アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

第3回  羽柴秀次 瑞泉寺

2017-03-27 09:18:06 | 日記

                                                  摂政関白 秀次

③ 羽柴秀次 瑞泉寺
 ・彼が本当に叔父である秀吉に謀反?
 百姓から関白になったのは、豊臣秀吉以外にもう一人いる。豊臣秀次だ。しかし、彼への歴史的な評判は、極めて気の毒なものだ。それは、およそこんな感じ、「秀吉の姉の子である彼は、叔父の出世に従ってなんの努力もせず地位が上がり、秀吉の手助けにもかかわらず素行が悪く人望にも欠ける人物で、挙句の果てには謀反の企てが発覚し切腹して死んだかわいそうな人。」である。
 しかし、そうなのだろうか。彼は当然ながら百姓の子として生まれる。姓も無い「治兵衛」が、最初の名だ。そのまま百姓でも十分幸せだっただろうに、叔父である秀吉のお陰で、最初の改名は、4歳の時、人質の相手である宮部家の形式的な養子となり宮部吉継になる。秀吉の政略に翻弄される第1歩だ。その後木下姓を名乗り、本能寺の変を挟んで四国名門の三好姓を継ぎ、三好信吉となる。そして秀吉の天下取りがほぼ終結するに当たり事実上後継者の位置づけとなる、羽柴孫七郎信吉と名乗っている。秀吉の関白就任とともに羽柴秀次とし名実共に後継扱いされている。その後、豊臣秀次となった時には、徳川家康、織田信長の次男の信雄、秀吉の弟である秀長に次ぐ序列4番になっている。官名も権中納言へ。このように出世したのは、秀吉の甥であることが最大の理由だが、果たしてこのような戦国の世に親戚が少ないとはいえ凡庸な人間がここまで取り立てられるだろうか。
 彼は、秀吉の弟の秀長同様、数々の合戦で副将を務めている。小牧・長久手の戦いで失態があり、その事が歴史上喧伝されているが、それ以外では手堅く手柄を挙げているのだ。どんな人柄か真相は分からないが、やや短気な部分があったと言われているが、20歳前後の若者がある日突然太守になったのだ、ある程度仕方ないことだろう。それよりも「謀反」の疑いだ。あり得ない。最近は、ほとんどの学者の見解も不自然であると見ている。筆者も石田三成など側近の讒言だと思っている。あるいは家康一派の陰謀もあり得る。凡庸ならば捨て置けば良いことで、侮れない人物であればこそ、秀吉亡き後の自分の天下には邪魔になると判断したのならば陰謀はあり得る話だ。
 秀吉は、何かの情報でやむなく高野山に幽閉させた。その後、許そうと思っていたのに、誰かの差し金なのか秀次自身が切腹してしまった。結果としてその恨みを恐れるあまり秀吉は常軌を逸し、彼の側室・子供のすべてを惨殺した。その時点では、秀吉も秀頼に対する異常な愛情から尋常な判断能力はすでに持っていなかったのであろう。
 秀吉の出世により、平和な百姓人生を翻弄され不幸にも死んだ一族はたくさんいる。何よりも秀吉自身幸せだったのだろうか。姉・母親を徳川の人質に出し、弟を酷使し、多くの甥や姪を政略に取り込み、自身も晩年、淀君への嫉妬に狂い、大いなる未練を残して死んで行ったのだ。
つゆと落ち つゆと消えにし わが身かな 難波の事は 夢のまた夢
幸福な人間の、辞世の句とは思えない。
 そして、まだまだ「怨霊思想」の強く残っている時代。その弔いの寺がある。

・瑞泉寺

 元々は、鴨川の河川敷にあったものだが、江戸時代、角倉了以が高瀬川を開削するとき地中から、「秀次悪逆塚」と刻まれた空洞の石塔が発見された。発見されたと言っても、処刑されたのはわずか20年ほど前の事だ。しかし、秀吉政権下であれば供養するには相当遠慮があったと思われる。妻妾、子供39人がことごとく斬首された上に、切腹さされた家臣10名と、合計50名に登るものの処刑が、ここ三条河原で実施されたのである。京都人の頭の中に鮮明に記憶されたはずである。そのお寺は、鴨川と高瀬川を挟む木屋町通りにあり歩いていても、見逃してしまうくらいひっそりとしている。門を入って5メーターほどして右に折れると、先ほどの「供養塔」が、東向きに立ち、手前には一族全員の供養塔(五輪の塔)が、立っている。近世になって、秀次の謀反には疑いをとなえる説が多くなり、今では線香が絶えない。それでも訪れる人は少なく、狭い境内だけにどこからか霊気が漂う。特別拝観日には、「高野山で自刃した秀次像」や「処刑されたご一族の真影」が見られる。
これほどの大規模な処刑は、信長に謀反して有岡城(伊丹城)に立てこもった荒木村重の時以来だ。信長は、なんと122人の女房衆を公開にて処刑した。しかし、これは明確に反旗を翻した上に、籠城1年に及ぶ戦いを仕掛けたのである。因みに黒田官兵衛(孝高)はこの時、説得に行きそのまま牢獄に幽閉され足を萎えさせた。一方、秀次は、謀反の意志が明確でなく、その形跡もない。それでも、秀吉は、秀頼可愛さで皆殺しにしてしまったのである。晩年の秀吉に人気がないのは、そのあたりが原因だ。近年の研究で、老人性躁うつ病と考えられているが、平たく言えば、燃え尽き症候群からの「ぼけ」であろう。ぜひ秀次の復権の為、彼の功績を見直す研究が進められることを望む。

・おすすめコース
木屋町通り二条~四条まで 散策しながら1時間ほど

木屋町通りを、二条通りあたりから南に向いて散策すると見どころは多い。まず、日本銀行京都支店の裏手には、島津記念館がある。言わずと知れた島津製作所の歴史記念館である。そこから南に、高瀬川一の舟入跡。吉村寅太郎寓居跡。佐久間象山・大村益次郎遭難の地などが続く。そして三条通りを越えて瑞泉寺の西方に、竜馬が拠点にしていた「酢屋」が残っている。因みに酢屋は、材木商である。近くには、竜馬の妻お龍の寓居跡もある。蛸薬師通には、土佐稲荷、通称岬神社があり、ここは勤王の雄藩、土佐藩邸のあった場所だ。このように、木屋町周辺は幕末の激動の時代の史跡が多く残っている。ゆっくり歩けば何気ない街角に石碑が立っていたりして、新しい発見が期待できる。



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