The Phantom of the Opera / Gaston Leroux

ガストン・ルルー原作「オペラ座の怪人」

アーク灯

2007年09月30日 | Weblog

 

1878年当時 オペラ座では「アーク灯」が使われていました。 

とは書いたものの実際どういうふうに使われていたのか疑問でした。

初期、アーク灯は家庭用でなく工場など大きな施設で使用されていたのですが舞台照明としても使われていました。

 

そんなこんなで原作を読んでいましたらこんな箇所がありました。

 

p108馬鹿馬鹿しい職務規定に関する手紙を怪人からもらった支配人達は、ひとつ五番桟敷を見てやろうぜ!
という感じで誰もいなくなった劇場の様子を見に行きます。

p108「・・・裏方が作りかけの舞台装置をそのままにして出て行った後で、舞台は空っぽだった。
幾筋かの光線(消滅寸前の星から盗んできたような、青白く不気味な光)がどこかの隙間から射しこみ、舞台にそびえる張りぼての古い塔を照らしていた。

その人工的な夜、いや、偽の昼間の光の中では・・・・」

 

舞台装置を作る時に使っていたわけですね。

「青白い、人工的な、昼間の光・・・」ガス灯には出せない光です。

アーク灯は高価なものなので「消し忘れ」というのも考えられないのです。

多分エリックが出していたのでしょうが、もともとオペラ座にありえない光ならもっと支配人が驚愕していてもいいはず。

もともとあったアーク灯を支配人が劇場に入ってくる時につけ、一種の不気味な効果を狙っていたのではないでしょうか?

 

 

 

ペロスでのアーク灯は電池を使っていたのかもしれないですね。

 

それよりも驚きなのは地下ケーブルとか冷凍庫(アンモニア式)とか意外なものが当時あっという事です。

 

「イシス、アムピトリーテー、へーベー・・・・」と言う支配人を睥睨している神々も異教の神々ですね。

 


 


セーヌ・マルティーム県

2007年09月30日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
先日勢いでルルーを主人公にした捏造・妄想の超短編を走り書きしていてちょっと調べてて気づいた事。

角川に書いてあるルルーの通ったウー中学校のある「セーヌ・マルティーヌ県」はもしかしたら「セーヌ・マルティーム県」の事かもしれません。

調べても「セーヌ・マルティーヌ県」ってないんですよ。「セーヌ・マルティーム県」はあっても。「ヌ」と「ム」の違いなのですが。→「Seine-Maritime」


もしもウー中学校があったのがセーヌ・マルティーム県だとしたら、ノルマンディー地方。

そうそうエリックの生まれた地方なのですね。



サイトもちょこっと改築、気分転換にお絵描きしました。

ってオリジナル絵なんですけど・・・(^^;)




「トランスノナン街」

2007年09月29日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
ルイ・フィリップ体制に反対し、共和派運動を進めようとする青年たちが秘密結社を結成、厳しい弾圧のなかリヨンで労働者たちと暴動を起こし、正規軍と衝突しました。この暴動はパリにも飛び火、パリ・トランスノナン街にあるアパートから銃声がし、これに過剰反応した兵士たちがアパートに乱入して事件とは関係のない労働者一家を虐殺してしまいました。兵士たちと格闘した父親は寝間着のまま血だらけで倒れ、その重さで子どもも圧死、画面左側の暗がりでは母親の右側では老人の無惨な姿が描写されています。このいたましい事件の恐怖と悲惨さをリアルに描いたドーミエの傑作。


1834年、リトグラフ



盲人用桟敷席

2007年09月29日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
ガヴァルニのライバルが「ドーミエ」と言うのは間違いのないことのように思われます。

版画家で漫画家と言うのも共通ですし・・・。「漫画家」と言うのがよいですね。
「B級作品」と悪く言われる「オペラ座」らしくて(わたしはそんなふうに考えていませんけど。まあ、B級くささのようなものがこの作品の味でもありますので・・・)




という文章中での疑問。

有名な版画家である「誰か個人」のために一応国立であるオペラ座が誕生パーティーをする―――とても不思議です。



大体ドーミエでなかったとしても「素描家」がオペラ座に対して新聞記事以外の功績があったとも考えられません。
天井画やあっちこっちに夥しい絵画がありますから、それを差し置いて「素描家・版画家・漫画家」を祝うのは不自然です。


