The Phantom of the Opera / Gaston Leroux

ガストン・ルルー原作「オペラ座の怪人」

日常

2013年02月27日 | Weblog

 

やっと映画「レ・ミゼラブル」を見てきました。ジャベールに惚れまくりです。あとエポニーヌはよいですね。゜+.(*`・∀・´*)゜+.゜

 

確かに「ムッシュ・マドレーヌ」って呼ばれてました。工場の名前も「マドレーヌ工房」みたいな名前がガラス戸に書いてありました。改心したマグダラのマリアからとったのでしょう。

 

作品には、キリスト教の強い影響が見られますが、作者のユーゴー自身が熱心なクリスチャンかといえば、そうでもなかったようです。
19世紀のヨーロッパ社会においてキリスト教の影響力が弱まっていくのですが、それとともに広まりつつあったスピリチュアリズム(心霊主義)にユーゴーは多大な関心を抱いていたらしいのです。彼は1853年秋から1855年秋にかけて、まるまる2年間も降霊術に明け暮れ、死者との交信を試みていたそうです。

よく拝見させていただいているブログ様の記事によれば、「レ・ミゼラブル」はカトリック教会による禁書目録に入っていたそうです。(「ノートルダムの鐘」も)。お薦め作品でなく「禁書」です。どこいらへんがカトリック信仰の上でダメだったのか(異端チックだったのか)、原作を読んでいないのでよく分かりません。

 

異端ちっくなマリー・マドレーヌ(マグダラのマリア)派のキリスト教についての本(「ダ・ヴィンチ・コード」のネタ本らしい)の中にも名前が出てきます。トンデモ本といえばそうなんですが、「オペラ座の怪人」のガストン・ルルーやジュール・ヴェルヌとかも出てくるので、オペラ座ファンとしては大切な本なのです。

 

なんとなく19世紀のフランス文壇というのは、伝統的なキリスト教から若干逸脱した神秘主義みたいなものが流行っていたのかな~、とぼんやり思っています。人文書院からこんな本が出ていたのでポチってみました。


バラの手入れ(2月)

2013年02月22日 | ガーデニング

最近サボっていたのですが、石灰硫黄合剤が手に入り、今日消毒予定です。

「バラの家」というバラの苗をネット通販してくれる会社からも、6株くらい到着予定もあり、庭仕事を頑張っています。

ちょっと出てきた雑草をむしったり、誘引したりしています。

 

去年移し損なってしまったモッコウバラをどう仕立てようか悩み中です。

モッコウバラは巨大です。いつも利用させていただいてる「バラの家」さんのブログから拝借した写真。巨大さがわかります(^^;

 


日常

2013年02月20日 | Weblog

 

やっと子供の受験も終わりに近づきました。とりあえず希望校には受かったので、これから色々忙しくなりそうです。

別館もいい加減更新しなくては、とぼちぼち作業しています。

 

 


避雷針

2013年02月12日 | Weblog

 

11日、バチカンのサンピエトロ大聖堂のドーム屋根に落ちた雷。この日、ローマ法王ベネディクト16世は、高齢を理由に28日をもって退位すると表明した。法王の任期は原則として終身制で、途中退任は異例。

避雷針をつけてなかったのでしょうか?

 

夜のヴァチカンといえばローマ、イルミネーションツアーに参加して見に行った思い出があります。綺麗だったなあ。

 


春の雪

2013年02月11日 | Weblog

 

子供が帰ってきました。
「宝塚で三島由紀夫の『春の雪』があって、すごくいいらしいよ」を連発されたので、ご褒美にDVDを注文しました。

「ニジンスキー」以来、こっそり宝塚ファン(といっても「ニジンスキー」しか見てないのですが)らしいです。

「ニジンスキー」もお友達のところを渡り歩いているのですが、さすがに卒業式には戻ってくると思います。そうしたらまた見てみたいです。

 

 

 


