goo blog サービス終了のお知らせ 

The Phantom of the Opera / Gaston Leroux

ガストン・ルルー原作「オペラ座の怪人」

友達

2012年04月27日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

http://rauru561868opera.web.fc2.com/001gennsaku-mokuji/gensaku-frame-zentai.html

フィリップ・ド・シャニュイ(ラウル・ド・シャニュイの兄)とルルーがノルマンディ地方のウーという学校で過ごした事がある、と以前サイトに載せた事があります。

「Eleve-pensionnaire au college d'Eu (Seine-Maritime), il a pour camarade de jeux Philippe d'Orleans, fils du pretendant au trone de France.」
(ルルーはウー大学・中等部の寄宿生だった時に、フランス王請求者の息子のフィリップ・オルレアンと友達だった)

と書かれている時々もあり、「もしかしたら…」と言う事もあるかもしれません。

 

とも書いたのですが、先日のジュール・ヴェルヌ本によれば、二人は友達だったと明記されています。しかもフィリップ・ド・シャニュイのモデルかもと(個人的に)考えているこのフィリップ・ド・オルレアンの屋敷の修理をルルーの父親が請負ったと書かれています。

しかもこの修理に、19世紀フランスの建築家で、中世教会堂の修復で知られるウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク(1814~1879年)が建築家として携わっています。

この建築家は古建築の修復に関わりラ・マドレーヌ寺院の修復を手始めに、パリのサント・シャペル、ノートルダム、アミアン、ルーアンの大聖堂など多くのロマネスクやゴシックの教会堂、城館の修復、復興に携わった人物です。

1840年のヴェズレーのサント=マドレーヌ大聖堂 (Basilique Sainte-Madelaine) の復元にも関わっています。この教会は聖マドレーヌ信仰で有名な教会だったりします。マグダラのマリアの遺骨(←寺伝)もあったりします。

 

 

 ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク(1814~1879年)

 


13日の金曜日

2012年04月26日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

昨日のレンヌ・ル・シャトー関連「ジュール・ヴェルヌの暗号」はとりあえず斜め読みしました。

あの時代、ジュール・ヴェルヌ、モーリス・ルブラン(アルセーヌ・ルパンの作者)、ガストン・ルルーの他、ジャン・コクトーやジョルジュ・サンドなども秘密結社に入ってたか関心が高かったっぽいですね。

ガストン・ルルーの作品の中でもっとも秘密結社が色濃い作品は日本語訳がないのが残念です。それは「神秘の王」というのですが、その作品中に「RC」というイニシャルを扉に書き付けるという場面が出てくるのですが、そのイニシャルは秘密結社「薔薇十字」RoseCrossを暗示してるのだとか。

そういえば、「R・C」を書き付けると言えば、原作の最後にラウルが壁に書いてたな~、などと思い出しました。「Raoul de Chagny」なのでイニシャルは「R・C」。

 

ラウルのご先祖様として紹介されている「ルイ10世」のお父さんは「フィリップ4世」で、テンプル騎士団を凄まじく迫害した人物。wikiによれば・・・

1307年10月13日、フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行った。
異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定された。

ちなみにこの1307/10/13は金曜日で、「13日の金曜日」の元となった事件だそうです。

とあって、秘密結社というより迫害者。う~む。/(-_-)\

 

ご先祖様のフィリップ・オルレアン公爵もフリーメーソンだそうです。

 

何というか、どうでもいいことなんですが、やはりミステリー作家ですから、何か謎があるんじゃないかとか思ってしまいます。クリスティーヌもエリックもキリスト教関係の名前ですしね。

 

 


レンヌ・ル・シャトー

2012年04月25日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

ミシャル・ラミ「ジュール・ヴェルヌの暗号」という本を読んでいます。

ヨーロッパ最大のミステリのひとつにレンヌ = ル = シャトー事件があるのですが、この謎めいた事件を背景に、ヴェルヌはフリーメーソンを始めとして、様々な秘密結社と関連していたことを彼の作品は暗号として語っていたらしいです。科学啓蒙家にして生粋の合理主義者と思われていたヴェルヌは、実は、オカルティストであった。また、ヴェルヌばかりか、デュマ、ルルーー、ルブランなどもレンヌ = ル = シャトー事件と秘密結社という視点から再解釈した一冊です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この本からの一節です。 