そして怪人の奇妙な行動―――クリスティーヌとラウルがこそこそしている間「盲人用桟敷に上がって」「降りる」と言う奇妙な行動が気になっていました。




実際そんな行動をしなくてはならない原因はないのです。

強いて言えば「ダロガ」に会うためなのではないかと考えていました。


もともとクリスティーヌを伴って舞踏会に現れたのは「クリスティーヌ自らの意思で怪人といる」という事の証明だったからです。(角川p361あたり参照)

つまり盲人用桟敷席にダロガを待たせて・・・「クリスティーヌがありのままのエリックを愛しているのを見せ付ける」と言う風に考えていました。


しかし「大階段」やクリスの言う(角川p152)「正面ロビーの暖炉の後ろにある小さな応接室」「正面ロビー」と言うのが思い違いでなければ「盲人用桟敷」から見えないのです。


まったく人が入り込まないとも限らない盲人用桟敷席でダロガと会っているのを目撃される事はエリックにとって致命的な事でした。


変わり者のダロガの不審な動きに劇場の誰かが気づき、エリックの存在や湖の家に気づかれる事をもの凄く怒っているのです。(フェルト帽の男のあたり)



何か理由をつけるなら「ダロガと会っていた」あたりかな・・・と思うのですが・・・。





ここから妄想注意なのですが―――



ドーミエという版画家はウィキペディアによれば「晩年、1872年頃から眼の病気を患い、やがて失明に至っている。1879年、パリ郊外ヴァルモンドワで没した」



そう―――ドーミエは「盲人」でした。



しかし仮に仮面舞踏会を1879年とすると彼は約二週間前になくなっているのです。(1879年2月10日死亡)




エリックがドーミエをどう見ていたかは分りません。

ルルーが自作の中にドーミエへのオマージュとも言うべきエピソードを盛り込んだ・・・と考えるのも面白いかと思います。


誕生日を祝っているのは国立「オペラ座」でなくルルーを含めた「ボヘミアン」達。




そしてルルーにとってのオリジナル・キャラクターである「エリック」になって、もしかしたら晩年盲人になっても劇場通いしていたかもしれない新聞挿絵画家の座ったかもしれない盲人用桟敷に行かせてみた―――



と言うのもなかなかロマンティックな妄想なのではないでしょうか?