日常

2013年02月08日 | Weblog

男性性が過剰であったヤハウェ神をもとにしたユダヤ―キリスト教には、実際にはヤハウェの妻が登場することはできなかった。それを代償するのが、「イエスの母である人間マリア」であるが、マリアは「聖母マリア」でもある。ユングによれば、1950年にローマ法王が出した「マリア被昇天」の教義によって、父なる神の妻がついに天上にその位置を占めたという。

http://d.hatena.ne.jp/charis/20060823

 

ユングの「ヨブへの答え」は買って読んでいないのですが、読んでみたいです。

1950年に正式に「聖母被昇天」が認められましたが、実際は黙認状態で、絵画にも「被昇天の聖母」みたいなモチーフはいっぱいです。今日も上野で見てきました(エル・グレコ展行ってきました✩)

 

「タンホイザー」も最後の男性的というか勇壮な大合唱の際、舞台の中央辺りに聖母マリアの像が置いてあったら、二重の救済、聖婚、和合、みたいなイメージが聴覚と視覚から感じられたかもしれません。

 



レヴューを読むとめちゃくちゃ面白うそうです✩

 

 

 


危なかったヴェーヌス

2013年02月07日 | Weblog

ボッティチェリ「ヴィーナス(ヴェーヌス)の誕生」

 

サヴォナローラ(1452年生まれ)の登場により、かつてルネッサンスを花開かせたフィレンツェでは華美な生活を厳しく弾劾、装飾品や美術品をはじめ美しい服、本などがシニョーリア広場にて焼却する「虚栄の焼却」が行われました。

これによりボッティチェリの作品などネッサンス芸術のかなりのものが失われたそうです。この人類の至宝とも言うべき名画も、断罪され炎に焼けていたところだったのです。((((;゜Д゜))))

 


サヴォナローラ

 

 


日常

2013年02月07日 | Weblog

                      

                       悔いを知れるなべての優しき者よ。
             感謝しつつ己が性を変え、
             清らけき福を得べく、
             われらを救わせ給うおん方を仰ぎ見よ。
             心すぐなる者はみな、
             おん身に仕えまつるべし。
             処女よ、神母よ、天の女王よ、
             女神よ、永く御恵深くおわしませ。

神秘の合唱

             すべての移ろい行くものは、
             永遠なるものの比喩にすぎず。
             かつて満たされざりしもの、
             今ここに満たさる。
             名状すべからざるもの、
             ここに遂げられたり。
             永遠にして女性的なるもの、
            われらを引きて昇らしむ。

 

 

 「タンホイザー」について考え中に思い出しました。ゲーテの「ファウスト」。
ユングの言うところの「アニマ」みたいなものでしょうか?よくわかりませんが関係があるかな?

「第三段階は霊的なアニマ聖母マリアによって典型的に示されている、聖なる愛で、母親でありながら、 処女であり、乙女の清らかさを共存せしめる」ものだそうです。

 

この歌詞はマーラーの交響曲第八番でも使われています。 

そういえばタイムリーにも世界屈指の聖母の絵が東京入りです。とりあえずエル・グレコから見に行くつもりです。

 


ラファエロ・サンツィオ《大公の聖母》

エル・グレコ『無原罪のお宿り』

無原罪のお宿り」とは、聖母マリアが母アンナの胎内に原罪を免れて宿った、とするカトリック特有の教義。とりわけスペインでは今でも篤い信仰を集める。ユリやバラはマリアの純潔の象徴。原罪を免れているマリアに老いや死はなく、今も肉体を持ったまま天にいるそうです。

 

 


聖なる口づけ

2013年02月06日 | Weblog

作曲者自身の言葉によれば最後の合唱は「穢れたものの呪いから救済されたヴェーヌスベルク自体の歓呼の声」であり、「二分されていた要素は聖なる和合を果たし口づけを交わしながら、曲は感動的に終わる」ということらしいです。

 

