論の悪しき終着点をここに見た気がします。

 

でも、魔女狩り的な事は今でも現在進行形なのですね。

 

2010年、アフリカ、コンゴの首都キンシャサでは、キリスト教原理主義をうたっていると伝えられる新興宗教団体による子供たちへの悪魔払いと称する行為が問題となっている。ナイジェリアにおいても近年、牧師を名乗る男や牧師の妻によって子供たちが魔女や黒魔術師と決め付けられ、悪魔払いとして火を点けられたり、釘を打ち込まれる等の虐待を受けたり、殺害されるという事件が起こっている。

http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2780993/6612320

http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2577969/3859842

 

正直に書きますが、無学だったり、電波な人に「悪魔(サタン)」とか「聖霊」とかいうアイテムを教えると、非常に危険だと思います。

 

 

 

 


ジャンゴ

2013年03月19日 | 映画について

 

見てきました!!!

実に痛快でしたッ(≧∇≦*)

残酷、流血シーンが多いので、苦手な方は注意が必要かも。銃撃戦のリアルさにびっくりしました。

 

レオ様の悪役ぶりが素晴らしく、ジェイミー・フォックスもかっこよかったです。ハムの子孫のカナン人(黒人、エジプト人)は本当に苦難を強いられたのですね。それと同時にそういった白人に擦り寄る黒人の狂気のようなもの、残酷な農場主の狂気も描かれていてます。黒人の執事役のサミュエル・L・ジャクソンが凄い!!!!最後の最後まで、骨の髄まで白人至上主義に蝕まれている姿が壮絶です。

個人的にはあれだけの悪逆な事しているにも関わらず、「自分たちは天国に行ける」と確信している白人たちにびっくり。「信じるものは救われる」のかもしれませんが、「やっぱりさすがに許されないことをしてるんじゃ・・・」とか不安にならないのかと思いますが、「清らかな岸辺~♪御国でまた会う日まで~♪」とか歌っていてムカっとしました。ま、黒人のような獣をいくら痛めつけて、殺そうが御旨に反してはいない、という自信があるのかもしれません。

 

映画の最初の方で黒人の罪無い少女を鞭打つ男が聖書を持っている上に、聖書のページをちぎって服に何枚も貼り付けているのには驚きました。

つまりこういう意味かと。。。

白人達は神も人種差別を認めているとして、旧約聖書の創世記、9 章の 21 節~27 節を根拠に主張しました。

カナン(エジプト人、黒人)は呪われよ。彼はしもべの下僕 ( しもべ )となって、その兄弟たちに仕える。」また言った。「 セム(ユダヤ人など)の神、主はほほえむべきかな、カナン(エジプト人、黒人)はそのしもべとなれ。神は ヤペテ(白人)を大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナン(エジプト人、黒人)はそのしもべとなれ。」

 

この節の前に、真っ裸で寝ていた父ノアの姿を見てしまったカナンの父ハムが兄弟を呼びに行く場面が描かれています。それだけの事なのですが、ノアはハムを激怒します。大事な所を見られたからとか、訳によってはハムがノアの局部をエロティックな目でしたとか解釈されるようです。

白人聖書学者の解釈によると、セムは イスラエル人の祖、ヤテベは ヨーロッパ人の祖、 カナン(子)の父のハム は アフリカ系人種の祖となったのだそうです。

白人たちは黒人を カナン に見立てて黒人は下僕に生まれついた人間であり、白人は生まれながらにして彼等の主人であると説きました。そして白人達は子供の頃から、親や学校、教会、社会から

有色人種 ( 黒人、黄色人種 ) とは神の創造物の 一つではあるが、人類的尺度から見れば白人よりも かなり下等な生き物 ( Sub Human ) である。故に彼等にはそれに ふさわしい扱い をすべきである 

という人種差別を教わっていたのだそうです。

実にくだらない部分に壮絶な人種差別の遠因があったりするものです。


実の息子であるハムが「父さんがスッポンポンで丸見えで寝てるぜ」といったのか「父さん、丸見えだ(ゴクリ)襲いたい」だったのか分かりませんが、ふるチンで眠っていたノア(父)も悪いのに、なぜかいきなり「孫のカナン君」に対して「呪われよ!兄弟の奴隷となれ!!」とか言うって・・・orz