写真は「19世紀のボヘミアン達」





※ 少年ルルーがたまたまオペラ座で最晩年のドーミエを見た事があったかもしれません。


◆ ものすごい妄想編 ◆








私は今でも新聞の風刺漫画が大好きだ。

その中でも一番愛してやまないのは「ドーミエ」の作品だ。


「版画家」の作品に初めて触れたのは子供時代。
物置の中の古新聞の束の中に彼の絵を発見した。その鋭く、独特な作風は一気に僕の心をとらえた。

19世紀パリの相貌を「版画家」はリトグラフィーに描き通した。卓越したデッサン力で流動化した都市の住民一人ひとりを活写したのだ。



以後、その物置や古本屋をあさるのが子供時代の楽しみになった。

パリの人々の日常、観劇風景などなど見飽きない。




一年後、僕はパリを離れてセーヌ・マルティーヌ県のウー中学校の寄宿舎に入った。




長い休暇での事だった。僕は汽車に乗りパリに戻って来ていた。

今年は中学生になったから、という事でオペラ座の仮面舞踏会を覗いてもいいと両親が言ってくれた。当然弟のちびのジョゼフは置いていく事になっていた。


盲目になった版画家の唯一の娯楽である「オペラ座通い」をしていると言う。

会えるかもしれないと思うと胸が高鳴った。



彼は何と言っても「トランスノナン街」を描いた人物なのだ。僕は彼を尊敬している。




―――だが、華やかな仮面舞踏会に彼の姿はなく今年就任したばかりのヴォルコペール氏の姿が見えた。
彼は今をときめく音楽家たちに囲まれているのだ。





それを尻目に版画家がいつもそこにいるという「盲人用桟敷席」に僕は駆け上がった。だがそこに彼の姿はなかった。







「ドーミエさんは死んだんだよ」




案内係りのおばさんが声をかけてきた。僕は驚き目を見開いた。



「追悼の客が後を立たなくてね・・・」と紛れ込んだ酔客の置いていったグラスを片付けながらおばさんは説明してくれた。



がっかりした僕は階段を降りて、着飾った人でごった返すロビーを抜け、オペラ座を出た。




―――「1789年」は僕を新聞への道へいざなった版画家の死んだ年として忘れられない年になった。



だから私は大人になった今も仮面舞踏会の時はボヘミアン仲間の騒ぎや華やかな貴婦人の横を通り会場をそっと抜け出し「盲人用桟敷席」に行く事にしている。



「彼」に会うために。



今もなお、「盲人用桟敷席」にはバリとオペラ座をこよなく愛した版画家がいるような気がするからだ。












お知らせ

2007年09月28日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」


HPに原作コーナーを作っています。

・・・って以前から看板だけはあったのですがちょこっと増築しつつあります。


ここのブログで書いているだけだと時間の経過とともに流れてしまうのでまとめてひとつのコーナーにしてみました。


とりあえずここでUPしてからそっちに移動、という形になります。





「さあ、夜食だ!誰が出してくれるの?」

2007年09月28日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
 
ポール・ガヴァルニ
「パリの学生たち 9」
「さあ、夜食だ!誰が出してくれるの?」(シャリヴァリ1839年11月13日号)




学生たちで盛り上がる舞踏会の模様。左後方の壁にも「仮装舞踏会」の文字が記されてある。ピエロの仮装をした男性はデバルドゥール姿の女性を持ち上げている。
 「デバルドゥール」とは19世紀中頃の社交界の仮装舞踏会で流行したファッションおよびそのスタイルで、自由に楽しむ男女を指す。くるぶしがみえるほどの丈のゆったりとした黒ビロードのパンタロンに、長めの赤い帯を締めた。もともとはセーヌ河の沖仲士のことを指し、ガヴァルニが彼らの服装を仮装として採用し広く知らしめたといわれる



ガヴァルニの好敵手

2007年09月27日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
「この舞踏会は告解期間(四句節が始まる灰の水曜日の四日間)前に、謝肉祭の変わった衣裳を着た人物とクールティーユの坂を、鉛筆で永遠のものにしたガヴァルニの好敵手の一人、昔の娯楽の場面を描いた有名な素描家の誕生日を記念した、特別のお祭りだった。」
(ハヤカワ文庫 p.166)


まず、仮面舞踏会を「1879年」という風にして計算します。

1879年の復活祭は4月13日なので「灰の水曜日」は2月26日です。
その前の四日間なので2月22日から2月25日あたりと考えられます。
その謝肉祭の期間の最終日を「マルディ・グラ」と言います。


これはフランス語で「太った火曜日」の意味で、キリスト教における「復活祭」の前におこなわれる「四旬節」、40日間肉を一切食べない期間、が水曜日から始まりますので、その直前の火曜日は食いだめをして一番太った状態なのだそうです。





「鉛筆で永遠のものとした素描画家」と言えば有名な風刺画家ドーミエが思い浮かびます



ガヴァルニの好敵手と言うからには同業者も同時代の人物だと考えられます。
ガヴァルニが1804~66年、ドーミエが1808年2月26日~1879年4月10日なのでちゃんと重なります。

一応、版画を手がけた画家としてゴーギャン、ルドン、ムンク、クールベあたりも調べましたが上手く重なりませんでした。
版画家は数が多いと思いますが「有名」で「永遠にした」という事でやはりドーミエのような劇場やパリの風俗を4000枚以上も素描し、後世にパリの息吹を感じされてくれる人物が相応しいような気がします。


誕生日も2月26日なので、四句節の初日・灰の水曜日という禁欲的な日になってしまったドーミエの誕生日を一日繰り上げた、とも考えられるような気がします。

「肉のない誕生日の前夜祭」的な・・・。


ドーミエというのは有名な新聞画家でもあり、新聞記者でもあるルルーが知らなかったと言うこともありえません。


指輪を授けられる・・・

2007年09月27日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
■ 聖カタリナの神秘の結婚 1518年頃
(Nozze mistiche di santa Caterina)
28×24cm | 油彩・板 | ナポリ, カポディモンテ国立美術館

