アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

第4回 貞女の鑑 袈裟御前  「浄禅寺」  操は守るもの?

2017-03-28 10:19:18 | 日記

第4回  貞女の鑑 袈裟御前と文覚上人 浄禅寺

・平成の時代には、完全に絶滅した貞女
「貞女の鑑 袈裟御前」とは、ざっとこんな話。平安の中後期、鳥羽院の時代、中宮(待賢門院)の皇女に仕えていたのが、当時の絶世の美女と言われた袈裟御前。数々の誘いを断って、院を守護奉る北面の武士である渡亘と夫婦となる。誠に仲睦まじい新婚夫婦であった。しかし、以前から袈裟御前に懸想していた同じ北面の武士、遠藤盛藤が、言い寄る。度々の要求の挙句に、お前の母親を殺すと言われ、耐えかねて「夫の亘を殺して下さい。未亡人となればあなたの思いに応えましょう。」と、そしてその夜、遠藤は、予てから教えられた夫亘の寝所に忍び込み、首を掻き切って、月夜に照らすと、なんとその首は、愛する袈裟御前。女性には何の力も策もなかった時代、夫への操を守るにはこれしか方法がなかった袈裟御前。一方、遠藤盛藤は、袈裟の首を抱えたまま数日さまよった後、渡亘に許されず手打ちを望むが、叶えられず、世の無常を感じ出家。その人物こそ、苦行の後、天下を駆け巡り、頼朝に平家討伐を進めた文覚上人その人であった。
 古典平家物語では、さらっとしか書かれていないが、吉川英治の新平家物語に詳しく取り上げられて一気に話題になった。昭和の時代には、女の「操」は守るものであったらしい。今や「操」すらない。だからこの話は、現代では理解できない、今ならば、袈裟御前、「そこまで言うなら、旦那には内緒ですよ。」と、留守中に寝所に招き、度々の不倫の逢瀬を重ねるかも知れない。そうなれば頼朝の復讐もなかったし、神護寺や東寺の復興もなかったことになる。袈裟御前は、自分の操を守り、歴史の転換も引き起こしたのである。

・神護寺
 文覚が再興した神護寺は、奈良時代末期、道鏡が女帝に取り入り皇位を狙った事件に、登場するところの、清麻呂・広虫の姉弟の、和気清麻呂が開基と言われている。なお、姉の広虫は、京都御所の西にある、護王神社に、弟共々祀られている。皇位を臣下に渡さなかった功績と、姉の広虫は、今で言う子供の福祉活動に尽力した人物である。
 京都には、三尾と、七野と呼ばれる地域がある。七野とは、内野、北野、平野、上野、 紫野、蓮台野、〆野(しめの)である。三尾とは、高尾、栂尾、槇尾で、それぞれ神護寺、高山寺、西明寺があり、いずれも歴史的に重要な古刹である。人物鳥獣戯画で有名な高山寺は誰でも知っている寺だ。
中でも神護寺の、歴史的な意義と国宝の多さは、他の追随を許さない。京都西北の愛宕山の中腹にあり、車でも周山街道を30分ほど走り、清滝川を渡った後の参道の石段はかなりの体力を要する。しかも境内は広く十分な時間の余裕をもって訪ねたい。
 楼門を潜る時には、すでに息が上がっているかも知れないが、目指すは金堂の本尊である。それは、国宝の薬師如来立像だ。他の薬師如来より威厳が感じられ威圧感さえある。重要文化財である日光・月光菩薩を従えている。入り口には、有名な肖像画が置かれている。勿論、レプリカだが、我々子供の時は、平重盛像、源頼朝像、と教えられたが、いつのまにか、藤原光能のも含めすべて、「伝」となった。現在では、足利尊氏・直義・義詮と言う説が有力だ。筆者は、歴史的背景から考えるに、直義は無理があるのではないかと思う。(一方、直義の怨霊封じの意味があるという説も)さらに北方の山を登れば、文覚の墓や和気清麻呂の墓がある。境内中央に戻ると、五大堂や大師堂などが並ぶ、板彫の大師像が、大師堂にあるが普段は秘仏だ。また梵鐘も国宝で、「三絶の鐘」と呼ばれる。菅原是善(道真の父)など、当代一流の文化人3名が関わったことでそう呼ばれている。また、書道好きには、「灌頂歴名」が、空海の真筆として貴重なものであるが、現在は、京都国立博物館に保管されている。ただし、それ自体は、斜め書きで走り書きの様に見える、丁寧に書いたとは思えない作品だ。左下がりは空海の癖らしい。文覚が再興を願い書いた、「45箇条起請文」も勿論国宝である。
 「かわらけ投げ」は、近くの愛宕山でも有名だが、こちらが発祥らしい。素焼きの円盤状のかわらけを、うまく遠くまで投げて、厄除けをする。残念ながら、訪ねた時、8月の猛暑の時で、筆者のスタミナはすでに尽きていた。熱中症を恐れて、石段下の、茶店のかき氷を楽しみに早々に降りる事にした。(ミルク金時は絶品の味がした。)
・浄禅寺
別名 恋塚浄禅寺と言われる。遠藤武者盛藤は、鳥羽離宮の北面の武士であった為、また、袈裟御前の夫、渡亘の屋敷も鳥羽のあたりにあったこともあり、袈裟の首を落とした後、ここに埋めたとされるのが、浄禅寺である。小さなお寺で、境内は自由に出入りできるが、本堂には無断では入れない。見るべきは、江戸時代になって、朱子学者林羅山が時の領主に命ぜられ建てた、貞女の鑑の顕彰碑である。平安の時代には、性(SEX)については今よりかなり大らかであったはずで、むしろ朱子学の浸透と共に、江戸時代のこのころから貞女として称えられたのであろう。
・おすすめコース
六地蔵巡り 8月22日・23日限定
上善寺・伏見地蔵~浄禅寺・鳥羽地蔵~地蔵寺・桂地蔵~源光寺・常盤地蔵~大善寺・鞍馬地蔵~徳林庵・山科廻地蔵~
全行程 車で 約6時間
 京都のお盆の風物詩。平清盛の時代に、それ以前に、小野篁が一木で彫った六体の地蔵があった。当時、六体とも鞍馬口の上善寺にあったものを、京都の重要な街道の出入り口にそれぞれ6寺へと安置された。
そこからお盆明けの8月22日23日にかけて、お盆の間、各家庭に戻っていたご先祖の霊が、6地蔵を巡ることで無事あの世に帰れるよう願ったのである。つまり、京都のお盆は、六道珍皇寺の迎え鐘で、ご先祖をこの世に迎え、大文字送り火であの世に送り、6地蔵巡りでさらに丁寧にあの世に帰したのである。因みに、地蔵菩薩は、釈迦入滅後、56億7千年後に弥勒菩薩が、この世にあらわれるまで、その間、衆生を救う菩薩である。特に母親の様に子供達を救う事から、地蔵盆などでお菓子を配ったりして、子供の守り仏のような印象が強い。しかし、人間が救われるまでの間、六道に迷う亡者を救う、特に地獄でのお導きの仏さまだと言う。要するに、閻魔様に顔が利く仏様なのだ。



最新の画像もっと見る

post a comment