 

 


クラウドアトラス②

2013年03月16日 | 映画について

http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id343488/rid48/p1/s0/c1/

いろいろググっていたらこんな感想を発見。私的には目からウロコで、「なるほど」と思いました。最後のあたりの「ソンミ様のお告げ」をギリギリの状態で無視するあたりの解釈は秀逸。その前のお告げでは従って救われていましたが、やはり最終的には「自己判断」なのですね。

ソンミの取調室での言葉は未来において聖典のようになり、ソンミ自身も女神として信仰の対象になっていますが、もともとは「こんな世の中間違ってる」と言った義憤からの言動でした。それが尋問者の質問者(シックススミスの生まれ変わり)の心に残り、宗教になった、というのは納得。ただそれが足かせ(死)になると思ったら、棄てるというのも大切なのでしょう。

言葉による教えを捨て去る、という場面は、「言葉を超えていく」という意味もあるのかもしれない、とも思ったりしました。

すべての存在は関わり合い、影響し合って世界を構成しているというのは「縁起」「因果」の教えのようだし、「6」というのも「六道輪廻」を思い出させます。

 

最後の高い山の上の雲の中から姿を現す「蓮の花型アンテナ」が一体何を意味するのか(何を受信するのか)、どうしてお皿が飛び交っているのかよくわかっていません。時間があったらまた見たいかも。個人的には作曲家と友人のホモの純愛がツボです(・∀・)あの二人の所だけ見直したいのです。

 

「ライフ・オブ・パイ」も映像が素晴らしく綺麗で見に行きたいとは思ってます。

 

【追記】

アンテナは地球がもう死にかけているから別の星に移住した開拓団と交信して救ってもらうためのようです。

「お皿割り」の場面は再会を喜ぶ二人(^ω^)らしいです。幻覚ですが゜(゜´Д`゜)゜ 

本当にこの1936年のロビンシャーとシックススミスの件はよい。ゲイだということで嘲られ、自殺するロビンシャーが「聖ジョージと竜」の彫刻を壊すのも胸を打ちます。聖人はゲイをかばってドラゴンのように恐ろしい老作曲家を退治してはくれません。むしろ逆に滅ぼされる対象です。ゲイはキリスト教的には断罪される対象という悲しみの表現なのかもしれません。このあたり監督の体験的なものが入ってるのかな、と邪推。
身体は神様からもらった、と考えている人の多い社会で、肉体を改造するというのは、なかなかすごい体験だと思います。

あと、シックススミスは生涯純愛を貫き、独身を通すというのも、ベタですが泣けます。゜(゜´Д`゜)゜
なにげにシックススミスはいい役です。ソンミの言葉を残す者(記録官)としても登場するし。

 

【追記②】ソンミの言葉

命は自分のものではない
子宮から墓場まで
人は他人とつながる

過去も 現在も
すべての罪が――
あらゆる善意が――

未来を作る

 

 


クラウドアトラス

2013年03月15日 | 映画について

 

この映画の根底に流れているテーマは、魂は永遠であり、国も人種も性別も関係ない、そして魂は輪廻を繰り返し成長するということらしいのです。仏教に影響受けているみたいですが、宗教臭さは感じられません。蓮の花みたいな機械(アンテナ)が出てきます。あとは最初作家の机の上に仏像が置いてあるくらいでしょうか?

一回見ただけでは、話についていくのが精一杯の上、途中でちょっと眠ってしまいましたorz

 

一人の役者が6役くらい演じています。輪廻を繰り返し、白人にも黒人にも女性にも男性にもなる、というのはユニークです。黒人奴隷解放運動をするという娘と夫に、悪役の人が「人間というのは序列というものがあるんだ」と食ってかかる場面がありましたが、今度生まれ変わる時に白人が黒人に生まれ変わる可能性があり、今の姿は仮のものだとしたら白人優位にふんぞり返っているわけにはいかないだろうな、と思いました。

死は別の生への扉なのだというセリフもありました。また人々(クラウド)の善意、罪が人類の未来に影響している、とも。神の摂理ではなく、ひとりひとりの、たとえ大海のひと滴のような善意(愛)であっても、積もり積もって未来を動かしていくのだ、という問答は感動的でした。