 

誰でも知っているようにガストン・ルルーは数多くの推理小説や幻想小説を書いた作家で、代表作に「オペラ座の怪人」、「黒衣夫人の香り」「黄色い部屋の謎」がある。私は個人的にルルーの文体があまり好きではないが、もう何年も前からなぜか記憶にこびりついて、ときどき思い出す一文がある。

 

「司祭館は魅力をうしなっていないし、庭園も輝きを失っていない」(「黄色い部屋の謎」)で、事件の鍵を握る文句)。どうということもない文章ではあるが、何か重要な秘密をほのめかしているような気がするのである。

 

この司祭館が呼び起こすのはいったいどんな思い出なのだろうか。(ミシャル・ラミ「ジュール・ヴェルヌの暗号」より)

 

 

 

たまたま偶然興味を持って買った本の一節。私もこのフレーズには関心があった上に、フリーメーソンや聖杯伝説といったオカルト的な要素が「オペラ座の怪人」の中には暗示されているかも~、と考えていたので、似たような人がいて嬉しいです。

しかもこの本の中にガストン・ルルーとジュール・ヴェルヌが若い頃にあったことがあるのではないかと示唆。しかもパリ伯(もしかしたらフィリップ・ド・シャニュイのモデル)が間に入って、というのもワクワクさせられます。

そしてこの本によれば、レンヌ・ル・シャトーとガストン・ルルーにはいろいろ関わり合いがあるようですね。レンヌ・シャトーに興味があるならガストン・ルルー全作品を読破すべし、と書かれています。

そうは言っても全作品が日本語翻訳されていないので無理ですが。

 

レンヌ・ル・シャトー(レンヌ・シャトー)というのは、↓ あたりからググっていただけるとわかりやすいかと。まあ、「ダ・ヴィンチ・コード」っぽいものというか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%8C%EF%BC%9D%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%AC%8E

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

司祭館の美しさはいささかも薄れず、その庭のみずみずしさもまた同じ

 

もともとこのフレーズに関心を持ったのは、このフレーズがベジャールの「バレエ・フォー・ライフ」の原題であり、しかもこのバレエにはフリーメーソンの匂いがする、という誰か知らない方のブログの記事からなのです。
仮にフリーメーソン的な要素をベジャールが詰め込んで、レンヌ・シャトー関連のフレーズを冠したというのなら興味深いです。(でも、このフレーズ使用については特に意味はない、とベジャール自身が言ってます)

フリーメーソンとレンヌ・シャトーが何か関係があるのか、どちらに関してもよく分かっていないので答えられません。

①テンプル騎士団が壊滅された時、財宝をレンヌ・シャトー近くの「ベズ」にあった財宝だけは押収を免れたらしい。

②テンプル騎士団はエルサレムのイエスの墓である聖墳墓教会を守るため、12世紀に結成され、その究極の目的はエルサレムにキリスト教王国を造ることだった。エルサレムがアラブに攻められるとフランスに退き、レンヌ周辺に王国を造ろうとする。また、騎士団最高の総長と言われるブランシュフォールの城も、レンヌ付近にある。

そして、フリーメーソンはもともとテンプル騎士団の生き残りだったという説もあるようです。なんとなく繋がった感じがしなくもないです。

こんな本があるくらいなので関連性があるという人もこの世にはいるっぽいですね。買ってみました。

 

私は「ダ・ヴィンチ・コード」ファンでもキリスト教徒でもないのですが、どうしてこんなオカルトちっくな事にこだわるのかと言えば、ルルー「オペラ座の怪人」の怪人(エリック)が「石工」であるということ(フリーメーソンは石工集団が起源というのがメジャー)、怪人がクリスと結婚するなら「マドレーヌ寺院」だと名指しで指定、しているからです。

