アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

690 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  後水尾天皇 ② およつ御寮人事件

2020-03-24 08:23:44 | 日記

② およつ御寮人事件

 後水尾天皇の最初の戦いは、女性問題である。

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川口松太郎著書に詳しい

 徳川家康は生きている間に、幕府政権を盤石にする為には、二つの大きな仕事が残っていた。一つは豊臣氏の抹殺である。関ケ原の戦いの結果、一大名の地位に成り下がった豊臣秀頼だったが、反徳川勢力の象徴的存在である事は間違いなかった。秀頼・淀君に対して京都の巨大寺院の再建を促し、その膨大な財力を削ぐよう仕向けたりしたが、心配で仕方ない。とうとう、方広寺の梵鐘の銘文にいちゃもんをつけて戦いを仕掛けた。大阪冬の陣・夏の陣である。

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方広寺梵鐘銘文 


 そして、もう一つの仕事は、徳川家から朝廷への「入内」である。自らの孫娘を天皇の后にすることで外祖父の地位を確保することである。藤原摂関家の手法と同じだ。秀忠の第5女和子(まさこ)が、慶長12年に誕生していてこの姫を考えていた。後水尾天皇の12歳下ということになる、やや無理はある。因みに、幕末将軍家茂に嫁いだのは、「和宮」の名は、親子(ちかこ)である。それぞれ立場は反対だが、公武合体の運命に翻弄されたお二人の姫である。

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お江与(崇源院)
 しかし、入内直前に大変な事が発覚した。後水尾天皇の典侍である「御与津(およつ)」に子が出来ていることが発覚したのだ。すでに20代半ばになっていた天皇に子が出来たことに何の不思議もないのだが、出来た子が皇子であったこと、さらに和子の母が「お江与の方」であることだ。お江与の方とは、淀君の妹であり信長の妹お市の方の3姉妹の一人である。戦国の渦中に生きたお江与は、極度の「悋気」持ちであった。因みに、秀忠の隠し子保科正之は、会津藩初代藩主という優秀な大名になったのだが、お江与を恐れて生涯父子対面は叶わなかったほどだ。そのお江与が後水尾天皇に対して激怒したのである。
 結局、およつの兄四辻季継を含む公家衆6名に対して、流刑などの重罪が下された。さらに、およつ自身も程なく落飾して明鏡院と称し嵯峨に隠棲したのである。その事は、後水尾天皇の逆鱗に触れた。「逆鱗」は天皇にのみあるもので、庶民に逆鱗はない。しかし、武士との戦いに手段は限られている。唯一の手段は、「攘夷」だった。後水尾の最初の戦いだ。

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藤堂高虎


 ここで、戦国武将の生き残り藤堂高虎の出番だ。身長190cmに及ぶ武闘派だが、生涯に9人主君を変えたという世渡りの上手い高虎は、天皇に公武合体を強要し、公家衆を通じて、「此儀我等不調法に罷成候はば、切腹仕り候までにて候」と、脅した。後水尾は事実上の初恋の女性とその子との別れを突き付けられたのである。およつとの年齢差は不明であるが、魅力的な女性であったのだろう。その後もう一人皇女(梅宮)をもうけている。因みに問題となった最初の皇子は早世している(幕府による暗殺か)。生きていたら天皇の地位にもなるお子であったはずだ。
 青年天皇の恋心を踏みにじった幕府への敵愾心は、後々まで影響する。


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