 

 

 

「テッド」面白かったです。いやーー、こんなに下品だとは思っていなかったですが、笑えました。テッドとジャベール(ラッセル・クロウ)が似てるような気がします。

 

 

 

 


「ライフ・オブ・パイ」覚書

2013年03月14日 | 映画について

 


横たわるヴィシュヌ。
ヴィシュヌ派の創世神話によると、宇宙が出来る前にヴィシュヌは竜王アナンタの上に横になっており、ヴィシュヌのへそから、蓮の花が伸びて行きそこに創造神ブラフマーが生まれ、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれたとされている。

 

 

「ライフ・オブ・パイ」についてアン・リー監督の言葉を拾ってみました。

 

「主人公・パイについて「パイ(π)は割り切れない数字であり、割り切れない人間性を表している。つまり、私たち全てを象徴する存在なのです」

「サバイバルを通したイノセンスの喪失」

「困難に直面した時、人間は自分を覆っているマスクを脱ぎ捨て、本性を見せなければならなくなる。そうすることで、互いに深くつながり、深く理解し合える。私たちの日常では自分をさらけだすのは難しいが、映画ではそれができるのです」

「最後の3ヶ月は順撮りしたから、パイの旅と並行して、彼はどんどん痩せていった。現場では誰にも彼と話をさせず、わざと孤独にした。彼は少しずつスピリチュアルになっていき、頬はこけ、目は落ちくぼんで、内なる狂気と闘っていたよ。それは17歳の少年にとって、とても大きな試練だった」

「彼を演出していると、まるで小さなブッダのようで、僕は彼が前世で経験したたくさんのことを思い出させているような感覚になった。彼との撮影は素晴らしい、有意義な体験となったよ。彼を通じて、そもそもなぜ自分たちが映画を作りたかったのか、初心に立ち戻ることができた。彼の母親は僕を先生と呼んでいたのだが(笑)、彼に教えることで、僕も多くを学ぶことができた」


「希望と想像力を失わないでほしい。それに、生身の人間と交流すること。パソコン上の交流は、どちらかというと見せかけだと思うよ(笑)僕はたとえどんな状況でも、証明できないことに対して希望や信頼を抱くことは大切だと思っている。それはとても重要なことだ。それに、クリエイティブであること。そうすることによって、辛い状況からも自分を見出せるはずだ」

「これはさまざまな方向に解釈できる作品だと思っている。僕は観客があらゆる角度から観ることになるだろうと念頭に置いて、今作を作っていた。それと同時に、とてもシンプルな冒険物語でもあるわけ」


「僕自身の考えに絞るとすると、今作の最も大きなメッセージは、物語を伝える力の素晴らしさだろう。人生は筋の通ったものではなく、我々は自然を理解するには小さ過ぎる存在だ。しかし、人は想像力や物語を伝えることによって、正気を保つことができる。長い物語を語っている時、人はあまり孤独を感じないものだ。たとえそれが空想だったとしても、物語を伝える力は、とても必要なものなんだと思う」

「だから僕は証明できないことを大切にしたいと思っている。自分にとって、それは盲信なんだ。もちろん、僕はスピリチュアルに考えがちだ(笑)神が外的な存在なのか、内なる存在なのか、それを証明するものはない。それでも僕は、神とコミュニケーションを図ることは大切だと考えているよ」

「パイ」には「割り切れない数字」の意味もある。パイは万人を表す人物だ。漂流して社会や人との交流を断たれ、組織だった宗教心も持っていない。海上で抽象的な意味での神と対面する。宗教心や信仰を持たない人が、神をどうとらえるか。「すべてを取り仕切る存在」と受け取るか、または「自分の中に存在する」ととらえるか―。私はパイをすべての人間を象徴するキャラクターにしようと考えたんだ。

パイは安全な環境で育ったが、楽園を失い試練を受ける。彼がどうサバイバル本能を使うか。"リチャード・パーカー"(トラの名)も1つの試練といえる。パイが純粋さを喪失し、いかに大人になるか。純粋さや空想の力とは何なのか。抽象的な力、愛情、哲学的な部分を描くのは大変だった。