今回の演出では、そんな感じもしなかったのですが。。。

ワーグナーの言葉はちょっとばかりグノーシスを思い出させました。「二つのものの和合」「聖なる口づけ」とか。

「フィリポの福音書」や「トマスの福音書」でも「口づけ」という言葉が象徴的な意味を持って登場します。

一説によれば、そこには性的な意味はなく、くちづけをすることにより二人は息を、霊的な息吹を交換する事なのだそうです。

「フィリポの福音書」に出てくる「彼は彼女を他のどの弟子よりも愛していた。そして彼女の口にしばしば接吻した」というのも、普通の意味の恋人同士の口づけという意味を超えたものの象徴的らしいです。

「トマスの福音書」でも奥義は口移しで、みたいな事が書かれていました。これだと覚知者が男なら男同士のキスになちゃいますね。

 

 

『タンホイザー』覚書、続き

 

「恋人エリザーベトが聖母マリヤを、ヴェヌスはマグダラのマリヤ」という解釈もあるようですね。「エリーザベトとヴェーヌスは表裏一体」というアイディアがあったのなら「マグダラの・マリア」を表しているのかも、と思うと楽しいです。
今回の舞台では、解説を読むとあるはずの「聖母マリアの祠」というのがなく、巨大な十字架が立っています(ただの十字架でイエス・キリストはついていません。どうも歌詞と舞台装置がチグハグだと思ったら・・・

 

「聖母の祠」がプロテスタントの十字架に変わっていたらしい工エエェェ(´д`)ェェエエ工)。

「エリザベートの棺の登場」というのも本来はあったらしい。。。工エエェェ(´д`)ェェエエ工

タンホイザーの骸が一人ぼっちで転がってる、というのもなかった可能性が工エエェェ(´д`)ェェエエ工

 

本来は挫折したタンホイザーが女性、女神、聖母といったものに救済される物語だったようですね。人によっては悲劇ととらえてる場合もあるようです。

もしかしたらエリーザベトは自らの中の欲望を改悛し、一種の聖人になり(マグダラのマリアのイメージ)、聖母にタンホイザーの贖罪を祈る。聖母の恩寵が教皇の死んだ杖から芽が吹き出すことによって表される。教皇は「ヴェーヌスベルクでの邪悪な快楽は永劫の罪であり、手にする枯れた杖に緑の芽がふかぬ限り、お前を許すことはできない」と言ってたらしいので、嫌が上にも救済を認めざるを得なくなります。

 


第一幕で巡礼者に牧童のような妖精(ヴェーヌスの手下ですよね)が「僕の憐れな魂も救われるように頼んでください」と言って見送る場面があります。

教皇が異教の妖精など救うはずもなく、巡礼が妖精の言葉を聞いていたとも思われません(記憶曖昧)。第一、ヴェーヌスブルグを卑しいものと呪ったのはキリスト教的価値観です。「穢れたものの呪いから救済されたヴェーヌスベルク自体の歓呼の声」って、そういう価値観からも聖母が救った、ということなのでしょうか?

 

ヴェーヌスはイコール「ヴィーナス」であり、ボッティチェッリが美しく描いた女神と同一人物。金星(ヴィーナス=愛と美の守護神)イメージもあります。しかしヴォルフラムが大切な人エリーザベトのことを歌う「夕星の歌」というのもあってややこしいです。(夕星=宵の明星=金星)微妙にかぶってるんですよね~(。-_-。)う~ん

杖からふくアーモンドの芽も、微妙に大地の豊穣さみたいなものも感じますし。アーモンドだって女性的なイメージですし。う~ん(。-_-。)

 

異教的な世界も聖母により、救済され大団円をむかえる、とも言えるのでしょうか?聖母自体グレートマザーみたいなもののシンボルとも考えられますかね?