マドレーヌは「マグダラのマリア」の事で、この寺院には大きなマグダラのマリア像がイエス・キリストや聖母を脇役あつかいで大きくドーーーンと祭られています。
正面の壁画にキリストが描かれてはいるのですが、神様と信者席のあいだの主祭壇とも言うべき場所にマグダラの巨大な像が飾られているので、ミサの際にもやっぱりマグダラのマリアが祈りの対象っぽい感じ見えなくもないです。
イエス・キリストは大好きでも、マグダラのマリアは嫌いという信者さんはこの作りはかなり微妙なのでは、と思います。

↓ 教会内、正面。




しかもこの教会の外見がどうみてもローマとかギリシャの神殿っぽい。

ついでにこの建物を建てたといってもいいナポレオンはフリーメーソンだったとか。外観デザインもナポレオンの命令でこんな感じにw

 

話題のまとまりがなくなってしまいました。
とにかくルルーがテンプル騎士団とかフリーメーソンとか、レンヌ・シャトーとか、もしかしたら聖杯伝説(マグダラのマリアはキリストの子種を宿す聖杯(子宮←この手の聖杯伝説は割とパリでは当たり前らしいとネットで読んだ記憶が)とか、そういったオカルトちっくな事が好きらしいようですね。

 

今まで漠然とそうなのかも、と考えていたのですが、この本を読んでそんな風に考えている人が自分以外にもいて嬉しいです。

 

 

 

 

ちなみに「司祭館・・・」のフレーズはもともとはジョルジュ・サンドからの借用で、ただ元のサンドの方は「魅力」が「清潔」なのだそうです。

 


トンキンの海賊

2012年04月15日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

「東インド会社と海賊」というタイトルを見て、思い出したのは「トンキンの海賊」という、ルルー「オペラ座の怪人」で「葦の茎を口にくわえて水底に沈む術」(という恥ずかしい、萌えには不要な術)を授けたとエリックに言われている存在です。

で、それを受けた語り手の「新聞記者」は1909年にデ・タム一味もそんな技を使いフランス軍に刃向かい、新聞を賑わせた、というような事を書いていた記憶があります。

昨日の講演で海賊というのは蒸気船等速度の早い高性能の船の出現によって取り締まられやすくなり姿を消していった、というような事を言っていました。
エリックの生きた時代というのはたくさん海賊がいたようですね。当然トンキンの海賊もいたでしょう。「富の偏在」というのが根本にある、とも言ってました。

 

デ・タム一味も海賊なのか山賊なのか分からないのですが、実在します。

上に「TONKIN」「DE THAM」と書かれています、この人はフランスへの抵抗運動で有名な方のようで「デ・タム通り」という名前の通りがベトナムにあるそうです。

 それに20世紀初頭には中国の海賊とかトンキンの海賊の小説も出版されていたようですね。東洋文庫に展示されていました。そのトンキンの海賊が『水遁の術』を使っていたのかは定かではありません。題名をググッたのですがヒットしませんでした。
まあ海で水遁の術が使えるのかも少々疑問です。

でも英語版「オペラ座の怪人」だと「pirates」なので、やっぱり「賊」なんですよね。でも下の文章を読むと「川」となっているので「川賊」(こんな言葉はないのですが)なのかもしれないですね。そうすると、デ・タムの活動範囲ともルルー「オペラ座の怪人」とも辻褄が合います。

 

"It's the silliest trick you ever saw," he said, "but it's very useful for breathing and singing in the water. I learned it from the Tonkin pirates, who are able to remain hidden for hours in the beds of the rivers."[8]

---- [8] An official report from Tonkin, received in Paris at the end of July, 1909, relates how the famous pirate chief De Tham was tracked, together with his men, by our soldiers; and how all of them succeeded in escaping, thanks to this trick of the reeds.