シエナ派を代表する画家であったベッカフーミの影響が認められる、コレッジョ宗教画の名作『聖カタリナの神秘の結婚』。

聖フランチェスコ同様、聖痕を受けたとされる4世紀の聖女カタリナが、幼きイエスに婚姻の指輪を与えられる場面を描いた≪聖カタリナの神秘の結婚≫です。




Auguste-Emmanuel Vaucorbeil

2007年09月27日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

オーギュスト・エマニュエル・ヴォーコルベイユ

1879年パリ・オペラ座総裁就任。

 

1821年12月15日フランスのルーアンに生まれる。1884年11月 2日パリで死亡。

音楽家。

1878年説は覆りますが、

ラウルがオペラ座に来たのが1878年5月のオペラ座前広場の実験の後だとして、1878年冬から1879年の総裁、支配人交代の後の仮面舞踏会で・・・とも考えられたり。

 

なかなか、ルルー自身が確実な年月日まで想定していたか、仮にモデルがいたとしてもその人物の全てを重ねられるほどにオリキャラに取り入れたかは疑問。

 

1879年説が魅力的なのは 1879年4月16日、復活祭直後聖ベルナデット・ヌヴェールが亡くなっている事。

1876年には聖カタリナ・ラブレがなくなっているので、この不朽体の聖人・・・「死んだ美しい女」の死にはまれているからです。

1879年復活祭のあたりにエリックが死んだとすれば「魂の救済=復活」という図式にもつながるような気がします。

しかも聖ベルナデット・ヌヴェールは「ルルドの泉」の発見者。

原作でも「泉」と言うのは「渇いた心を癒す」「クリスティーヌの憐れみの涙」「魂の救済・復活」などを象徴していますし、エリック自身「ルルドの泉」で自分の醜さを治したい、と言う願望があったかもしれません。

 

少なくともガストン・ルルーが生きていた時代のフランスで「ルルド・ブーム」が起こっていたのは事実です。

ユイスマンの作品にも描かれています。

 


リシャール氏とヴァーグナー

2007年09月27日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
 

ヴァーグナー略歴
1837年
 4月ケーニヒスベルク劇場の音楽監督に就任した。 
 7月ヴァーグナーはリガ(当時の帝政ロシア、現在のラトビア)で劇場と契約
1839年
 3月ヴァーグナーはリガ劇場を解任されリガの近隣の町ミータウを出発した。全長25mも満たない穀物運搬船で激しい嵐に3度も遭う5)。「さまよえるオランダ人」さながらの経験をし、死をも覚悟してロンドンに着いた。そしてロンドンからは汽船で出発し、マイヤベーアがフランス北海岸の町ブーローニュ・シュル・メールに逗留中であることを知り、同地に滞在することにした。
そこでマイヤーベーアとの知遇を得て、「リエンツィ」の第2幕までの総譜を見せる。

パリ・オペラ座支配人への推薦状を書いて貰った。
 
9月17日大きな期待をもってヴァーグナー夫妻はパリに着いたのである。

 
10月パリでヴァーグナーが認められることはなく、オペラ座への自作の売り込みも失敗に終わる。

ヴァーグナーのパリでの大きな目的はグランド・オペラの大家マイヤベーアから得たオペラ座支配人への紹介状によってオペラ「リエンツィ」の上演のなにがしの手だてを得ることであったのである。
しかし、失望しかなかった。
ヴァーグナーはこれを契機にフランスに対して悪印象を抱くようになる。パリでの生活は惨憺たるものだったからである。