あと、(作品の完成は)俳優の力によるところが大きい。脚本はとても抽象的で、色をつけたのは俳優だ。作品には父や母が象徴するもの、心理的なシンボルを盛り込んだが、それを私が解説してしまっては面白くない。映画を見て感じてほしい。

 

これは監督でない他の方の意見⇒「肉食≒汚れ=煩悩のようで、人の夢も思想も宗教も現実とつながっており、全てひっくるめて生命の営みだということ。原題のLife of Piは、円周率(227日)が無限に続く「永遠の生命」という二重の意味が込められているようだ。」

 

うっかり3Dを見損ないました。時間があったらまた見てみたいです。

 

 


ライフ・オブ・パイ

2013年03月08日 | 映画について

 

少年と虎が力を合わせて危機(漂流)を乗り越える感動的な大冒険ストーリー!!虎と通じ合った心!!

だと思っていきました。。。。。

 

でも全然違いました。最初から宗教的で「おや?」と思ったのですが、ヒンドゥー教的なイメージがすごく美しくて、それだけでも感動ものでした。すぐキリスト教とイスラム教も登場します。まあ、これは見てみないとわからない作品です。小さい子供連れで行くタイプん話ではありません。文部省推薦らしいですが。

 

感想を書くと、私的には「やっぱり、トラとかシマウマの話じゃなくて、そういう出来事はあったんだ」と思っています。極限状態で体験したのもは、「実証できる、具体的な事実」ではなくても、主人公にとってありありとした「真実」だったに違いありません。

彼はもともとインド人でヒンドゥー教徒で、ほかの宗教にも関心が高い人物でした。でも、漂流の途中でも魚を殺しながら「ヴィシュヌよ、現れて食料になってくれてありがとう!!!」とか叫んでいましたから、彼の幻想のベースはヒンドゥーなのかもと思いました。多分、どの宗教にも入りきれない、サバイバルのために彼が生み出した独自の宗教だったかと思います。

 

浮島のエピソードの前に大嵐が起こり、雷(神の怒り)の場面から、「浮島」だったので、彼の中の罪の意識がスーっと「浮島(死の島)」にたどり着かせたのかもしれません。

「浮島」の解釈は「魔境」「盲信」とか「妄想」に安住する事を意味してるのかな、と思います(涅槃かと思ったのですが、それだとミーアキャットの意味が不明になってしまいます)。じゃ、蓮の花は?と、悩んでしまうのですが、個人的には母親からの「逃げなさい」というメッセージかなあ、と思います(特に根拠なし)。個人的には(今のところ)オラウータンは母親で、彼の深層心理の奥の奥にしまわれていますが、やっぱり食べちゃた気がします。そしてここで正気に戻り、自分のやった事に気付くような気がします。

 

リチャード・パーカーのせいでイメージとして「捨身飼虎」がちらつきます。

「捨身飼虎」とは⇒お釈迦さまが前世、別人だった時ある国の王子だったころ、森で、乳飲み子を抱えているため餌を獲りにいけず、空腹に苦しんでいる母虎に出会いました。それを哀れんだ王子(お釈迦さま)は餌として自分の体を投げ出し、母子の虎を救いました、という究極の菩薩行のこと。

ヒンドゥの本で、人間が空腹で歩いていたら、枝の雀が、可愛そうに、私を上げましょう。といって身を投げ出した話があるっぽいです。 

 

とにかく母親は「究極の利他行(菩薩行)」(ヒンズーでは何ていうのかよくいわかりませんが)だったのだし、この世で死んでも再び生まれまわる、もしくは他の生き物の一部になって生きているのだから、気にしないで、という事なのかな~、と今のところ思っています。蓮の花(ブラフマ神)の中に歯があるのは、もう転生してるという意味かと。でもググるとそう思ってる人はいないっぽい(。-_-。)

遠景としての浮島は「ヴィシュヌ神の恩寵」みたいに思えました。綺麗で禍々しいイメージとは感じられませんでした。というか「食人島=ヴィシュヌ」という解釈はひどすぎるし。

 

「虎が去っていく場面」はちょっと禅宗の「十牛図」を思い浮かべました。神仏を追い求め、最後に捕まえるが、同時に追い求める目標、導き手(神仏)が消えてしまう、というような「悟り」のイメージ。パイも最後にはごく平凡な日常に戻ってきます。