 



ベトナムの河に潜むで、思い出したのが「地獄の黙示録」のこのワンシーン。
ちょっと違いますが、こんな感じで潜んだデ・タム一味がフランス軍を困らせたと。

 

 


買い物

2012年03月21日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

簡単な英語本ですら、翻訳機を使っても相当インチキにしか読めないのですが、このレトロな表紙に惚れてうっかりイギリスから買ってしまいました。
(読めないのに、文字しかない本を買ってしまう事があります。宝の持ち腐れ状態なのでそのうちオークションで読める人に譲りたいと思ってます)

 

ここでも「The Kingdom of The PUNJAB」という国名の表記ですね。

この国の正式な名前って一体?と思いますが、気のせいかもしれませんが、インドとかパキスタンの本ではこう書かれている事が多いような・・・、普通「シーク教国」のような。まあ、たった数冊しか知りませんから気のせいかもしれませんが(;´Д`)←国名とか地名とか人物名だけ拾って読んでる。

「インドの縄(紐)」でなく「パンジャブの紐(縄)」というだけで、読めもしないパンジャブ本を買って積んでおいてますが、あくまでも「オペラ座の怪人」への愛ゆえだったりします☆

あまり「オペラ座」を見てないし、聴いてもいない、と突っ込まれそうですが、あの音楽を聴くと気持ち的に「パキスタン(パンジャブ王国)」「インド」「ペルシャ(イラン)」から、思いっきり激しく遠のいてしまうので、あえて聴いていないという部分も大きいです。

同じように「白鳥の湖」も抜けられないバレエなので、あえて見ていなかったり。

「イワン雷帝」はパリの香りが全くしないので、毎日聴いてます♥

  

 

 

 


ドリープ

2012年02月28日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

どうして「シルヴィア」を買ったかというと、音楽がドリープだったから。
ドリープは「オペラ座の怪人」のガラの場面の描写に一度だけ出てくる音楽家です。ついでにバレエ「シルヴィア」も出てきます。もちろんガラの演目としてタイトルだけですが。

まとめたものを自分のHPからキャプチャ

こんな感じの衣装の舞台だったのですね。凄く時代を感じさせる写真ですね。

1876年6月14日、パリ・オペラ座で初演された。当時はそれほど有名にはならなかったが、1952年にフレデリック・アシュトンの振付で再演されて人気作品となった、とwikiに書いてあります。

ノイマイヤー氏がいつ振り付けたかは分かりませんが、こうやって古いバレエが再生するのも素晴らしいですが、古い小説の中に垣間見えるバレエを音楽だけでも聴け、しかも初演のパリ・オペラ座バレエ団による踊りが見られるというのは嬉しいことです。
やっぱりガラについて調べながら「どんなバレエなのかな?ドリープ?あんまり聞かないな~。どんな曲かな」とか思いを巡らしますからね。


ガヴァルニ展図録

2012年01月25日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

日本では「ガヴァルニ」というフランスの版画家はあまり知られていないのかと思っていましたら(私自身ドーミエは知ってましたけどガヴァルニまでは聞いたことがなかったです)、伊勢丹美術館で展覧会が開かれたことがあったようですね。

その図録が(中古なのですが)どうにか手に入って今日家に届きました。

ガヴァルニは「オペラ座の怪人」の原作で一度だけ名前の出てくる版画家です。その時ともに版画家が登場しますが、あえて名前が伏せてあって、たぶんその人物は有名なオノレ・ドーミエだと私は思っていたのですが、伊勢丹美術館の解説でも「オノレ・ドーミエと並び称される・・・」と書いてあるので、やはりなぞの版画家はオノレ・ドーミエなのだろうな、と思いました。

Ce bal était une fête exceptionnelle, donnée avant les jours gras, en l’honneur de l’anniversaire de la naissance d’un illustre dessinateur des liesses d’antan, d’un émule de Gavarni, dont le crayon avait immortalisé les « chicards » et la descente de la Courtille.