つまりオペラ座の支配人はヴァーグナーのオペラに理解をしめさなかったのです。



以後、ヴァーグナーのオペラがオペラ座で初演を迎える事はなかったようです。


角川p56

「ワグナー(ヴァーグナー)については、リシャール氏は、フランスで最初の、もしかするとただ一人の理解者と自負している」




ま、だからと言って原作中でヴァーグナーのオペラについては触れている箇所は記憶にありません。



話は変わりますが・・・。


現在のオペラ・バレエ上演では客席を暗くするのが常識ですが、昔は日本の歌舞伎と同じように・上演中でも観客席は照明を落とさず明るかったものなのです。

オペラ上演中に観客席を暗くする のはワーグナーが自らの作品を専用に上演するための劇場をバイロイトに建設して・上演を始めた時に行ったのが最初のことで、そんなに昔のことではなかったのです。

何故かと言いますと、もともと貴族や新興ブルジョワの観劇の目的は舞台鑑賞より社交の方が優先であったからです。バルコニー席(日本で言えば桟敷席)が社交族の指定席で・彼らはそこから向かい側の席のお客の顔触れや衣装・ 装飾品の趣味をオペラグラスで互いに観察するのが何よりのお楽しみであったのです。

当然客席は明るくなければなりませんでした。

ワーグナーがバイロイト祝祭劇場で豪華なシャンデリアなどを排して・上演中に観客席の照明を消してしまったのは、「 観客は余計なことを考えずに・俺の作品を見ることだけに集中せよ」という意図であったわけです。

パリ・オペラ座の開場は1875年(日本は明治8年)で・バイロイト祝祭劇場の開場は1876年のことですが、ワーグナーの革命的な試みがすぐにヨーロッパ全土に広まったわけではないのでしょうが「ヴァーグナーの理解者」のリシャールでもあり芸術家肌のこの支配人がそういう事を真似したと考えるのもたのしいかと思います。

客席が暗いほうが怪人さんが舞台を見るのにも都合がいいでしょうし・・・。



クリスティーヌがさらわれた公演の時も客席が暗ければ、エリックは舞台の照明だけ支配すればいいわけです。

モークレール他何人かをまとめて気絶させるとか・・・。してます。「嗅ぎ煙草」入れに何か混入させてます。




・・・で舞台と客席が完全に暗くなった状態と言うのは本当に真っ暗で何も見えません。騙し絵の緞帳も見えないし、シャンデリアも見えなくなります。

数秒間暗闇の中で隣の人間の顔も見えず、怖いくらいです。



舞台が明るくなってやっと隣の人間などの様子が分るのです。





なお『タンホイザー』(パリ版フランス語版)による初演は、1861年3月13日パリ・オペラ座。

シャニュイ事件

2007年09月26日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

 シャニュイ事件は
(タイムカプセルを埋めた1907年6月28日)-(原作上の「私」がオペラ座の古い記録を調べている時点から30年前後)≒1877年
「ラホール王」上演後≒1878年頃 と言う計算です。


1 P263(ハヤカワ)で「劇場」が真っ暗になる→「舞台」が灯りに照らされる。と言う一瞬の明滅はガス灯でなく「電気的な照明」によるものだと思われます。

ガス灯は一瞬にして「消えたり」「点いたり」しません。


仮に客席が電気照明に変わった1881年以降にシャニュイ事件が起こったと考えるなら、まだ照明が電化れていなかった舞台より客席の方が早く灯りがつくはず。



2 オペラ座に来たてのラウルは度々「見たことのないまばゆい光」を目撃しています。
これはアーク灯だと思われます。その光を「見たこともない」と表現している事からラウルがオペラ座に来たのは1878年のアーク灯設置以前。
※ 1878年当時 オペラ座では「アーク灯」が使われていました。
 
彼は「アーク灯」という言葉すら知らないようです。



3 さらにパリ万博時にオペラ座前で電気ロウソク(アーク灯)の実験をした事実があります(1878年5月1日)。それ以前なのではないでしょうか? (パトロンの弟のラウルが見なかったというのは考えにくい。少なくとも「電気ロウソク」「アーク灯」という名称くらい知るはずです)


 原作中でヴェルディ作曲の『オテロ』(1889年初演)を歌っている」とも考えられます。しかし1816年ナポリ・フォンド劇場で初演されたロッシーニの『オテロ、またはヴェネツィアのムーア人』というオペラもあります。角川ですと「ヴェルディ作曲」となっていますが原文に近いといわれているハヤカワでは作曲者の名前は明記されていません。