 

ちなみにググったら聖人には「神と人間をとりなす力を持つとされた」そうです。
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/gsletters/pdf/20120604_01.pdf#search='%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%99%E3%83%88%E3%81%AE%E8%81%96%E5%A4%89%E5%8C%96'

あんまり演出家の意見の入り込んでない、普通の「タンホイザー」を見る機会があったらいいな、と思います。

 


感想らしきもの

2013年02月06日 | Weblog

 

覚書です。いい加減です。

 

 チューリンゲンの宮廷での歌合戦で、「愛の本質について」を歌い合う、という場面があります。ここで「愛」は「泉」とも言い換えられています。チューリンゲンの宮殿代表のようなカッコイィ騎士(?)ヴォルフラム役は「愛」「真理」(「泉」)というのは天高いところにあり、拝跪し、讚美し、血の最後の一滴までかけてお守りするものだ、といささか自己陶酔、マゾヒスティックに歌います。すると会場の一同は大感激します。

しかし主人公のハインリッヒは「奇跡の泉に口づけし、その水を飲む」というような事を歌います。彼にとっては「真理」は神棚に飾って崇めるものでなく、味わうもののようです。

すると別の騎士が激昂し、「汚れた唇で触れるなど」と挑みかかり、結局主人公ハインリッヒは剣を突きつけられ、暴力を受けそうになります。

そこで聖女のようなエリーザベトが仲介に入ります。「どんな罪人でも救いに預かる権利がある」と。

しかし実はハインリッヒの歌にエリーザベトは感動しているらしいのです(解説によれば)。

 

恩赦祭りに行く巡礼者はみな同じ服装で、同じ歌を歌いながらぞろぞろと、神の代理人であるローマ教皇のもとに歩いていきます。

主人公のハインリッヒだけは、その巡礼のマニュアルに沿わず、赦しを得るためには他の人のやらない苦行をせねば、と「自分で考えた」苦行を実践しています。結果、他の全員が恩赦を受け、罪を許されたにも関わらず、ハインリッヒだけには「地獄に落ちろ」的な呪いの言葉が浴びせられます。

個人的な感想ですが、主人公がヴェーヌスベルクに行ったのも、「真理は味わうもの」と考えて、試しに行ったのかも、という事です。

主人公は独自に考えて、行動する人です。教皇は彼に自由とか盲信しない意思を見て、断罪したのでは?とも思ってしまいました。「盲信しない」というのは中世のカトリック世界では悪そのものだったような気もします。

 

物語は進み、エリーザベトはそんなハインリッヒを思い、彼の歌によって自分の中に芽生えた「自由への憧れ」を償うために、チューリンゲンの城とは違う「谷間」でエリーザベトは祈りの日々をおくっています。しかしハインリッヒが帰ってこず、恩赦が与えられなかった事を知り、「全能の聖母」(ちょっとビックリな言葉です)に祈り、死を持って彼の罪を贖おうと死んでしまいます。具体的にどういうふうに死ぬのかはよくわかりません。舞台の暗闇に退き、見えなくなります。大体「自殺」は罪なのではないでしょうか?それとも願いを聞きいれた全能の聖母が命を召し上げてくださったのでしょうか?

結局ハインリッヒもそれに習ったようです。いつの間にか死んでいました。

「自由という禁断の木の実をエリーザベトに与えておきながら、袋小路に迷い込んでしまったタンホイザー(ハインリッヒ)は、彼女の死を通して贖罪と究極の自由の獲得法を示教され追随する。

幕切れで巡礼者たちは教皇の杖に示された神の恩寵を伝え、悔い改めた者の魂の救済を高らかに歌い上げるが、旅立った者たち(タンホイザーとエリーザベト)の本心を知らないそれは、盲目的な世界に留まり続ける者たちの世界観としてアイロニカルに響いてくるのである」(パンフレットの解説)

確かに巡礼者、騎士道の体現者、護教者としてのチューリンゲンの騎士たちは神に感謝して大合唱してるのですが、その足ものとで主人公の骸が転がっているのは不思議です。一緒に大合唱に加わるのならわかるのですが、エリーザベトもタンホイザー(ハインリッヒ)も、ただただ聖母におすがりして旅立っていった。つまり命ある状態で讚美しなかった。既存の信仰が、生きていく拠り所として機能しなかった、とも思えます。

復活と再生の奇跡を表す「杖」は死体の上に置かれます。そんな奇跡(もしかしたら聖職者の大嘘。死んだものから命が芽生える、という事は「神は死人を蘇たせる力がある」という暗示)に対して湧き上がる群衆は、「死後の永遠の命」を得た、と保証をローマ教会からもらって無邪気に喜んでいる人々とも見えます。