 

ネットの情報だけでは分からないいろいろな解説が書いてあって興味深いです。

 

 


悲惨な結末

2012年01月06日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

アブドゥル・ハミト2世のハレムが廃された後にも肉親が引き取りに来なかった「オダリスクたち」は黒人宦官らとともにヨーロッパで見せ物になって世を過ごしたという史実があるそうです。

1909年、青年トルコ革命によってアブドゥル・ハミト2世は廃位に追い込まれたのですが、この事は大事件でしたから世界中の人々は当然のことながら、パリ在住のガストン・ルルーも知らないわけはありませんし、実際「オペラ座の怪人」の中に反映されています。

原作者としては、今まさに路頭を迷っているオダリスク達の先輩が暮らした宮殿でエリックが活躍したというエピソードを物語に盛り込みたかったんでしょうね。

で、参考としてハレムのあったドルマバフチェ宮殿。(※エリックはこれとは別のユルディス・キオスク内の建物を建てたようですが…。)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%90%E3%83%95%E3%83%81%E3%82%A7%E5%AE%AE%E6%AE%BF

※ Erik then went to Constantinople and was employed by its ruler, helping build certain edifices in the Yildiz-Kiosk, among other things. But he had to leave the city for the same reason he left Mazenderan:

 

トルコの革命について報道するフランスの新聞

 

何だか文字の表示がおかしいですね(--;)

 


更新しました!

2011年12月15日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

更新しました!といってもあまり需要がなさそうなネタです。ブログで記事にしておきながら、もったいぶるのもなんなので反転してネタばれしときますね。

エリックの仕えたペルシャ皇帝はホモだった!

とまあ、くだらない内容です。それでも見てやってもいいよ、という方のためにアドレス置いておきます。

http://fantasma561868opera.web.fc2.com/001gennsaku-mokuji/gensaku-frame-zentai.html

 

 


方言

2011年02月27日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

そういえば昔、ノルマンディー出身のエリックはノルマンディーの方言で話し、ロシア貴族はイル・ド・フランスのフランス語を話す…と言うような場面を書いた事があります。

なんだったか・・・オック語とか何とか失念しましたが、フランスにはパリの人と意思の疎通がはかりにくい様な方言があったそうです。エリックは田舎者なので流暢なフランス語は話さなかった可能性も高いだろうな、と思ってます。

クリスはどうかと言うと、大学教授のヴァレリウス夫妻とともに暮らしていたので、標準的なフランス語を使っていたのでは、と思います。

そういえば原作の中でクリスとラウルがブルターニュの田舎で、おじいさんやおばあさんに昔の物語を聞いてまわった、というエピソードがありましたが、そのお年寄達はブルトン語を話していたと思われます。ブルターニュの田舎から出た事もないお年寄り達はパリのフランス語に接する機会もなかったでしょう。

その言葉が分かったと言う事は、二人はブルトン語が出来た、と言う事なんだろうな、と思います。そして19世紀と言うのはその言語が駆逐されていった時代でもあるようです。

 

どうでもよい事ですが、イランに行った時クルド人の家族とお話ししましたが、テヘラン在住のガイドさんでも彼らの方言はよくわからないそうです。大学在学中のお嬢さんの言葉はともかく、おじいちゃんとおばあちゃんの言葉は分かりにくかったんでしょうね。


更新

2011年02月26日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

原作部屋更新いたしました。これで「年表」や「スクープ」以外、今書けるものは終わったような気がします。

色々新たに情報や画像も入手でき、萌えや妄想もわいていますが、そろそろ二次創作もしなくっちゃ、と思ってます。すぐ更新できそう、と言っていた割には結局一ヶ月も更新出来なかったという。。。いや、まだ書きかけですから、頑張ってせめてそろそろ更新出来たらな~とは思っています。

本館、原作部屋、二次創作部屋(たまに裏も…一体誰がッ?!と驚愕してます)、拍手ありがとうございます。大変励みになっております。

 

どうでもいいことですが、ガストン・ルルーとビゼーって似てませんか?