4 仮面舞踏会が行なわれるのは1から2月。

 

原作中の「ブケーの死体が置かれていたのは大道具「ラホール王」の書割なのですが
の初演が1877年4月22日パリ・オペラ座なので1877年1月から2月というのはおかしいのです。

なのでシャニュイ事件は1878 年1月から2月あたりに絞り込める」とも考えられるような気がします。

ARCLAMP=舞台照明用語。アーク灯は炭素電極感の放電によるもので、白熱電球よりも古くから各種の照明として用いられた。
今日では取り扱いの容易な新しい放電管として、クセノンアーク灯などが実用化されている。


エリックの拷問部屋はもしかしたらこの1878年頃オペラ座のアーク灯に電力を供給していた電力会社から盗んでいたのかもしれませんね。












普仏戦争と築城

2007年09月26日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
普仏戦争中も自分の城造りに励むエリック氏。

「戦争中なのに・・・」


と思ってしまいがちですが、野を越え、森を越え、似たような事をしている人物がいます。

って2005年版の映画を見た時点でヴィスコンティのあの映画・・・「ルードヴィヒ」を重ねた人も多いのではないかと思います。



湖 舟形の白鳥 鍾乳洞

とか。



このルートヴィヒ2世、普仏戦争のあいだにもノイシュヴァンシュタイン城工事を続行。

電気仕掛けの人工洞窟にローレライを再現してみせたリンダーホフ城を造ったりなど共通点も多いような・・・。


熱帯園にも夢中だったと言うことです。ミュンヘンにガラス張りの温室など造っていたようですね。ちょっと絵を見た感じだと「ハウルの動く城」に出てくるような感じのものです。


今更な話題だったかもです。



ツェツェバエ

2007年09月24日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

雌雄ともに哺乳類や鳥類から吸血し、血液を栄養源として生活しており、一度の吸血で40~150mgの血液を摂取する。この点が、雌のみ卵巣発育のための栄養源として吸血する、カやアブ、ブユなどと異なっている。


ツェツェバエの生態で非常にユニークな点はその繁殖方法にある。雌は産卵するのではなく、胎内の子宮で一度に1個の卵を保持し、孵化した幼虫は6~7日かけて雌の分泌する栄養物質を子宮内で摂取し、老熟幼虫にまで発育してから産出される。幼虫は速やかに植物の陰など直射日光の当たらないところで土中に潜って蛹となり、30~40日後に羽化する。1個体の雌は羽化後80日齢まで産仔可能であり、生涯に6~8回の産仔を繰り返すといわれている。



そうかぁ~吸血バエなんだ!!

吸血ってところがグラム・ストーカーだね


コンゴの森

2007年09月24日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
コンゴの悲しい歴史はさておき、ここは「マウンテンゴリラ」の生息地らしいですね。今、知った。


オペラ座ファンとしては「コンゴ」→「コンゴの森」→「ツェツェバエとライオンのまね(by ERIK)でしょう。


まあねぇ、「ライオンのまね」なら何となくカッコいいけど・・・・。

「オペラ座地下の拷問部屋で『マウンテンゴリラ』のまね」だったらかなりひきまくります。


「アホらしいほど簡単なことさ!!」(by ERIK)な「地下水路に葦の枝で空気を吸い込みながら潜り、侵入者に近づき歌いながら殺す」と言うのも絵として考えると相当悲しいものがあるが、マウンテンゴリラも破壊力ありすぎですね。


ま、蝿のまねでも猛獣のまねでも、ざるで小豆を転がすのも「人生一回きり、好きだけおやり」な気分ですね。







なんだがアニメ「ターザン」見たくなりました。てか、コンゴにライオンっているのかな?


「カタンガ・ライオン」と言うのがいるみたいです。


お詫び

2007年09月23日 | Weblog

本当に申し訳ありません。

まったく気づいていなかったのですが「TRESURES」のコーナーがリンク切れまくりでした。

普段「GALLERY」とか見直さないので、いつの間にやらこんなことになっていたのか見当もつきませんでした。


素晴らしい作品が見られないような状態になっていて作者様や訪問者の皆様には本当に土下座ものです。


すみませんでした。