しかしそんな奇跡は起こっても、やっぱりエリーザベトとタンホイザーは死んでしまった。残った人たちは「ハインリッヒも許されて、復活し永遠の命を得るはずだ」と思っているのかもしれません。それはあくまで「死後」であって、生きていく拠り所として機能しなかった、と転がった死体は語っているとも感じられます。

 

ローマ・カトリック的な世界(ローマ)とプロテスタント的世界(ヴァルストブルグ、チューリンゲン)、官能的ヴェーヌスベルグ、全てにおいて安住の地を見いだせなかったタンホイザーが、そのどれでもなく、すべてが重なった「場所」で召される。エリーザベトも同じ場所で死にます。

ここが、パンフレットにある「精神と官能、神と自然という分かたれた二つの要素が、聖なる和合のための愛の口づけをして抱き合っている」場所なのかな、とも思いました。(1852年のワーグナーの表題的注釈の中の言葉)

つまり聖母の場所でしょうか。

聖母信仰自体が異教的な事なので、そこにすがっていく事態、厳しい人間を罰するヘブライ的な神(父)の支配する世界には、ある種の人間にとって救いがない、ということなのかもしれません。
(原語ではどうかわかりませんが、物語当時にあって処女マリアに対して「全能」などという神に冠するような言葉を付けていいのかも謎です)

 

または「聖なる結婚」の場所なのかもしれません。

いずれにせよ主人公の死という結末には変わりありません。「素晴らしい!偉大な恩寵だ!!」と大合唱すればするほど、物言わぬ死体と強烈なコントラストだったりします。

 

うーん、よく分からないながらこんな感想を持ちました。

たしかに今回の演出は「護教的です」と演出のハンス=ペーター・レーマンははっきりパンフレットで述べていて、そんな印象を受けるのですが、パンフレットを読む限りでは、実際の「タンホイザー」自体の狙いは少しズレたところにあったようです。

 

 

【追記】

パンフレットによれば、今回のウィーン版でなく最初の「ドレスデン版」では、エリーザベトとヴェーヌスが表裏一体のものとされていたそうです。聖性と官能が表裏一体とは興味深いです。
今回の舞台だと、「聖なるもの」以外はすべて滅ぶべきもの、卑しむべきもの、と鋭い対立関係にあります。

「完全なる聖性」とか「完全なる愛欲世界」というのも観念的で現実的じゃないですよね。不自然なことですから、真剣に追求したら、人格が破綻します。

 

 

 


すごい偶然

2013年02月01日 | Weblog

 

子供が受検でひとりでホテル暮らしなのですが、忙しい仕事も終わったので様子を見に行こうと思い、上京ついでに映画かコンサートでもと「タンホイザー」を見に行きました。たまたま昼間だったので行ったのですが、偶然にも浩宮様もご臨席。同じオペラを見られるとはびっくりしました。

皇太子様は二階席最前列の真ん中で、私は真下だったので、ちらっとしか拝見できませんでした(でも本物の浩宮様ヾ(*´∀`*)ノ)。入場と退場の際には拍手が起こりました。二幕目、三幕目はいつ入場したかは分からないほどでした。

 

線路に大きなゴミが、とか車内で変な音が、とかで電車が遅れまくった上、微妙に乗り間違えたりして、「もう一幕目は捨てた」とがっかりしていましたが、なんとか15分くらい前には会場に到着。しかし全体で4時間30分もかかり、子供と夕食を食べる予定でしたが、待ち合わせの場所に向かう途中で「一体、いつ終わるの?疲れたからもうお風呂に入っちゃたよ」とメールを受け、仕方なく子供に会わず帰宅。

 

新国立劇場って初めてで、結構あっちかな、こっちかなして疲れました。

あ、でも新国立劇場は幕間におしゃれな軽食やスィーツ、飲み物もあって、ゴージャスな雰囲気に浸れますね。お腹が空いてたのでワインと軽食を食べましたが美味しかったです。

「タンホイザー」についての感想はまた後ほど。