 


クリスとカルロッタ

2011年02月21日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

原作部屋「カルロッタのモデル」UPいたしました。読んで頂けると嬉しいです(^^)

また、拍手を本当にありがとうございます。大変励みになりますw

 

 

それから…、クリスティーヌのモデルとされる「クリティーナ・ニルソン」の動画を見つけましたw「クリスのモデル①」にも追加しました。

http://www.youtube.com/watch?v=3epT5pHcM1w&feature=player_embedded

 

 

 


アララトの聖母

2011年02月21日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

「特派員時代のスクープ」というページを作りました。ルルーの特派員時代も主だった事件をまとめてみようと思ったのですが、分かる範囲でまとめたいと思ってます。

で、取材した事件の中に「トルコ人によるアルメニア人大虐殺」という事件がありました。日本ではほとんど知られてない史実ですが、ググってみると、アルメニア人大虐殺というのは、ヨーロッパでは、トルコがこの大虐殺さえ引き起こさなければ、ヒットラーはユダヤ人大虐殺をしなかただろう、と言われているそうですね。

ヒットラーはホロコーストで檄を飛ばす時に、アルメニア人ジェノサイトを引き合いに「どうせ、ばれない」みたいな事を言っていたらしいですから、これを念頭においてユダヤ人を迫害したに違いないと考えられているようです。

やった事も似ていて、第一次虐殺は、国王によるオスマン領域内に住むアルメニア人の迫害、第二次は、青年トルコ党政府によるアルメニア人の移送、すなわち移送した所で殺すという、ナチが収容所で虐殺した流れと全く同じです。

しかし当時このジェノサイトに対してヨーロッパ人は声をあげてはいなかったようです。(最近、アメリカがいちゃもんつけているみたいですけど)

 

当時それほど関心を持たれていなかったこの問題を取材したと言うのは凄いなあ、と思いました。

 

実は管理人はイランに旅行した時、イランのアルメニア人の居住区、アルメニア・ヴァンク教会には行きました。たまたまそこで「アルメニア人大虐殺」の展示会がやっていて、たくさんの写真や遺品を見て、すっごく衝撃を受けたのを今でも覚えています。
(アルメニア人はペルシャにも住んでいたんですね。というか、記憶が曖昧なのですが、何か非常に優れた技術の為にわざわざ招かれたんでした)

なにやら「アララトの聖母」という映画で、この問題を扱っているようなのでポチッてみました。

アララト山は、トルコの東端にある山。『旧約聖書』にでてくるノアの方舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山と目されて、12世紀以降にヨーロッパ人により命名された。

イランではクルド人のおじいちゃんからイラン・イラク戦争の時の苦労話も聞かされました。懐かしなあぁ、また行きたい。

 

 

 


更新

2011年02月19日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

予告していた通りどうにか原作部屋更新しました。今回は「フィリップとソレリのモデル」です。

今日はこの項目をまとめるだけで年表作業は出来なかったです。サイトのページ作りはフォントを選んだり、表やセルの色を指定したり、ファイル名を変更したり、結構細かい作業がありますね。楽しいと思ってる部分もあるので、苦にはならないのですが。

そして、上の常設の記事にもURLを載せましたが、ちょっとアンケートをやろうかと思います。

管理人は原作が好きなで、特にヴァンド・デシネ(漫画)っぽい部分とか荒唐無稽な部分も好きなのですが、みなさんはどうかな、と思いまして。
と、いっても「オペラ座の怪人」ファンの方は大多数が舞台、映画だと思うので、ポチッて頂けるか非常に心配なのですが、ぜひご協力をお願いいたします。

それからこんなアンケートをするからと言って、じゃ原作絵を描くのかと言ったら、今は本当に時間がないのでそこまでは行かないだろうと言うのが実情です。(二次創作も数年やってて途中と言う体たらく)

常設にしておきますのでどうぞお願いたします(^^)

 

 

 


備忘録・予告

2011年02月19日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

次回予告を出しておけば、さすがに忘れないと思うので。

先日「クリスのモデル」を更新しましたが、次回は「フィリップ・ド・シャニュイ伯爵とラ・ソレリのモデル」(もしかしたら「カルロッタのモデル」)について。(あとは年表製作作業)

家系図のページを作ったり、翻訳したりしなくてはならないので、あと少しと言う感じです。
下の美女は「ソレリのモデル」。もちろん個人的な謎解きなので正解かは保証できませんが(^^;)