また、虎は獣性でもあるし、神でもありそう。最初、狂気、獣性と思いましたが、去っていく時、パイが泣いていたので、それだけではなかったんだな、と思いました。


ヒンドゥー教の神様はいっぱいいる上に、化身もいっぱい。しかも一人の神様が、いくつもの顔(慈愛と破壊とか)を持っているので、そういうヒンドゥー教の知識があればこの映画ももっとよく理解できたかもしれません。

 


映画「プロメテウス」

2012年08月30日 | 映画について

 

すっごく楽しみにしていた「プロメテウス」見てきました。
何の予備知識もなく見たので、LV223という星の巨大構造物の中が「エルンスト・ギーガーの世界の影響が強いなあ~」と思いつつ見ていました。ギーガーは画集を買うほど好きな画家なので、映像美には惚れ惚れでした。

人類を作り出したのは「神」とキリスト教ではなっているのですが、この映画はまったく別の人類誕生物語でなるほどな、と面白かったです。ちなみ「LV223」は旧約聖書の「レビ記」第22章3節の事らしいですね。

登場人物はアンドロイドのディヴィッドが素敵でした~♡

衝撃的だったのはカプセル型オペ室みたいな場面でしょうか?私的には完全に取り出したように見えて、何となくお汁状の液体が滴っていたようにも見えました。何となく「一度あることは二度ある」のでは、と思いました。

 

家に帰ってからネットで調べたら、なんとなんと「エイリアン」の前日譚なのだとか!!!\(◎o◎)/!

どうりで最後のクリーチャーはデジャブでした。(クレジットでデザインがギーガーだと気づいたのですが、あのクリーチャーを見た時は「エイリアン」に似てるな~、そっくりすぎる位にしか思わず、前日譚とまでは思いませんでした)

「エイリアン」シリーズも何作もあるのですね。「エイリアン2」は見たことがあるような気がします。時間があったら少し見直してみたいです☆
それに続編「パラダイス」(?)もあるようなので、今回疑問だった部分が明らかになるのが楽しみです。

 

 


屋根の上のヴァイオリン弾き

2012年07月09日 | 映画について

 

大変有名な作品なのですが、実は一度も通して見たことがなかった作品。たまたまブルーレイで安かったので買って見てみました。

まず映像が大変綺麗です。ユダヤ人の村の様子やウクライナの大地。村の人々の音楽や踊りなど、あまりユダヤ人社会の風俗が描かれている映画を見たことがないので興味深かったのと同時に、非常に感銘を受けました。
映画「シャイン」も大好きな映画の一つですが、「屋根の上~」は20世紀初頭のロシア帝国の中の寒村なのでまったく雰囲気がちがいます。この映画の最後で慣れ親しんだ村を追われるのですが、そう言った追われた人々が転々としてオーストラリアにも行ったりしたのかな~などとも思いました。

ユダヤ人ものというと悲惨な内容かと思いがちですが、家族愛やユニークなキャラもしっかり描かれている上に、主人公のテヴィエさんがただの頑固親父なだけでなく、面白い人物で思わず笑ってしまう場面もかなりあります。

ヴァイオリンの演奏はアイザック・スターン。

 

偶然にもアイザック・スターン氏は「シャイン」でも出てきます。名前だけなのか、実はご本人なのか分かりませんが(^^ゞ

 

 


映画「ニジンスキー」

2012年07月01日 | 映画について

バレエ・リュスやらニジンスキーに関心のある方なら既にご存知だと思いますが、一応1980年制作ハーバート・ロス監督「ニジンスキー」はyou tubeでも全編見られます。

http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&v=s5KU7kP6ytk&NR=1

 

でも画像が綺麗ではないので、踊ってる時などの表情が不鮮明なのは残念です。

 


シャネル&ストラヴィンスキー

2012年06月08日 | 映画について

映画館で見て、冒頭の「春の祭典」上演の場面などが印象的だった作品。レンタルビデオ屋さんに行っても見つからなかったのでブルーレイで購入。

記憶によればニジンスキーも出てきます(^^)主演の女優さんも大変美しい方です。

バレエ・リュス、コクトー、ピカソ、ニジンスキー、ディアギレフなどなど20世紀初頭のパリは華やかでいいですね☆

 

 

 


愛を読むひと

2012年06月03日 | 映画について

 

原作「朗読者」は以前読んでいて、いつか見たいと思っていた映画。
ケイト・ウィンスレットの演技が秀逸でした。

美しいのですが、小皺の出始めたような年齢の女性の持つ雰囲気とか、本を読んでもらってるところ、サイクリング旅行の様子や教会の賛美歌に子供のような純真な様子で涙ぐんでいるような場面はもらい泣きでした。

ハンナの人物造形が人に媚びず、プライドが高いところとか良かったです。自分が文盲だとひた隠しにして、それこそ命すら賭けてしまうところとかケイト・ウィンスレットの凛とした硬質な容貌と相まって胸を打ちました。

特に印象的なのは真面目な勤務態度を評価されて、事務員に昇格できると上司に言われた時の表情。哀れだし、その後のロングでとらえた彼女の駅のホームにぽつんと佇む孤独な姿とか、一人で生きてきた人間の孤独を感じました。そしてその苦悩や苛立ちをマイケルにも言えず、(マイケルが子供ですから仕方がないですが)誰かと情緒的に結びついた経験のなさや、人を物のように扱う想像力のなさを秘めた心の異形さは痛々しい感じがしました。

そして段々年齢を重ねていく演技も素晴らしかったです。

初めての面会でマイケルに「何を思おうと死んだ人間が戻るわけではない」と非人間的な返事をし、マイケルが抱き寄せることもせず立ち去ってからの心境の変化は今ひとつわかりません。
マイケルの態度で急に反省したというよりは、元々自分の罪を自覚していて口に出した言葉がたまたま冷たかっただけで、罪を許されて刑務所の外に出る事を自分に許せないと思っていたのかもしれません。

 

 


小さな村の小さなダンサー

2012年06月02日 | 映画について

そういえば文化大革命時代に西側に亡命したリー・ツンシンの伝記的な映画「小さな村の小さなダンサー」の中で、今まで強制的にバレエを学ばされていたのに主人公のリーがバレエ教師にもらったビデオを見てバレエを愛するようになるくだりがあります。

その映像がバリシニコフだったのは覚えているのですが、一体バリシニコフの何の踊りだったか見直してみました。バリシニコフの「ドン・キホーテ」の映像でした。

中国の奥地というか田舎の子供がバレエのバの字も知らず、身体能力を買われて強制的にバレエの訓練をさせられたり、江青が出て来たりと重苦しい時代が舞台です。しかも江青の一声で古典的なバレエを踊っていたのに革命的な踊りを踊らされるように・・・。しかもそんなのはバレエではない、と反対するバレエ教師は僻地に追いやられてしまうという、ベタと言えばベタなのですが、これがやっぱり泣けるんですね。

 

バレエ団の演目が革命的でないと江青に批判され、演目も、そしてメソッドまで今までのワガノワ式から中国的なものに変えるべきだと話し合いが持たれる。しかしチェン先生はワガノワ式こそ最高のメソッドだと主張。

 

色々なメソッドを混ぜるのはダンサーに負担が大きすぎると反対するチェン先生。

 

近くバレエ学校から出て行かざるを得ない時が来るのを察して、リーにバリシニコフのビデオを渡す。そこで力強く飛ぶためには訓練が必要だと諭す。

結局先生は遠くへ。゜(゜´Д`゜)゜

 

先生のビデオを生徒たちがこっそり見る。それはバリシニコフの「ドン・キホーテ」のバジルのソロでした。

 

バリシニコフを目指して努力を積み重ねるリー。(歩けないほどの重りをつけて階段うさぎ跳び)

 

才能を認められて西側に公演した際亡命。最後には公演に連れてきてもらった両親とも再会も果たします。演目は「春の祭典」(父親のセリフが泣ける場面でありながら笑えます)
父「なぜ服を着ないで踊る?」
息子「そういう演出なんだよ」

 

映画の終盤では中国への帰国も描かれます。そ、そしてチャン先生がッ!!!(「先生が生きてたーーー!!!」と号泣ものですヽ(´Д`;)ノ)

 

恩師の前で踊って幕。

 

おまけ、チャン先生のバレエの神、ルドルフ・ヌレエフ(バリシニコフと並んで偉大なダンサーとして名前が出てきます)